忘却の川へ流れ去る諸々をしばしこの岸辺に繋ぎとめて..日記についての日記、もしくは不在の人への手紙。
2004/11/30
先日、京都に行ったおりに久しぶりに寺町二条の三月書房に寄った。
三月書房は、京都の街中にある昔ながらの本屋さんで、文芸書・思想書を中心とした品揃えで固定客が多く、京都では有名な本屋さんである。私も学生時代からたまに機会があれば覗く本屋さんのひとつだ。
三月書房といえば、先ごろも金井美恵子の『目白雑録(ひびのあれこれ)』というエッセイ集で少しだけとりあげられている。「ヘトヘト日記 二〇〇二年十二月」の中で、2002年の10月に日帰りの仕事で京都に行ったついでにはじめてあの有名な三月書房を覗いてきたという姉(久美子)から聞いた話として言及されているのだ。姉は三月書房についてまず、先一昨年につぶれた椎名町の本屋みたいとの感想に続いて、「思想批評コーナーに吉本、柄谷、ベンヤミンはあっても蓮実、ドゥルーズはなく、京都なのに浅田の本も無い、映画の本は蓮実がなくて川本と加藤という本屋でさ」と述べて、ひとしきりある本と無い本の著者名の列挙を行ったと書いたあと、「田舎の本屋と町の本屋だな、という気分になる」という作家の言葉でしめくくられている。その前段では、金井美恵子本人が訪れた金沢の本屋のことにふれて、そこでの文芸書のコーナーには自分の本は無く、柳美里の特集が組まれておりなんだか田舎くさいというようなことが書かれているから、作者の中では三月書房は田舎の本屋に属するのであろう。当人のことは「都心部の大型書店でしか売れない都会派作家」という誰かの言い回しで半ば諧謔的に述べられている。従って、言及はされていないが姉が尋ねたとき、三月書房には金井美恵子の本はなかったと想像される。
私自身、三月書房が町の本屋か田舎の本屋かと問われれば、町の本屋だと考える。金井美恵子は品揃えの傾向が田舎くさいと言いたかったのだろうし、その点で判断基準に違いはあるだろうが、三月書房のような書店は田舎では絶対に成り立たない商売であることも事実だ。品揃えの傾向に関しては、それは本屋の主人の嗜好によるものであり、世代的なものでもあるだろう。私は老夫婦とその息子夫婦が家族経営しているその本屋の品揃えの傾向に十分満足しているわけではないものの、10坪ほどの限られたスペースとしてはなかなかの品揃えであると思うし、現に十分時間のつぶせる場所である。
このようなタイプの本屋では、その都度自分にとっての掘り出し物が見つかる。目的的に本を探すのではなく、ただ悠然と書棚に並ぶ本の背表紙を眺めている(その行為自体が楽しい)うちに目に留まる本があり、それが実は以前に読みたいと思って忘れていた本であることがわかるのだ、というよりも手にとって始めてそれが実は欲しかった本だということが意識のうちに顕在化する、といえばいいだろうか。
その時も、まず入り口付近のガラスケースに並べられた書物の中で『久坂葉子全集』が目を引いたし、そのつながりで富士正晴の本が結構並べられているのに気づいた。山尾悠子の新刊もあったし、宮川淳の復刊本やペヨトル工房のバックナンバーも多数残っていた。三木成夫の『海・呼吸・古代形象』が平積みにされている(一体何年前からこの場所に置かれていることだろう)。ドゥルーズはなかったのかも知れないがブランショやナンシー、アガンペンはあったかも知れない、とかとか。そんな中で、私が手にとってレジに携えた書物は下の2冊だった。
フェルナンド・ペソア、『不穏の書・断章』 (澤田直訳、思潮社、2000.11.)
・一時期タブッキを集中的に読んでいてペソアのことも気になっていた。
ポルトガルの代表的詩人の数少ない翻訳の散文集。
ピエール・クロソウスキー、『ディアーナの水浴』 (宮川淳、豊崎光一訳、思潮社、2000.11.)
・このところ宮川淳の著作集や豊崎光一の本や訳本を読むことが多かった。
その流れで手が出てしまった。

