忘却の川へ流れ去る諸々をしばしこの岸辺に繋ぎとめて..日記についての日記、もしくは不在の人への手紙。
2004/10/31
風邪を引いて仕事を休み、昼間から家でごろごろしながら、ビデオで取り置きしていた『無能の人』(つげ義春原作、竹中直人監督・主演)を見ていて、ひじょうにダウナーな気分になる。知り合いの古本屋で石の鑑賞本を手にしたことがきっかけとなり、多摩川の川原敷きで石屋を営業しようとする売れない元漫画家の物語。面白うてやがて哀しきリアリズム...
つげ義春の漫画は「ねじ式」や「紅い花」などのシュールな幻想譚と「リアリズムの宿」、「李さん一家」などの貧乏リアリズムの系列におよそ二分できるがこれは後者の系列に入る。原作のマンガは6話形式で映画ではそのなかの第1話から第4話まで(「石を売る」「無能の人」「鳥師」「探石行」)が一つの流れとしてうまく脚本にまとめられている。この中の「鳥師」は、野生の和鳥を採集する黒づくめの帽子とマントに身を包んだ神秘的なホームレス(最近は乞食という言葉も使わなくなった)がメインのキャラクターなのだが、それがこの映画にも組み込まれ(神代辰巳が鳥男を怪演)、私小説的リアリズムに独特の幻想的な趣きを与えている。とはいっても、つげ義春の描くリアリズムは、一時期の貧しい日本の、非常に辺境かつ最底辺の常人としての人々の生活を描いており、出てくる人物も事柄も変なものばかりだから、それはそれである種のファンタジーのように読めないこともない。
原作のほうは孤独な主人公のモノローグでたんたんと話が進んでいくが、竹中直人の映画版は、主人公を含む家族の物語としての性格が強く、主人公の女房の存在が大きい。原作のマンガでは最初のうち女房は描かれるものの彼女の顔はむこう向きや陰になっていて描かれない。ようやく第4話で顔が描かれる。ちょっとシュールな雰囲気なのだが、これはつげ義春によれば、当初の予定では主人公の女房が3話以降出る予定がなかったので省略しただけのことだという。映画では女房役が風吹ジュンでいい味を出している。それと息子役の坊主頭の男の子がいい感じだ。この子は、意識的な設定なのか主人公にとっては超自我的な存在で、主人公が道を踏み外しそうになるその場その場に現れては父親である主人公を牽制するのである。「父ちゃん、ぼく、迎えに来たよ。」と。つげ義春自身も原作本のインタビューで「自分の子供に対する気持ちというか思い入れは異常じゃないかといわれるときがある」と述べているのだが、そう思いながらこのマンガを読み返すと子供の描写とその存在感は絶妙だ。映画のほうは、息子の手を引きながら家へと引き返す主人公に女房が加わって歩き出す3人の後姿でほのぼのとしたエンディングを迎える。貧しいながらも幸せな家族、といったところか。
この漫画が書かれたのは、80年代の中頃だから、日本はバブル経済にさしかかろうとしていた時期である。そんな時につげ義春は昭和30年代のような雰囲気の貧乏生活を描いているのだから、ある意味時代を超越した作家だ。世間から隔絶した感覚というか隠棲的な趣味というか、それはそれで誘惑的である。元気なく落ち込んだときなど、つげ作品を読みながら自宅でごろごろしているのは、ある種快感でもある。
最後に、この映画、エンドロールの出演者を見るとはなしにみていたがキャスティングがなにげに凄い。古本屋役には大杉漣で編集者役にいとうせいこう、山川軽石役の神戸浩という役者もインパクトは相当なものがある。その他ちょい役の出演者の中には、井上陽水や泉谷しげる、周防正行や鈴木清順が名を連ねている。三浦友和や原田芳雄、本木雅弘なんてどこに出てきたのって感じ。さらに、蛭子能収や根本敬、山田花子などのカルト漫画家の名前もありました。ゴンチチの音楽もなかなか絵にマッチしていて良いです。

