10月 7日 (日) 曇り
今、夜中の12時半すぎ、厨房から“ペッタン、ペッタン”と音がする。 真理子が明日のパンの仕込みをやっている音だ。 今までだったら“ガ〜、ガ〜ッ”だったが4〜5日前から“ペッタン、ペッタン”に変わった。
「あれ〜? ね〜? クイジナート(フードプロセッサー)のパンこね用の羽根知らない? さっきから探してるんだけど全然見当たらなくて・・・」
「知らないよう〜 でもあれなかったら大変じゃん? パンどうすんの?」
「どうしよう 明日はいつもとは別にパンの注文受けてんのに・・・ 困ったな〜」
必死で探した。 そんなに小さい物ではない。 どこかに嵌ってしまって分からないとか、何かの物陰に隠れてしまって見えないとか。 あらゆる所を懸命に探した。 しかし出てこない。
そう言えば前にも似たような事があった。 もっと大きな物である。 無くす筈がない物。 包丁だ!! そんな大きな物だったらすぐに出て来そうなものだが未だに出てこない。 何処に行ったのだろう。 不気味だ。
今回はそれほど大きな物ではないが有りそうなとこは勿論、厨房器機の下、炊飯器の裏、製氷機の横、這いつくばって探した。 でも姿を見せない。
「こういう時は意外に当たり前の所にあるもんだよ!! クイジナートにセットしてあったりして・・・」
「ないよ〜 全く〜 あの羽根がないと手でこねないといけなくなるよ〜〜 大変だな〜」
当店のパン生地は北海道産強力小麦粉とイーストそして深層水と少量の甜菜糖それに深層水塩で作る。 これらを混ぜ合わせそしてこねて作る。 このこねる作業が大変なのだ。もし機械がなかったら手でこねなくてはいけない。 生地が“プツッ”と切れないようにもっちりと滑らかになるまでこねるのには大体15分位休みなく作業を続けなくてはいけない。 それも一つの生地に対してである。 いつも2種類以上の生地を作るのでそれだけで30分以上は掛かってしまう。
「いいわよ! いいわよ!! 手でやるわよ!!! やりゃ〜いいんでしょ! やりゃ〜〜〜〜〜!!!!」
真理子は生地をこねだした。 “ペッタン、ペッタン”という音をさせながらもくもくと続けた。
『あんにゃろ〜 こんちくしょう〜 ろくでなしめ〜 ひろしのばかやろ〜』
何て思いながらこねているのだろうか。 顔が真剣そのものでちょっと近寄り難い。
「・・・ま、真理子さん? 何かご機嫌悪い??? もしもし???? 『おかしいな〜 普段から優しいご主人様なのにな〜』 ・・・あの〜 妙に音がでかいんですけど??? はははっ・・・」
「・・・」
黙ったまま厳しい顔でこね続ける。
「お〜〜い もしも〜し? 何かいやな事でもあったんでしょうか??? ご相談電話受け付けますが??」
電話が繋がった。
「ん??? いや! 何でもないよ。 ほら、私焼き物好きじゃない? 生地こねてたら学生時代思い出しちゃって・・・ この生地の感触も土に似てるな〜 何処となく あ〜 又何時か焼き物やりたいな〜」
ペッタン、ペッタンやっている真理子の瞳には焼き物に打ち込んでいた学生時代が映っていた。
「何だ〜〜 そうだったのか、良かった! やればいいじゃん! やんなよ!!」
「ムムッ!! 何時やんのよ!!! あんたの好きなギターと違って空いた時間なんかじゃ出来ないわよ!!! 最低半日はいるわよ!! アタシやりだしたらず〜〜〜っとやってるわよ!! いいの?? どうよ!!」
いかん! 雲行きが怪しくなってきた。 ペッタンの音が落雷のようにドスン、ドスン!! になってきた。
「ま〜ま〜 いつかはやれるようになるよ。 又そのようにしなくちゃいけないね。」
「そうよ。 全く! 結婚する時に『窯買ったげるよ!!』って言ったくせに」
えっ! 待てよ、そんなこと言ったっけ?? 確か民法によると“妻が結婚の際に窯をねだった時には15年を時効とする”と書いてなかったっけ? ある、ある、きっとあると思うよ。
ま〜そのうち趣味に生きるのもいいよね。 何とかしてあげましょ!! そのうちに。
羽根は無くしてすぐにそれを注文した。 それが昨日やっと来た。 数日間の手作業のパンこねからやっと開放される。
「お疲れ様! 真理子、やっと少し楽になれるね。 ・・・あれっ 何やってんの?」
ここ数日間手ごねのパン生地作りが気に入ったか待ち遠しかった筈のそれを使おうとしない。
「何か苦じゃなくなってきた。 結構好きかも!」
ま〜あんまり無理をすると大変だよ。 他にもやることいっぱいある訳だし。
生地を土と思ってこねているのだろう。 今日もペッタンペッタン と快音が真夜中の厨房に響いている。

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