ちなみに、私が行ったとき、金井美恵子の本は1冊もなかったようである。『目白雑録』のことを誰かから聞き、金井美恵子の本は置かないと主人が決めたのかもしれない。しかし、かっては彼女の『全短編集』他もろもろを見かけた記憶もあるのだけど。

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2004/11/25
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ひとつの関係を始めるのは簡単ですが、終わらせるのは結構大変です。
あるサークルを解散しました。といっても大そうなものではなく、近隣でコミックを貸し借りするサークルです。4年前に設立して会員は幽霊さんを含めて20名。メーリングリストもつくりました。小さな私設ライブラリーもお友達のお宅で構えました。ライブラリーのデータベースもつくりました。オフ会もしました。一時は大量のマンガ本がメンバー間を飛び交いました。しかしまあ、発展性がなかったということで徐々に活動は尻つぼみになり、メールのやりとりも1年以上途絶えた状態でした。私自身も、それほどマンガ読みではなかったということです。みんな、マンガを通して昔を懐かしがるといった感じでした。
さて、ライブラリーに残されたマンガ本を一旦引き取って、それぞれのメンバーの下に送り返してやる作業が残りました。これって結構大変、コミック運送屋になってバイクで返本する週末と祝日だったのです。それに手許にあればついつい読んでしまいます。ベルバラとか動物のお医者さんとか、吉田秋生とか萩尾望都、大和和紀に一条ゆかり、岩館真理子、大友克洋に岩明均、望月峯太郎、その他諸々。コミック本に溺れる日々、これって結構幸せ。おまけに返しに行った先でまた新たに借りてくる始末、関係を終わらせるのはなかなか難しい...
ということで、お奨めで新しく借りてきたコミックの中に大当りがありました。吉野朔実の『いたいけな瞳』。これはいい。文庫版で全5巻の短編集なのですが極上の短編集です。全巻で31編の短編だから、1日1編で1ヶ月で読めるということです。どうして1日1編なのか、1日1編以上読むのは少しもったいないような気がする、そんな余韻の残る短編たちだからでしょう。でも、読まずにはおれないのが人情なので、1日1巻のペースで読んでいますが...しかしこれを月に1編のペースで仕上げる漫画家の苦労は相当なものではないだろうか。だってそれぞれが別様の完成された世界なのですからね。吉野朔実は大昔『月下の一群』を確か読んだ記憶がありましたが、最近も旺盛に執筆されているようなので、しばらく追掛けしようかと思います。『記憶の技法』、『恋愛的瞬間』なんていうのもありますね、内容はわからないけど惹かれる題名です。

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2004/11/18
女優の洞口依子さんが、今週、朝日新聞夕刊のコラムに今年2月にガンを告知されてからの闘病の記を綴っている。私はねっからの彼女のファンというわけではなく、彼女の出演作品もそれほど見てはいない。最近では黒沢清の『Cure』の女医役くらいだが、昔から独特の雰囲気のある人で、記憶に残るというかどこか深層の無意識の部分でひっかかる存在だ。
それが最近、彼女のことが気になりだしたというのが、去年のユリイカの『黒沢清』特集号のインタビューのせいだ。黒沢清の演出に関して、映画の中で自分は常にはぐらかされているような感じで、自分には監督のことをなかなか一言では位置づけられないしその存在も語りえないという意味深げな内容に続いて、次のようなことを述べていたからだった。
− やはり「常に変化し続ける黒沢」ですからね。キング・クリムゾンにおけるロバート・フリップのような(笑)。暗闇にいつもいる、だけど昔の曲は演らないよ、みたいな。変化しつづける黒沢もそうだなと私は最近の作品を見ていてそう思います。
なんとまあ、知らない人には理解しづらい例えだ。それ以上に、へえ、洞口さん、キング・クリムゾンなんて聞いているのですか、という感じで非常に親近感を覚えたのだった。彼女が自室で一人『宮殿』や『太陽と戦慄』、『ディシプリン』に耳を傾けているところを想像するのはシュールな感じで面白い。
深刻な内容ではあるがコラムの文章もいい。まだ見ていない『ドレミファ娘』を見たい以上に、彼女の書いたものをこれからももっと読みたいと思う。だから、洞口さん、いつまでもお元気でいてください。あなたの幸せを心からお祈りしています。