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2004/10/26
日本最南端の場所は沖縄県の波照間島である。そこにはちゃんと最南端の碑がある。しかしそれは日本のあちらこちらにあるような単純な碑ではない。碑らしきものもあるのだが、碑よりも目立っているのが周りの地面に大小の割り石で象られた2匹の大蛇のような石積みなのだ。その碑は沖縄が日本に復帰したときに記念事業として本土と地元の若者が協同で制作したものだという。
南の果ての波照間島にはパイパティローマ伝説という昔からの伝承がある。南の果てであるはずの波照間島の南にさらに楽園の島があるという伝説だ。パイ・パティローマのパイは沖縄言葉でいうハエ(南)の音がなまったものだから南という意味、パティローマは波照間であるから、文字通り南波照間伝説なのである。ちなみに沖縄では北はニシ、西はイリ、東はアガリという。だから波照間島の北浜もニシハマなのである。その伝説は美しい印象をまといがちだが、実はかって圧政に苦しむ八重山の島人が苦し紛れに新天地を求めようと自分の島を脱出したという言い伝えがもとになっているという。実際一部の島民が遠く台湾にまで流れ着いて住み着いたという説もあるらしい。
そんな果ての島で最も印象的だったのは、私が泊まった民宿と島の夜の暗さだった。民宿は島に数件あるうちの1軒で食事に定評のある民宿だった。もちろん離れ小島のことだから洒落た料理を出してくれるわけではなく、その量の多さが評判だったのである。郷土料理の煮物やソバと刺身、それに普通のハンバーグやサラダなんかがついてご飯も一緒にそれぞれが丼一杯くらいの量である。おまけに泡盛の小瓶がまるまる一本ついてくるのだ。どうやらこの民宿はオヤジさんが一人で切り盛りしているみたいだ。夕方からせっせと夕食の準備をしていたようだ。それを庭先で宵の風にあたりながら食せば、必然的に場は盛り上がり旅人同士で会話に花が咲き夕げの時間は長くなる。話題はいろんなところに飛んでひょうんなことからシャンソンの話になった。その時である。突然背後の家の暗闇からシャンソンの曲がカセットテープで流れてきたのである。どうやら先ほどのオヤジさんは台所の暗がりで客たちの話に耳を澄ましていたようだ。私達は家の中のオヤジさんに向かって声をかけたが、こちらに出てきて客の相手をするという風でもない。それは、シャイなオヤジさんの精一杯のサービス精神の表現だったのである。
そうして波照間の夜はふけていった。気がつくと周りは真っ暗である。私達の食事のテーブルの周りだけが裸電球に照らされてぼんやり明るいだけで、庭先から道に出てみれば真っ暗で何も見えない。空がぼんやり明るいのと遠くに電柱の防犯灯がひとつ寂しくついているばかりである。夜の散歩に出かけるのもはばかられるほどの暗さである。そして周囲の黒々とした屋敷林や森の影にはただならぬ気配も感じられる。島の人によると絶対に入り込んではいけない森もあるそうだ。その森の中には夜に青白く光を放つ泉があるという。青白く光るというのは、かって島はリン鉱石の産地だったからあながち根拠のないことでもない。しかし、いうことを聞かずに入り込んだ島民が帰ってきたときには気がふれていたともいう。あちらこちらから神様やキジムナーがこちらを伺っているような感じがした。早々に民宿に戻って眠りについた。
泡盛で酔いも廻って布団に入るなり眠りに落ちた。そして、どれくらい眠っただろうか夜中に目が覚めた。そのとき聞きなれない音が耳に入ってきた、というよりこの音のせいで目が覚めたのだ。物を擦り合わせるような音だ。それは裏庭の方、私の部屋のすぐ外側の軒下を移動している。その時なぜか私はそれが老婆が足を引きずりながら歩いている音だとわかった。多少気味は悪かったが怖くはなかったので、部屋の電気はつけずに枕もとのバッグからヘッドランプを取り出して時計の時間を確かめようとした。しかし、電池式のヘッドランプはスイッチのつまみを回しても点灯しなかった。寝る前はちゃんと点いていたのに接触不良かなんかで点かなくなったのだろう、しょうがないなと思いながらも足音は聞こえなくなったし、邪魔くさくなってそのまま朝まで寝てしまった。
朝、起きると光は眩しく、夕べのことが夢のようである。布団から身を伸ばして起きようとした枕元に件のヘッドランプが転がっている。ちゃんと使えるように直しておこうと念のため電池ボックスを開けたときに変なことに気がついた。電池の向きが入れ替わっているのだ。どうりで点かないわけである。でも、どうして?いつのまに?だれが?頭の周りを?が飛びかった。それは波照間の神様のいたずらだったのだろうか。
翌朝の朝食もそれはたいそうな量だった。オヤジさんには申し訳なかったが結構な量を残してしまった。

