2004/9/14
ロイヤルホテルではなく、正式にローヤルホテルと呼ばれていた。
鉄筋コンクリート造3階建てのその安宿は素泊まり一泊4200円、一見小汚いビジネスホテルに見えたが、初めて泊まった夜からそこは私にとって沖縄の大切なホーム・プレイスとなったのだった。
最初、急な出張で訪れることになった那覇市内のホテルはどこも満員で、観光パンフの宿泊リストの最後に載っていたそのホテルだけがかろうじて空室があった。というわけでそこに泊まることになったのである。首里にほど近い那覇の安里、ひめゆり通りと崇元寺通りが交差する利便性の高い地にありながら、地元のタクシーの運転手でさえその位置は判然としないことが多く、それほどまでに、そのホテルは那覇のエアー・ポケットのような場所だったのである。
当時、すでにホテルは施設としてはオンボロの極みで、使われていない空間も多く、補修に次ぐ補修が重ねられていたようだ。しかし、じっくりホテル内を見渡せば、そこここに歴史の重みを感じさせる要素が豊かにあった。何よりも、建物前のロータリーが傑出していた。それは前面道路から急なスロープで建物前に取り付いており、建物の正面スロープ下には植え込みがあってそこからデイゴの巨木が聳え立っている。花の季節の夕暮れともなるとなんとも妖艶な雰囲気になるのだ。施設内にはロビーに面してもう使われない円形のレザーのカウンター・バーや広いパーティ・ルームもあった。個室もゆったりとしてとくに全面タイル貼のバスルームは面積が一坪ほどもあっただろうか。ベッドの上には古くおどろおどろしい沖縄の風景画が飾ってあり、最初の頃は思わず額縁の後ろにお札なんかが貼ってやしないかと確認したほどである。地元の人からは「幽霊ホテル」と呼ばれてもしたし、私も2,3度強烈な金縛りや幽体離脱のような体験をしたものの、総じて快適な居住空間であった。
このローヤルホテル、復帰前の60年頃の創立であったと聞く。当時は那覇市の3大ホテルの一つに数えられていたそうで、客は米人をはじめとする外国人が主で、そのせいでゆったりとした個室に設計されていたのである。オーナーは当時まだ若かったであろう「ミス・オキナワ」なる異名を持つセレブな女性だったと聞く。また、これも復帰前のことだが、石原裕次郎と北原三枝がお忍びの婚前旅行で滞在したという話も残っている。
こんなことをどうして知っているのかといえば、これもこのホテルの大きな魅力だったのだが、親切なマネージャーのおばさんがあれこれと興味深い話を聞かせてくれたからだ。おばさんのホスピタリティは、そういった四方山話に留まらず、郷土料理のラフテーや汁物など絶品の手料理にも遍く発揮され、機会ある毎にその恩恵に預かることが出来たのである。そして、帰り際には、ゴーヤなどの野菜や1kgもあるかと思われる黒糖の塊、チャンプルーに入れると美味しいからとポークの缶詰などを持たせてくれたものだから、市場での買い物が一緒になると、空港行きのタクシーに乗るときのバッグはいつもパンパンに膨らんでいたものだった。
そんな思い出のホテルも、2002年頃には廃業し建物もきれいに撤去されて、私が昨年訪ねた時にはすでにマンションのような新しい建物がその敷地を占めていた。赤い花を咲かせたデイゴの巨木も伐採されてしまい、跡形もなくなっていた。少なからず心が痛んだ。このホテルのオーナーもすでに80歳を超えたと聞いていたし、事業も潮時とみたのだろう。折りしも、ホテル近くの交差点も拡幅され、モノレール駅の建設予定地となっていた。
那覇の街は常に更新し続けている。一方で、古くからある沖縄らしい空間を喪失し続けてもいる。首里城が復元されたのはよかったが、空港が新しくなり、天久の新都心が開発され、モノレールの建設が始まった頃から確実に雰囲気は変わってきた。昨年訪れたときには、中心市街地の古い街並みのあちらこちらが空き地となり、露天の駐車場が増えていた。かっては国際通りから一筋入り込めば迷路のような地割の低い家並がぐねぐねと続き、生活のにおいをぷんぷんさせていた那覇の街が、どことなくスカスカで元気をなくしているように感じられた。空気の濃密さ、町の奥行き、景観の厚みといったものが以前より希薄になっていたのだ。
安里のローヤルホテルは、私にとっての那覇を象徴する街のトポスであったし、それはそこにしかない場所だった。それがなくなることで那覇がまた少し遠い街になった。

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