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2004/11/12
今日は、あまり知られていないキーボーディストの紹介。

その昔、街のレコード屋で、1枚の輸入盤のレコード・ジャケットが私の目をとらえた。それは地下鉄構内のプラットホームに停車中の列車、そして走り出す列車の写真が上下に並べられたシンプルな構成で、暖色系の光が滲んだような露出過多気味の写真は、静謐で幻想的な世界を醸し出していた。タイトルはシンプルなロゴで“kit wstkins、labyrinth”とある。あのキャメルのキット・ワトキンスのソロ・アルバムと知って、タイトルの「ラビリンス・迷宮」の語感にもそそられて購入した。そして聞いてみたのだが、これが期待以上の良さだった。ラビリンスとはいうものの、ピラネージ風のおどろおどろしいゴシックな雰囲気ではなく、人気の絶えた静かな都会の夜の人工的な光に彩られた地下世界の迷宮、という感じ。彼特有のポルタメントな奏法でなめらかに音階を上下するエレピが健在で、ミニムーグとともにメロウで叙情的な音世界が奏でられる。盟友のココ・ルーセルのパーカッションが楽曲をタイトに支えている。このアルバムは、1982年発表の彼のファースト・ソロ・アルバムだという。この頃彼は既にキャメルを脱退していた。
その後、キット・ワトキンスの名前を目にすることはなかったが、何年か経って再び彼のCDを手に入れる。それは、1990年制作のソロ・アルバム『Sun Struck』だった。そこで彼は全ての作曲・演奏を一人でこなし、その音世界は、地下の迷宮世界から地上を超えてはるか成層圏の上空まで飛び出したようなイメージだった。ジャケットはスペース・シャトルから撮られたNASAの写真で構成され、鏡のような海面が太陽によって美しく照らされた地球が映し出されていた。いわゆるスペイシーでニューエイジなシンセサイザー・ミュージックの類ではあるが、キット・ワトキンスの場合、無機的な音ばかりではなくソフトなタッチでなめらかに音列が配され、暖かな音色もある。特に12分の大曲“Third Planet Suit”がこのアルバムのハイライトとなるトラックだ。前半では非常にリリカルで美しいメロディがアナログ・シンセによってゆったりと展開され、そこで私はいつもなぜか初期のジブリの映画を連想する。徐々にテンポを早めて楽曲を盛り上げていく中間の転換部の後は、ブラス音のシンセがジャージーなアンサンブルを奏で、やがてNASAの交信音の挿入とともに世界は静寂に還って行く。生命を包み込むガイアとしての地球を連想させる曲想でなかなか聞かせる。

最近、CDショップであまり彼のCDは見かけない。最初期の彼のバンド「Happy The Man」のアルバムが何枚かリリースされたくらいか。しかし、彼の公式サイトによればその後も彼はアルバムを着実にリリースしているようだ。そのサイトのプロフィール紹介では彼が影響を受けたアーティストとして、ブライアン・イーノやマーク・アイシャム、ハロルド・バッド、スティーブ・ライヒ、ウェザー・リポートなどがあげられているのだが、なんとなく納得できる。