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2004/10/24
彼女が『鏡の国のアリス』のことにふれたので、ネコは内心ドキッとしたのでした。
うーむ、この勘の鋭さはなんとしたことだろう。それともシンクロニシティ?それとも単なる偶然の一致なんだろうか。それに、こんなことは以前もどこかであったような。遠くはなれてテレパシーも通じるはずがないのに同じ夢のようなものをみている感じ、そのときにはぼくの他にもう一匹のネコ(ちょっときまぐれなネコさんだったけど、元気にしてるかなあ)とシロクマもいたはずなんだけどなあ。
ネコが次に書こうとしていたものは再び詩の中の彼のことでしたが、その詩で引用されていた彼の言葉というのが、実は、『鏡の国のアリス』のことを書いた文章の中の言葉だったのです。
鏡、あるいはこの底なしの深さのなさ。それが鏡の中に入ることを人に夢みさせるのだ。そして鏡の中で、ひとは無限に表面にいる。われわれは決して奥にまで達することはできない。
いちばんふしぎなことは、アリスがどこかひとつの棚に目をとめて、そこに入っているものをはっきりさせようとするたびに、まわりの棚はあふれるほど一杯なのに、この棚だけはいつも空っぽなことだった。あるときは人形に、あるときは裁縫箱のように見え、いつも彼女が見つめる棚の上の棚にある大きなきらきらと輝くものをちょっとのあいだ、むなしく追いかけたあと…
深さのない表面、決して背後に送りとどけることのない表面。《われわれは表面をどこまでも滑っていく−横へ横へ、さもなければ上へ、あるいは下へ、それとも斜めに?だが、決して奥へ、あるいは底へではなく…》あるいはチェス。いうまでもなく、『鏡の国のアリス』はチェスの問題として構成されているのだ。
『鏡の国のアリス』は結局−アリスの夢というよりはむしろ−アリスのおしゃべり、鏡の前でのおしゃべりではなかっただろうか。そしておしゃべりとはだれのものでもない言語、それもまた典型的に表面の言語だろう。…そして、表面の言語の中に入るときアリスはすでに鏡の中にいる…
彼は、鏡の国は鏡の向こうにではなく、鏡の表面にあるんだっていうんだな。でも、そこはちょっと危ない場所だから気をつけたほうがいいんだって。だって、いくらそこで動物たちと話ができるといったって、動物たちはみんな頭のおかしな連中ばかりだし、アリスがそこで動物たちとおしゃべりしたことといえば、夢の中みたいな意味不明のおしゃべりばかりだったんだからね。でも、夢の中では動物たちと話が通じているような気になってたんだよね。だからって、鏡の国や夢の世界にいつまでもいたりしたらほんとうに帰れなくなるんだから、気をつけないと。ほら、ぼくも前におしえてあげたでしょう。夢の世界があんまり甘美なものだからとうとう鏡の国へいったまま帰ってこれなくなったシカゴの青年の話を。だから気をつけないと。でも、鏡の国から帰ってきたとたん、ネコとお話できなくなるのは少し寂しいかもしれないね。
それからキティ、あの夢を見たのはだれなのか、考えてみましょう。これは重大な問題なのよ。だから、そんなに足ばかりなめているのはよしなさい。…よくって、キティ、夢をみたのは、わたしか、赤の王さまか、どちらかに違いないのよ。むろん、赤の王さまはわたしの夢の一部分だったわ。−だけど、わたしだって、赤の王さまの夢の一部分だったのよ。夢を見たのは王さまのほうかしら、キティ?お前ったら、赤の王さまのおきさきだったんだから、知ってるはずだわよ。−ねえ、キティ、助けてどっちかに決めさしてよ!お前のお手々なんか、あとだっていいでしょう!」でも、腹の立つことに、子ねこは別の手にとりかかっただけです。そして質問は聞こえないふりをしていました。


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2004/10/22
台風が通り過ぎて、今日は気持ちのいい天気です。
お気に入りの日記にすぐに跳んでいけるということだけなら、
個人のインターネット・ブラウザにお気に入りとしてリンクを貼ればいいことです。
この日記のリンク集にわざわざリンクを貼ったということは、
「わたしのお気に入り」を公開することでもあったのです。
つまり、ここを訪れていただいた人にその日記を紹介したかったのですね。
だって、すごくvividな感覚とみずみずしい言葉がそこにあったからです。
若いということもあるでしょう。それはそれですばらしいこと。
でも、もちろんそれだけじゃない。なんというのか、それは
“アウラ”としか呼びようがないものなのです。
この複製技術の時代にあっても、言葉のアウラは不変です。
そう信じたいです。

−以下は、私信です。
ありがとうございます。
告知は、しようかどうか迷ったんですけど。
ほんとうに、友達ができたようで嬉しいです。
いつまでも、自分に、ナチュラルに。

