2014/4/26

GWの禅修行  コラム
 

ここ一年ばかり、微妙に心がざらついているワタクシ。
自覚しているし、原因も認識しているので、時々こんな内省本を読んで癒されてみる(笑)。

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禅寺の住職が語る、煩悩のお話。
特に興味深かったのは、「怒り」の煩悩についての分析。

私たちが他人に対して怒りの感情を持つのは、その人の
@「怒り(攻撃性)」
A「欲望(収奪性)」
B「愚かさ(無能性)」
のいずれかを察知した時だという。

このうち、@の「怒り」に対する怒りは、自分に対して直接的に向けられる攻撃に対し、わが身を守るための自衛本能として発動されるもの。
また、Aの「欲望」に対する怒りは、強欲さ、狡猾さによって自分の利益を害する悪意ある相手だと認識することにより発動される。

これらに対して、Bの「愚かさ(無能性)」に対する怒りは、自分への直接的な実害はなくても発動される。
言うことを聞かない子に対する親の怒り、家事を手伝ってくれない夫に対する妻の怒り、社会のルールを守らない者に対する市民の怒りなどはこれに含まれる。

ここで著者は、自分がどのような対象に怒りを向けているかを省みることによって、自分がどれだけ「怒りっぽい」かがわかると説く。
そもそも、他人は自分の思い通りになどならぬもの。
大して実害もなく悪意もない他人の「愚かさ」に対してイライラしているのであれば、「ああ、自分は今、とても怒りっぽくなっているなあ」と視点を変えてやれば、心も鎮まるという。
なるほど、仰る通り。
自分の心の声に耳を傾けてみるのは、大切なことである。

一方、私は、このくだりを読んで、少し違う分析をした。
私は、人の「感情」というものは、基本的には動物的本能の文学的表現だと思っている。
人は群れで生活する猿であるから、群れの安全が脅かされることを恐れる。
自分の属する群れの個体の一部が、無知や無分別によって群れ全体を危険に晒しかねない行動をとったとき、その個体に対する「怒り」の感情が本能的に発動される。
他人の「愚かさ」に対する怒りとは、そういうものなのだろうと思う。

そうすると、他人の「愚かさ」に対しどれだけセンシティブになっているかは、その群れに対する自分自身のコミットメントの深さ=責任感の現れであるということもできそうである。
だとすれば、この感情は決して悪いことではないし、むしろ群れ=社会を守り、維持するうえで最低限必要な本能=感情であるとも思われる。

ただし、過剰な責任感は自分自身を苦しめるし、「怒る」ためには多大なる精神的エネルギーを要する。
現実問題として、立場上必ずしもそこまでは必要ない=求められないという場合もあろう。
結局のところ、「必要以上に肩に力を入れないことが大事」という当たり前の結論に落ち着くのかなあ、と思った次第である。

以上、部下を持つ悩める上司の皆様のメンタルヘルスのお話でした(笑)。


ところで、この本で語られているエピソードの一つに、「相手を屈服させて自分の価値を実感するのは愚かしいことである」というのがある。
それを読んで私は、最近、沢尻エリカのドラマでも話題になっている「マウンティング」の煩悩のことだな、と思った。

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「マウンティング(mounting)」
サルがほかのサルの尻に乗り、交尾の姿勢をとること。霊長類に見られ、雌雄に関係なく行われる。動物社会における順序確認の行為で、一方は優位を誇示し他方は無抵抗を示して、攻撃を阻止したり社会的関係を調停したりする。馬乗り行為。(大辞林)


人間社会におけるマウンティングとは、日常のコミュニケーションにおいて言葉や態度により「自分の方が立場が上」と誇示する行為をいい、「マウンティング女子」という言葉が端的に示す通り、男性よりも女性の間で多く見られるという。
男性の場合、職場などその属する組織の中でのパワーバランスは自ら誇示するまでもなく明らかであることが多いのに対し、女性のグループ(例えばママ友)の場合は、必ずしもパワーバランスが明確ではないかららしい。

しかし、男性社会においても、例えば「釣り人」という大集団は組織化されていない。
そして、釣り人は、「釣果自慢」や「腕自慢」をせずにはいられない因果な動物である(笑)。
これは、ママ友の間で繰り広げられるマウンティングと同じものなのだろうか?

私は、少し違うのではないかな、と思っている。

釣りは、人間が本来持っている狩猟本能を代償的に満足させる遊びである。
そして、釣果自慢をしたいという釣り人の欲求は、大きな獲物を仕留めることによって自分の力を集団内で誇示し、集団を統率した我らの祖先から脈々と受け継いできたものである。
集団を守り、養う能力。
男の甲斐性の本質は、原始の頃より何ら変わっていない。

しかし、現代社会において獲得すべき獲物は、動物や魚から、お金に変わった。
いくら魚を釣ってきたって、それで家族を養えるわけではない。
かえって、道具やガソリン代にお金をかけるくらいなら、魚屋で魚を買った方が家計にとってはプラスである。
釣りに呆けて仕事や家庭をおろそかにすれば、放蕩者として非難されもするだろう。

誰もがそのことを分かったうえで、なお釣果を誇り、家族や友人は愛情をこめてこれを称賛し、手柄話に耳を傾ける。
まるで、マンモスを仕留めて帰ってきた勇者を讃えるように。
つまり、釣りという遊びは、「釣果自慢」や「腕自慢」も含めたプロセス全てがバーチャルな代償行動であり、家族や友人の暖かい理解と寛容があってこそ成り立つものなのである。
釣り人が持つべきは、ひとりよがりな自尊心ではなく、感謝する心なのだろうと思う。

私は以前、「大きな魚を釣ったり、沢山の魚を釣る人が『偉い』と思うのは妄想である」と書いたことがあるが、それは上記のような意味である。
また、「釣果自慢は釣り人の愛すべき特質であって、大いにすればよい」と書いたのも、これを踏まえてのことである。

人よりも上位に立ちたいという煩悩から行う「釣果自慢」や「腕自慢」はいやらしいマウンティング行為になってしまうが、そうでなければ楽しい「遊び」のプロセスの一環であり、むしろ人と人との絆を深めてくれるものだと思う。
大いに愉しみ、般若湯でも飲みながら語り合い、盛り上がろうではありませんか(笑)。


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山口県岩国市の、「雁木活性にごり」。
端麗辛口の高発泡性のお酒。来年もリピート決定(笑)。



自分自身の反省と自戒を込めて。
煩悩退散!(笑)


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