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2004/11/10
昨日の日記で、死は自分のものではなく他者(公共)側のものだと書いた。歴史的に葬送儀礼は親族や共同体のもとで厳格にとりおこなわれてきたのだから、死に処するための公共システムをこれまでの社会は用意してきたのである。しかし、近代になって、かっての村落共同体や大家族制が崩れて核家族化・都市化が進展してきた過程で、死に処するための社会的なシステムも個人的で形式的なものに変わってきた感がある。風水思想の陽宅・隠宅概念、現世の住まいとあの世の住まい(墓)は一対であるという考えに沿えば、住まいとそれを支えるソフトのあり方が変われば死への処し方も変わろうというものである。この社会がさらに高度な管理社会になれば、死をも高度管理するようなシステムが公共サービスとして提供されることになるやもしれない。
そこで私が思い出すのが子供の頃見た「ソイレントグリーン」というSF映画だ。その未来社会では人口が爆発的に増加し食糧危機にある。そこで政府は人口管理政策のもとに、老人の人工的な安楽死を公共システムとして推進しているのである。映画ではショッキングなひねりとして、実は政府はそうして安楽死していった人間の遺体を裏で処理加工して人間の食料にしているという設定になっていて、たしか「ソイレントグリーン」というのはそうしてできた加工食品の名前のことだったと記憶する。
人肉加工食品はともかく、私が引きつけられたのは安楽死の装置のほうである。映画では確か主人公の父親がその装置で安楽死するシーンがあった。政府施設の何か近代的な瞑想ルームのような場所でボディソナーのようなソファー・ベッドに体を預けて、田園交響楽をBGMに聞き、目の前の大画面に映し出された美しい自然の風景を見ながら、薬品によって眠るように死んでいくのである。政府の秘密を知ってしまった主人公は安楽死をやめさせようとするのだが、父親のほうは固持し、自ら望んで死んでいく。
昨日、私は最後に自殺のコストについて少し言及した。さて、先ほどのような安楽死システムについて、その物的・経済的な費用対効果が社会コストとして評価されたと仮定して、残る問題は本人の意思と周りの人間の感情的なことがらだけとなった場合、そのようなシステムはやはり、倫理的・人道的な見地から全面的に忌避すべきシステムなのだろうか。それとも当事者の意思と判断でケース・バイ・ケースで運用が許されるものなのか。この問題設定は詰まるところ安楽死是非の問題に帰結するのだろうか。公共の概念として安楽死を認める可能性は今後とも一切ないのだろうか。正直なところ、私にはその疑問のどれもにはっきりとした答えが出せないのである。

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2004/11/9
昨夜、たまたまテレビで見た富士の樹海のドキュメンタリーにはいろいろと考えさせられた。
まず、富士の樹海というのは非常に身近な場所でありながら、ほんとうにアネクメーネな空間であるということだ。驚いたのがこの樹海がたかだか1200年前の噴火の溶岩流の上に形成された森だということ。だから歴史が浅く、表土も数cmだという。樹海の自然についてはその森がブナ林なのか何なのか行ったこともないのでよくわからないが、テレビで見る限り生態系としては貧困そうな感じだ、といってもスギ・ヒノキなどの人工林よりは自然としては豊かに違いないのだが、根が浅く倒木が耐えない、こんな森ではけものみちも残らないのではないか。樹海の怖さや気味悪さというのは、決してオカルト的なものではなく、このような生命の薄弱さというかむき出しの自然性に起因するところが大きいのではないだろうか。そこはいまだ生命感に乏しい場所であり生命エネルギーを蓄積している過程にあるのだろう。樹海が自殺の名所となっているのは、そのようなうつろな空間にうつろな心の持ち主が引き寄せられるからかもしれない。
放送の中でも何人かの自殺予備軍の人々が取材に引っかかり、放送された範囲ではいずれも大事には至らなかったのだが、実際は結構死に至る人々が多いのではないだろうか、と思い検索してみると、あるサイトの情報では2003年で100人とある。ちなみにその年の自殺者は34,427人で平成14年の交通事故死亡者数8,326人の4倍以上である。それだけ自殺者は多い。確かに、最近もネットを介しての集団自殺が話題になった。富士の樹海ではないが私の身の回りにも山中で自殺を図り、およそ2年後に白骨体で見つかった人の話もある。各自固有ののっぴきならない状況を抱えて自殺に踏み切るのであろうが、それにしてもやりきれないのは周囲の人間であろう。
人は自殺という手段で自分の命を終わらせることができる。その判断は一見自由だ。だから自分の生命を自分の手で所有しているように思えるのだが、少し考えれば自分の死は自分のものではないことがわかる。死後自分は存在していないのだから、自分の死は確実に身内などの他人に引き継がれることになる。それは葬儀や遺産相続といった物的なことがらと精神的・心理的なことがらの両面で引き継がれる。その意味で死は一種の負債である。だからいかに往生を遂げるかというのが人生の課題ともなる。自分の死は自分に属すのではない、公共に属すと考えたほうがいいくらいだ。それほど死ぬことは難しい。実際は死ぬに死ねない存在、それが人間なのである。
『自殺のコスト』(雨宮処凛、大田出版2002.2.5)によれば、身元不明者の供養代が7万円、葬儀代は最低レベルで50万円くらいだという。なんだかんだで自殺するときは最低100万円は所持金として携帯しておきたいものだ。とはいっても、自殺に及んではそんなことにはかまっていられないだろうし、凡人ならば100万円あったらそれをどう使おうかということでひとまずは生を選択するだろう。