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2004/10/21
−奥の部屋にも どうぞ
店の主人はそう言ってドアを開けた。
天井から鎖で釣りさげられたものは
変わった形の鏡ばかりだ。
逆三角形
瓢箪の形
人間の大きくひらいた目の形
広葉の鋸葉の形
六つの角の 雪の結晶の形
わたしがとりわけ惹かれたのは
空中から見た いびつな火口の形である。
―鏡のたわむれの中で ひとは無限に表面にいる
夭折したあの批評家はそう書いた。
この<表面>が 枠でこそ守られるのを
主人はきっと 鮮やかに示したいのだ。
火口の鏡の右はしを
わたしは右手の指で そっと廻してみた。
−あっ 裏もやっぱり鏡ですね!
わたしの頭はくらくらっとし
脾臓のあたりに 深い快感が生じた。
−そうですとも あのひとは
表面の裏側は またしても表面だ
なんて 書いてますからな。
澄みきった鏡のどれでもいい
自分をどれまでも<表面>化する美麗な窓
わたしはやたらに 一枚欲しくなった。
しかし 金が足りなかった。
いや 後払いにするとしても
自分の家の日常の どの場所に吊るすか
まるで見当がつかなかった。
もうずいぶん昔のことになる、一編の詩が新聞に掲載されていた。
それは切り抜かれて紙片となり、一冊の書物に挟まれて長い年月を経てここに今も存在する。紙は日に焼けて褐色に近く、印字は幾分脱色して薄くなっている。
その一冊の書物というのは、この詩の中でもふれられている「夭折したあの批評家」の著した書物である。その批評家も生前、この詩を書いた詩人について一編の批評を書いたのだった。
その書物で、批評家はこの詩人のことを、鏡の世界(それは冥府でもあるそうな)から帰還した詩人として書き綴っている。鏡を砕き、鏡の出口を抜けて日常の中へ舞い戻ることが出来たのは、鏡のイマージュに対するアンビヴァレンツな意識と愛=「あなたへの期待」であったのだと書く。上の詩のように、不思議な鏡に魅せられながらもそれを手に入れることなく帰路についた人のように。
しかし一方で、砕かれる鏡のイマージュはたいそう魅惑的だ。「この鏡の無限の映り返し。だが、このとき、きみとはだれであり、そしてなによりも、きみというこのぼくはだれであるのか。この無限の錯綜のなかで」しか、愛ははじまりえないのだから。「しかも鏡の砕かれる瞬間において。このほとんどイマージュそのものの純粋なイマージュ。残酷なまでにさわやかな、廃墟でのヴィーナスの誕生」のなんとエロティックで透明なことだろう。
批評家の詩人についての批評と、詩人の批評家についての詩と。
「鏡」を主題としながら、二つのテクストはそれこそ合わせ鏡のような関係を保ち、今もわたしの書棚の中でお互いを照射し続けている。批評家の死後、彼についてのイマージュを詩に封じ込めた詩人の詩が、一片の紙片となって、それが今は批評家の書物の頁と頁との間に封じ込められている。そしてそれらは時々わたしによって解き放たれもするだろう。例えばここにこのような形で。
この詩は「不思議な鏡の店」という題を持つ。掲載紙及び掲載年月はもはや不明。
この詩人とは清岡卓行であり、「夭折したあの批評家」とは宮川淳である。
宮川淳は1933年東京生まれ。東大の仏文科からNHKに入社、ディレクターとして働きながら、論文「アンフォルメル以後」によって1963年美術出版社の「芸術評論募集」に入賞、文壇にデビューした。NHK退社後、成城大学等で教鞭をとりながら美術評論や詩の翻訳、批評活動を行う。著書に『鏡・空間・イマージュ』、『紙片と眼差のあいだに』、『引用の織物』など。1977年10月21日癌のため死去、享年44歳。今日は彼の27回目の命日である。

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2004/10/14
昨日の日記で、トラックバックなるものを初めて行いました。
日記でそのブログから引用させていただいたからです。
今日、初めてリンク集にリンクURLを貼りました。
何となく、友人が出来たような感じです。
全く勝手な話なのですが。

