小説:ヤマアラシの見た光D
その夜、何故か日野は眠ることができなかった。自分だけが持っていると思っていた考え。それを、井出が口にしたことで、自分の感情のやり場が無くなってしまったのかもしれない。今まで事あるごとに逃げ込んできた考え方は、もはや自分だけの特別なものではなくなった。
(まあ、確かにあいつの考えそうな事だな。自分が受け入れられないから、受け入れない方を馬鹿だと言うわけか。それこそ馬鹿だな。ゴミはお前だ。クズめ。死んじまえ。死ね!死ね!死ね!死ね……)
一旦「死ね」という言葉が脳裏に浮かぶと、日野の思考がそれ以上進むことはなかった。繰り返す度に、井出に対する嫌悪感ばかりが高まっていった。そして、気付くと日野は汗だくになり、部屋は暑くなっていた。
窓を開け放つと、涼しい風が流れ込んできた。それによって、彼のオーバーヒートした脳もいくらか冷静になった。窓の外には、数多の星が見え、家の周囲からは虫の歌が聞こえてきた。溜め息をつくと、部屋から出て階段を下り、冷蔵庫に向かう。冷やしてあった麦茶を、パックから口に流し込んだ。
(ちくしょう……)
初めはどうでもいいと思っていた事だが、何度も反芻して思い出すうちに、日野の怒りは増幅されていった。それはいつしか憎しみと嫌悪感に変わり、井出が、あの教室にいる資格の無い、早いうちに消し去った方が良い人間に違いない、と言う考えにまで至った。そして、日野は本人の前に行くとどう考えても言葉にすることのできない罵言をいくつも用意して、ひたすらに繰り返すのだったが、どうしても心の中に、それに抵抗しているもう1つの感情を感じてしまった。いうなれば、それは冷静で客観的なもうひとつの人格のようでもあり、自然で主観的な自己抑制の感情のようでもあった。自分の周りの人間がどうしようもない馬鹿に見えるのは、自分の我が通らないことに対する僻みでしかないのではないか。誰もが納得できるような真理が存在しない問題に対して、自分の主張が正しいと考え、他の意見を軽蔑するのは、ただの自己主張に過ぎないのではないか。こういった不安が日野の周りに纏わり付いていた。だから、彼は自分の意見を主張することが少なかったし、他人の意見にあれこれと文句を言ったりすることは決してなかった。心の中で起こるあらゆる葛藤そのものが、日野の自己主張を妨げていた。
(俺は臆病者なのかもしれない)
日野はよく、こんなことを考えたりした。
(皆自分の意見を口に出して他人の主張を潰そうとするけど、冷静に自分の意見の穴を探してから喋ってるのか? 相手の言葉を遮ってまで、それも下手をすれば相手の意見より酷いかもしれない文句をつけられるのか? それはその責任を背負ってまで、主張すべきことなのか?)
布団に入った後も、その思考は続いた。寝苦しく、忘れようとすればするほど頭が痛くなるような気がした。布団が汗で蒸れているのを感じ、日野は少し足を持ち上げ、中の空気を入れ換えた。カチリ、と時計が3時を回る音が聞こえたが、次の瞬間目を開くと、既に朝日が昇っていた。

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