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2004/11/6
昨日の小説について、書き足りなかったことといえば、やはりその小説のディテールのことで、それについてわかりやすく書こうとすると、結局はその部分をそのまま引用することに他ならないことに気づかされます。そのディテールとは、兎を絞めたあとそれをどのように料理したかをこと細かく書いている部分なのですが、それは艶めくようなエクリチュールといえばよいのか、高貴で野蛮でなおかつ官能的な記述なのです。食べることは純粋に欲望を満たすことであって、その行為にはいつも死が付随するのですが、愛が嵩じればその対象を食べたいとも思うものでしょうし、食べたいと思うことは死と背中合わせの愛を欲望することに他ならず、究極的にはその対象との同一化と溶解を志向するものですから、小説の少女も兎の皮をかぶり兎となることで愛するものとの擬似同一化を図りつつ死に至ることでしょう。
残念なことに読み手としての私は、料理についていくら詳細な記述が行われていたとしても、料理に関する教養の無さゆえそのイメージを的確にとらえることができないという悲しい身です。とりわけ、当の女性作家の小説においては、料理以外にも衣装や映画の記述が多く、その点で隅々までイメージ理解できない私は読者としては劣等な部類に入るでしょう。そんなわけで、今回なぜこんなことをつらつら書き連ねているのかと申しますと、私のような読者にとってはこの小説の理解の一助となるような、そんなサイトを見つけたからです。
「小説を食べよう! 『兎』金井美恵子」
さすが料理界の東大、辻調です。作家紹介、作品紹介もきちんとなされ、その上、代表的なメニューのレシピのページもあり、調理のプロセスが写真とともに詳しく説明され、私のような料理に無教養な人間にも理解できる仕組みとなっています。特筆すべきは、料理の手順が兎の皮を剥ぎ、肉をさばくところからきっちりと写真つきで説明されていることです。約4人分の材料欄には、兎1羽(屠殺後2日のもの)とあり、あなたも是非兎を丸ごと調理してみてはいかがですかといわんばかりのレシピ構成となっています。惜しむらくは、調理された料理を当の作家の方に食していただくとともにコメントをいただくというようなコーナーがないことでしょうか。

さて、「兎」という作品、昨日の段階では失念していたのですが、先のサイトにも紹介されていますように現在は講談社文芸文庫『愛の生活・森のメリュジーヌ』に収められています。多少値段は張るのですが、手近な文庫本で読むことができますので、興味をお持ちになった方は本屋でお探しください。