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2004/10/13
昨日の日記で、私は自分の日記が「引用の織物」であると書きました。しかし、その後WEB上での「引用」という事柄の妥当性が遅まきながら気になった次第です。WEB日記という公開の場である限り、社会的な責任も生じますから、実際的な事柄も認識しておく必要があるでしょう。というわけで、著作権法といったものにもあたっておくことにしました。そのなかに「引用」についての条文もありました。
著作権法第三十二条(引用)
公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。
上の法律の条文だけでは、なかなか具体的な適用基準というものが見えてきません。さらに、ネットで検索してみたところ、以下のブログが参考になりましたので、リンクを貼っておきます。
[【絵文録ことのは】>>「引用」は無断でやるのが当たり前]
上記サイトによると、適当な作法によるならば引用は無断で行うことは当前ということです。引用ばかりしている私は少し安心しました。引用の範囲と対象の出所明示がなされていればOKとのこと。しかし、引用における主従関係という項目もあり、本文よりも引用文の比重が極端に大きかったりするとまずいようです(少し冷や汗ものです)。
そして、難しいのは画像の引用で、画像の一部引用は著作権法第20条の「同一性保持権」を侵害する行為(つまり一部だけ取り出すと原作を損なってしまう)にあたる可能性があるということです。WEB上の写真を適当に加工して、オリジナルとは別物とすればいいのではないかと考えていたのですが、それは間違っていたようでした。そうなると、オリジナルの写真や絵以外は使えなくなってしまいます。
しかし、書物の表紙やCDのジャケットなどは普通に個人のWEBサイトでも掲載されていますがあれはどうなるのでしょう。しかるべき著作権者から抗議を受けるといったこともあるのでしょうか。よくわかりません。映画やマンガを紹介したり批評するときにビジュアルにワンポイントとしてスキャン画像を貼り付けるといったことも原則いけないことなのでしょうか。そうだとしたら、面白くないですね。私にとっては、批評のプレゼンテーションの一手法として、画像とテクストの再提示とリミックスはあったほうがよいと考えるからです。この辺りは、実際にブログを運用してゆく中で、具体的に問題が生じないかぎり社会学習できない事柄かもしれません。先のブログで紹介されている書物等もひも解いてみる必要がありそうです。

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2004/10/12
ここが公開の場である限り、この日記を自分以外の誰かに向けて書いているのだということに、私は意識的にならざるをえません。しかし、実際はご覧のとおりの有様で、他者としての読み手を意識しているなどと書けば笑われそうなほど、このWEB日記は訪れる人もほとんどなくひっそり閑として、孤独な場所となっています。でも、本来書くということは孤独な作業だと思っていますから、ここをたくさんの人が訪れてカウンターがどんどん廻っていくことなど望みもしません。ただ、この雰囲気が悪くないと思ってくださる人がいらしたとして、そのようなごく限られた人に時折訪ねていただけるような場所となればそれで十分幸せなのです。
本来、「書くこと」の意味は書き手のなかに内在しているものであって、読み手の側にあるのではありません。読み手の側には「読むこと」の意味しかないのです。そして同一のテクストを巡る「書くこと」と「読むこと」の意味は決してイコールではありません。そこには切断といってもよい関係があるでしょう。その「切断」こそが「読み手」と「書き手」の間にあるイマジネールな閾というものではないでしょうか。
一方で、この場所を開いてしばらくになりますが、WEB日記というものはなかなか面白いものだと思うようになりました。それを書くまでは、日記はおろかほとんど私的な文章というものを書くことはありませんでしたし、書く必要も感じなかったのに、いざ書こうと思えば書くことがあるものです。覚え書き程度の事柄で、書かなければそれはそれで雲散霧消してしまうようなものですが、書けば書いたでそれがまた別の書くことを要請するという感じで、記憶の連鎖反応のような形で書く事柄が浮上してきます。そしてその事柄にケリをつけようとして、また書き始める。事柄にケリをつけるというのは、おそらく書くことによってその事柄を忘却するということなのです。ただしこの連鎖反応は、書き始めの頃に特有の現象で早々に枯渇するのかもしれませんが。
私は自分も含めて身近なことにはあまり興味がないので、自分の日常のあれこれを書く気にはなれないのですが、一方で、自分が面白いと感じたもの、気になった事柄についてはそれを書きとめておきたいという欲求があるので、どうしても書くものには記憶の描写や外部対象の叙述・引用が多くなります。ある意味でこの日記はそのような記憶の収蔵庫・引用の織物でいいと考えています。そのような場所を自分の外部に設定することで、自分の脳の外部化を図っているのでしょう。ですから、一旦手にしたノートパソコンが手放せないように、一旦書き始めたWEB日記も止め難いものとなりそうです。それに加えて、この場所は自分以外の外部と繋がっています。まさに今、あなたがご覧になってらっしゃるということも含めて、今後、外部の作用によってはこの空間がどのように異化されるかも知れませんが、そういったこともネットの可能性として視野に入れつつ、しばらくこのWEB日記を続けていくことになるでしょう。
直接には関係のない複数の日記も、WEBの世界では、応答しようと思えばそれが可能な対話空間です。あなたの日記は、「書かれたもの」として常に私に「問いかけ」、「呼びかけ」ることでしょう。あなたの日記はいつも手紙となって私に届いているのです。

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