何か知らんけどお腹を壊したことだけは間違いないぜ!
緩勾配の風景O
美沙子の死に克義は大きな衝撃を受けた。喪失感は癒えるどころか日を追うごとに大きくなり、絶えず彼を押し潰そうとした。彼女の死を先に受け入れたのは、幼い小夜の方であった。小夜もまた、経験したことのない悲しみを負った。だが、小夜は美沙子のまだ生きているうちに、もう長くない事を知っていたのである。美沙子の身体は癌に侵されていた。
「お父さんに言ったら、もう治らないの」
母の病に気付いた時、小夜が言われた言葉である。美沙子はその頃慢性的に彼女を苦しめていた体内の痛みを、医者であり克義の友である充に相談していた。出来る限り医者にかかることを避けてきた美沙子である。既に手遅れだった。しかし、充の「すぐに入院しましょう」との言葉を、美沙子はきっぱりと拒否した。美沙子曰く、
「治らないと言われたら、家族との時間をこれ以上減らすわけにはいきませんよ。それに、最期がずっとベッドの上なんて、私には耐えられない」
との事であった。それ以来、美沙子は克義の留守を見計らって充の元を訪れ、時には充を家に呼んで治療を続けた。そして、なるべく綺麗な自分の姿を遺そうと、化粧を念入りにするようになった。小夜は、2人のやり取りを偶然聞いてしまったのである。美沙子に釘を刺されたとは言え、この堪え難い秘密を守り通した小夜は立派だった。
充は美沙子の死後、誤解を解こうと克義の元を訪れた。克義が癇癪を起こしたのは、癌の話を秘密にしていたからだと考えたのである。充は、克義が美沙子と自分の会話を聞いたのだと思っていた。インターホンを鳴らすと、しばらく経ってドアが外側に開いた。克義の目は、驚くほどに虚ろだった。
「克義」
「……」
「本当にすまなかった」
「よくもまあ、ここに来られたもんだな」
「美沙子さんはな」
「もういい、二度と顔を見せてくれるな。次にお前を見たら、殺してしまうかもしれない」
克義はそれだけ言うと、誰かに操られているかのような動きで扉を閉めた。充はそれ以上言い返す事もできず、渋々踵を返した。充にとって克義の反応は意外なものではなかった。ただ、克義の自分に対する目には、まるで充が美沙子を殺したかのような憎しみが籠っていた。彼には、その真意が理解できず、ひとまずしばらく放っておくしかないと感じたのである。
階段を降り、自分の車にキーを差し込んだ時、再び玄関の扉が勢いよく開き、克義が飛び出してきた。何が起こったのかその時の充には分からなかったが、先程とは打って変わって、克義の目は血走っていた。
「あいつは癌だったのか!? お前が看病してくれていたのか!?」
充は克義の剣幕に圧されて何がなんだか分からなくなり、首を小刻みに縦に振ることしか出来なかった。それを見て、克義は地面に膝から崩れた。傍らには不安げな表情の小夜が立っていた。この時、克義は事の真相を初めて知ったのである。


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