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2004/11/5
When suddenly a White Rabit with pink eyes ran close by her
書くということは、書かないということも含めて、書くということである以上、もう逃れようもなく、書くことは私の運命なのかもしれない。と、日記に記した日、私は新しい家の近くを散歩するために、半ば義務的に外出の支度をした。
このような書き出しで始まる『兎』という題のついた小説の文庫本を昔持っていて、それは結構お気に入りの短編小説集だったのだが、友人に貸したきり、その友人とは口喧嘩をしたか何かでその後間もなく音信不通となり、本は返して欲しかったのだが言い出せないまま時間が経ってしまって、今ではその友人の顔も声も匂いも記憶には残っていないのだが、本のことは時々惜しい気持ちとともに思い出すのだった。その後、その小説自体は同じ作家の別の短編集に再編されたから、そこで読むことはできるとしても、単行本ではないにせよ文庫本でその小説を読みたいという気持ちは今でも時折感じるのである。その小説は、冒頭のような書き出しで始まり、散歩に出た小説家らしき主人公が、雑木林に囲まれた空き家の庭で疲れて石に腰を降ろして休んでいると、そのそばを1匹の大きな白兎が通りかかり、その兎を追って大きな穴に落ち込んでしまうのだが、気がつくと先ほどの兎が目の前にいる。しかしよく見ればその兎は中に小説家と同じくらいの背丈の少女が入っている着ぐるみの兎だったのだ。そこからその少女が話してくれた回想が始まるのだが、それは朝起きると家のものが誰もいなくなっていたという、『秘密の花園』の冒頭で主人公の少女がある種「夢幻的な熱っぽさ」で迎えることになる朝のように不安と官能が背中合わせとなった書き出しで始まる劇中劇なのである。その家で少女は父親と二人暮し、月に2度、飼っている兎を絞めては皮を剥ぎ、その血と肉を晩餐に饗するとともに毛皮を繋ぎ合せて着ぐるみをつくり、血に塗れた全裸でその中にすっぽりと入り込み兎になりきるのだった。そのうちに家の中はますます病的でグロテスクな様相を帯び、父親は放蕩と病の末に狂い死にし、少女は眼に大怪我を負って気絶する...そんな話の一部始終を聞かされた小説家が次にその少女を見つけたとき、少女は兎の着ぐるみのまますでに息絶えていたのだが、次は小説家がその兎の着ぐるみにすっぽりと入り込むことになるだろう。
この小説を読み返したとき、思い出したのが先頃読んだ『三枚つづきの絵』という小説で、その小説は時間と場所がまったく異なるいくつかの情景が入れ子式にメビウスの輪のように相互貫入した描写形態をとるストーリーのない小説なのだが、そこでは吊るし上げた兎を棒で打ち据え失神させたうえ眼窩を刳り抜いて血抜きする田舎の老婆の描写が何の脈絡もなく繰り返し別の情景描写の間に挿入されているのであった。『兎』を書いた小説家は別にこの小説を意識したわけではなく、この小説のモティーフは自分が見た夢にあると別のエッセイで書いている。当時、小説家が東北地方の旅先で雑貨屋の軒下の板戸に兎の皮が釘付けになって干されていたのを見たのだという。その夜、寝台車で目を覚ました小説家がカーテンを開いて外を見たら隣の線路に貨物列車が停まっていて、そこに積まれているたくさんの木箱のなかには白い兎が満載されていたのだそうだがどうやらそれは夢を見ていたのだろうということに落ち着いたという。同じエッセイで小説家は次のようにも書いている。
それにしても、書くということの中に含まれている、一種淫蕩なよろこびともいうべき自己の原型質性に面と向かうのは、実は、何かから得たイメージなどの中からではなく、まさしく、この書くという体験の中からなのである。であるならば書くということについて書くということは、小説らしき形を持つもののあるいは小説ともエッセイともつかぬ形の文章の中で書くということの官能と恐れの中でその官能と恐れを味わいつくすことによってしか可能ではないのではあるまいか。
と、結局それまで書いてきた小説のモティーフとしての夢という主題を翻してしまうのだが、小説家は書くことによって夢を見るのだとも解釈できるし、それがやはり「兎」という小説の本質なのだろうと合点がゆけば、ここまで書くということについて書くということについて書いてきたわたしのささやかな書くことの愉しみもそれほどたいそうなことでもないものの、そのようなものといってよいような気もするのだ。

