Diaries of Ghosts

忘却の川へ流れ去る諸々をしばしこの岸辺に繋ぎとめて..日記についての日記、もしくは不在の人への手紙。

 

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2004/8/28

 「別の日記へのリスペクトとして書き始められた日記は、だから、手紙だともいえるし、さらにいうとラブレターのようなものかな。でも、このラブレターが特定の人に対して届けられることはないのです。あるとすれば、瓶詰めにされて海に流された手紙のように、時と場所を隔てて偶然拾い上げた人に読まれるくらいが関のやまでしょうか。その隔たりが遙かなものであればあるほどロマンティックなんだろうけど、そんなことは認識論的な倒錯に過ぎないのかもしれませんね。でも、その人がまた、他の誰かに宛てた返事を瓶に詰めて海に流してくれることを期待してもいるのですけど。」
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投稿者: イネムリネコ
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2004/8/27

 ネット上の日記が普通の日記と異なる点は、当たり前のことだがそれが人の視線にさらされるところにある。それでは人は何故日記を公開するのだろう。それは、自分の言葉を外部に開かれたものとして、その現前性を外部の視点にさらすことで確認したいからではないだろうか。
 ネットというものが見ることと見られることの照応関係・鏡像関係を招来するものであるならば、その中へ自身の言葉を投企することにより、ある種の関係性の発現を期待していることになる。
 その意味で、ネット上の日記はもはや単なる日記ではなく、不特定の対象に宛てた手紙のような存在になる。その手紙はどこに届いているのか、誰に届いているのか、いつ届けられたのかもわからない。それは届いた先で読まれずに破り捨てられているのかもしれない。しかし、そんな手紙を人は今日も書かずにはいられないのである。
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投稿者: イネムリネコ
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2004/8/26

 そう、もっと素直にいえば、この日記を書き始めたきっかけは、ある日記を読んだことにある。その日記の書き手は、WEB上の日記の公開性に自覚的であったし、書くということに対して人並み以上に意識的であった。その日記には次のようなことが記されていた。

 ―気持ち悪くなってでも書かずにはいられない自分がいる...
  人は何故ホームページまでつくって日記を書こうとするのか。
  それはやっぱり「読んだ」からだとしか言えない...
  わたしは自分の日常の積み重ねられた過去の何かに興味はない。
  書き続けることが「日記」なのだから、とりあえずは、書き続けよう。


日記の読み手と書き手との関係、それは、小説の読者と作家との関係と同じようなものだ。「どうして小説を書き続けるのかといえば、それは小説を読んだからだ」と書く作家の小説を読んで、自ら小説を書き始める読み手のように、私は日記を書き始める。
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投稿者: イネムリネコ
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2004/8/25

 この日記は、「日記」についての自己言及的なテクストの場でもある。そこには、日々書き連ねていくことを通じて、日記なるものの生成の現場を表象しようという意図もあるだろうか。従って、当初は概念的・抽象的な記述が続くことになるかもしれない。
 またこの日記が、「日記」についての日記であるということは、どこか他の場所(他の日記=テクスト)を参照したメタテクストの場であるということだ。つまり、どこかの誰かの日記を「読んだこと」が、この日記を「書くこと」を可能にしているのだといえようか。
 そしてここが、メタテクストの場=「他の何か」についての記述の場である以上、その参照元は多種多様なものとなるだろう。「別の何か」とは、例えば文学や映画、音楽、街の風景といった表象を喚起するものの総体であり、この日記はそうした諸々についてのささやかな記憶の収蔵庫でもあるだろう。
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投稿者: イネムリネコ
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2004/8/24


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 ここにこれから書きはじめられる日記は、架空の身辺雑記とでも言っていいだろうか。書く私という主体は括弧に括られた極めて曖昧な存在=Ghostである。
 実際の私とこの日記の語りの主体との間に直接的な関係はない。語りの主体は今後、複数に分岐していくことになるかもしれないし、主体として感じられないほどに消失あるいは拡散していくのかもしれない。すでに実際の私は「私たち」であるのかも知れないし、そもそも初めから私など存在しないと考えた方が良いのかもしれない。
 あるのはネット上の言葉の連なり=情報だけであり、ネットとは情報の海なのだから、「私」なんて本来どうだってよい、海に浮かぶクラゲのように取るに足らない存在だ。だからこそ「私」は開放されて、束の間波間に漂っていられることが出来るのだし、流れのままに、自分に纏わりついてくる様々なものに触手を伸ばし、それを感じればよいのだ。
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投稿者: イネムリネコ
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