11月 14日 (水) 曇り
一人の男の人を囲んで来客がなにやら神妙な面持ちで一心に聞き入っていた。 その男の人はここ富屋食堂の女主人で特攻兵達に“小母さん”と慕われていたトメさんのお孫さんのようだ。 訪れた人達に今は亡きトメさんの代役の語り部として当時のエピソードを後世に伝えているのだ。
静かに彼は語った。
「・・・ある晩・・宮川さんと言う特攻兵が祖母の所にやって来て、『小母さん・・・お世話になりました・・・明日・・・出撃します・・・悲しまないで下さい・・明日の晩、僕はホタルになって帰って来ますから追い返さないでくださいよ。』
そう言って次の朝宮川さんは笑顔のまま飛び立って行きました。
その日の夜のこと、沢山の特攻兵達で賑わう食堂に何処からともなくす〜っとホタルが一匹入って来てゆっくりと辺りを2〜3回廻って真ん中の柱の上の方に止まりました。 祖母は皆に言いました。
『・・・皆さん、宮川さんですよ。 あのホタルは宮川さんですよ。・・・』
皆はその柱に止まったホタルを見上げて全員で“同期の桜”を歌ったそうです。
・・・・・・全く・・・正面を見ていられなかった。 被っていた帽子を深く被り直して天井の方を見てる振りをするのが精一杯だった。 気を反らせる為に関係ない事を考えたりしたが震えている口は隠せなかった。
元海軍飛行兵のご常連がカウンターに座った。
「いや〜 ほんとに行って良かったですよ。 あんなドラマみたいな事が現実にあったんですもんね〜 戦争は誰一人幸せに出来ないのにね〜 彼らにはホント気の毒だな〜 それに今の日本があるのは彼ら戦争で犠牲になった人があるからかもしれませんね〜 忘れたらいけませんね〜」
「そや! あの頃は世の中全部がそんな感じやったから今の人に言うてもわからんやろけどな。 皆純粋に親の為、愛する人の為に死んでいったんや。 忘れたらいかん! 」
ご常連は当時17、18歳。 特攻予備軍として名古屋の方で日夜訓練をしていたらしい。 ある日こんな体験もしたと言う。 轟音と共に米国の爆撃機B−29がやって来て自分の真上に来た時その巨大な腹が“パカッ”と開いた。 次の瞬間バラバラと爆弾が落ちてきたという。 しかし冷静にも、
「待てよ! 自分の真上で爆弾落とし始めたと言う事は、奴らは飛んでいる訳やからここには落ちてこんな。 よっしゃ!」
暫くして遙か前方で爆音と火柱が上がったらしい。 又こんな経験もある。
敵機が焼夷弾を落として来て辛うじて逃げる事ができた、その時見た光景が目に焼き付いていると言う。
「焼夷弾あるやろ? 焼き尽くすやつ。 あれがな〜わしの所に落ちて来よってそりゃ〜 必死で逃げたわ〜 わしは何とか逃げれたけど、やられた人も居ったやろな〜。それよりかその時の光景が忘れられんわ〜 綺麗やったで〜 変な話やけど。 そこいらの花火なんぞ比べ物にならん位。 そりゃ綺麗やった!!」
彼にもっと大っぴらに戦争のことを語って欲しいと言った事がある。 そうすると、
「・・・わしら〜 なんかよりもっともっと苦労された人が居るし、わしら〜がそんなこと語るのは気が引ける。」
少年兵として訓練をしている途中に終戦を迎えた。 彼からしてみれば戦地に行き実際に敵と戦っていた人、そして死んでいった人、そんな人を差し置いて自分が戦争を語るやなんて・・・と、思うらしい。 しかしあなたも後数ヶ月戦争が長引いていたら間違いなく特攻隊として青空に砕け散っていたのではないか。 その体験だけで充分過ぎるほどではないか。 今の日本が教育として教えない限りあなた達戦争体験者が生の声を後に続く人の為に伝えなくてはいけないと思うのだが。 それが犠牲になった人達へのせめてもの償いではないか。
『・・・そんなことはわかっとる・・・』
たぶん心の中でそう呟いてくれるだろう。
「ちょっと紫煙を・・・」
と言って席を立った。 真っ赤になった太陽を拝みながら一人タバコを燻らせる。 何を思いながら夕陽は見つめているのだろう。 少年時代の事だろうか、それとも戦争で無くなった友の事だろうか。 パッケージには“PEACE”と書かれている。
一筋の煙が2〜3回螺旋を描いてゆっくりと天に昇って行った。

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