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2004/11/3
時々、おもむろに本屋に行きたくなります。
何かが私を待っているような気がするのです。
そして行きつけの本屋の下階から上階まで一巡りするうちに、
こちらに電波を送ってくる本に何冊か出会うことになります。
で、昨日巡り会えた本たちは以下の3冊。
1.「夜想 第2号/特集#ドール」 studio parabolica
夜想が復刊しているとは知らなかった。好みの人形特集だったので即購入です。
すると、リンク先の西子さんが紹介されている秋山さんの人形が...
2.「死と身体 コミュニケーションの磁場」内田 樹 医学書院
3.「他者と死者 ラカンによるレヴィナス」内田 樹 海鳥社
内田樹(うちだ たつる)というフランス文学・哲学者の近著2冊。この人のことは知らなかった。大学の先生でありかつ本格的に武道もたしなむということで、実践に裏打ちされた身体論が展開されていそう。
で、2.の本から読み始めたのですが、面白くて早々に読み終えてしまった。カルチャーセンターの講演録だから読みやすくて面白いけれども議論があちこち跳んで(そのアドリブ的な跳躍も刺激的なのですが)少々物足りない、であればこそ続いて3.が読みたくなる。そんなものです。
この本に書かれていることで一番面白かったのは、人間の倫理観を基礎づけているのは死者の声であるということ。それは、「生命、自由、幸福」が人間倫理の根底にあるということを裏返して述べた言葉なのですが、人間世界は人の生命を限界づける死との対話によってより倫理的になれるということなのです。
しかし、実際は死者や幽霊と双方向の対話ができるわけではない。その死を想い、死者の声に耳を澄まし、死者の声を聴くことしかできないと著者は述べます。それはつまり、死者に祈りを捧げるということ。例えば、先日のイラクで亡くなった青年のこと。彼の死についてあらゆるメディアが、WEB上でも多くの人々が様々なことを書いているのですが、その死について何か言おうとする前に、まずは彼の死を想い、祈ることが大切なことではないでしょうか。そして、その「死」によって「私」は一体何を語りたいのかをよく考えてみること、それがおそらく倫理の第一歩なのでしょう。
死者との対話、そういえば、これと同じようなことを環境倫理について確か鶴見和子さんが書いていたことを今、思い出しました。環境倫理には4つの共生の視点が必要であるということ。一つ目は人とその他の生命との共生、二つ目は男性と女性の共生、三つ目は世代間の共生、そして四つ目に生きている人間と死者との共生。ただそれだけなのですが、これを読んだ時ちょうど阪神大震災の後だったので、死者との共生のところが妙に心に響いたのです。
死を想い続けること、簡単に評価し結論づけないこと、それは死を「宙吊りにすること」、「保留すること」だと著者はいいます。そして、そのことが本来の人間としての知の本質と分ち難く結びついているのだと。
とにかく、この本、他にもいろいろと引用したくなるような文章や論考が展開されていて、飽きることのない本です。フッサールやハイデッガーやラカンが実は幽霊のことを語っていたのだなんて面白い。まあ、ハイデッガーの場合は幽霊といってもゲニウス・ロキみたいなものでしょうけど。
言語活動の機能は、情報を伝えることにはない。思い出させることである。
わたしが言葉を語りつつ求めているのは、他者からの応答である。
J・ラカン
さて、わたしを呼んだものは、他者すなわち死者、そして/あるいは人形だったというわけです。

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