忘却の川へ流れ去る諸々をしばしこの岸辺に繋ぎとめて..日記についての日記、もしくは不在の人への手紙。
2005/2/24
なんだか忙しくて、先行きは不透明で、落ち着かず、少しいらいらしています。なかなか本も読めないし、読んではいるのですが、日常の雑事のために、読んだ書物の感覚や記憶が、そこここでプッツリと途切れてしまって、書きたかったことも雲散霧消してしまいます。
最近は音楽も音を出して聞かないし、映画も映画館ではおろかレンタルでさえなかなか見る時間がありません。時間はつくればあるのでしょうけど、気持ちが向かわないのです。私は日常が退屈であればあるほど嬉しくなる(退屈が全く苦にはならない)質なので、今みたいな状況では、どこかに逃避したくなります。
去年の秋以来、続けている読書の系列も、どうしてその系列を読みたいと思ったのかもあやふやになりかけています。そのあやふやを繋ぎとめるために、少し気の向くままに...
もともと断章形式の文章や論考が好きで、それは、昨年のペソアとの出会いでさらに刺激されたのですが、最近ロラン・バルトの著作集が刊行されており、新訳で久しぶりに「記号の国」(かって「表徴の帝国」としてちくま文庫で出ていたものです)を読んだらやはり面白くて、「彼自身によるロラン・バルト」から「新たな生へ」と読み続けていますが、その後、途切れています...
金井美恵子の「噂の娘」を再読する前後から、全短編3巻をこの際読み切ってみようと思い、1巻に取り掛かっている最中ですが、途切れています...
ユルスナールの著作集、堀江敏幸の解説も良くて、一応揃えで確保しているのですが、ハドリアヌスを読み、黒の過程を読んだところで、次の対談集を読みかけて、途切れています...
内田樹の本については書きましたが、やはりレヴィナスとラカン、ブランショ関連は原典をしっかり当ってみたいと思いながら(当然翻訳本になりますが)、それらは今の私には日本語でさえ重すぎて読めそうもないので、二次文献や関連本を読んでいるのですが、やはり煮えきらなくて、途切れています...
多和田葉子、最近ユリイカの特集を手にしましたが、以前に確保した何冊かが、本棚で眠ったままになっています。あの言語感覚、すきなんですけど、次から次へとコンスタントなリリースのため、追いつけません、途切れています...
宮沢淳の著作集も、1巻以降続いていない...豊崎光一の「文手箱」「クロニック」も買ったまま、途切れています...
エリアーデの「世界宗教史」、これまで3年かかっていますが、7巻目で途切れています...
吉野朔美の漫画、「いたいけな瞳」から始まって、「記憶の技法」「恋愛的瞬間」「エキセントリクス」「僕だけが知っている」「グールドを聴きながら」と読み進めてきましたが、いまだ「瞳子」に出会えず、途切れています...
読み続けたいと思えることは、幸せなことではあるのでしょうが...
こうして書き出すと、きりがないのです...
このように、わたしの日記も、わたしの生も、ある日プッツリと途切てしまうのでしょうか...ささやかな残留思念だけを残して...

0
2005/2/21
アエラの臨時増刊が「再びのロック」という特集で、表紙は若き頃のレッド・ツェッペリンのメンバーのモノクロ写真、で、買ってしまいました。音楽誌などは最近はほとんど買わなくなってしまったけど、このようなムックでは、読者層の設定が広めなので自分のよく知らないメジャーなアーティストの話題などもそれなりに読めます。コアな情報では、楽器のメロトロンに関する記事の中で70年前後にキング・クリムゾンからジェネシスへと手渡ったメロトロンが今は日本人の厚見玲衣の手許にあるという記事に少しびっくりしました。中学生の頃耳にして面白がったエピソードの続編が最近も進行中だったのです。そして、厚見玲衣が最近結成したグループというのがパンゲアというグループで、買おうと思ったデビューCDがCCCDで買うのを躊躇してしまったことはiPodネタのときに書きましたが、そういえばそこに元キング・クリムゾンのイアン・マクドナルドが参加アーティストとしてクレジットされていたのでした。さらに驚いたことにこの2月17日付けでグループはアルバム1枚残して正式解散したということで、これはこのムックの発売日と同日です。残念、ソニーがまずかったか。
ということでローカルな話になってしまいましたが、とにかく、近頃はロックを懐かしがる雰囲気が巷のそこかしこにあります。というか1970年代前後の文化や世相も含めて若くて熱かった時代を懐かしがるといったところでしょうか。それについてとやかく言うつもりはないけど、ロック世代も年をとったものです。私自身は、先行するこの世代から10年ほど遅れてやってきた世代ですが、ロックをよく聞くようになった頃には、私の好みのアーティスト達はみな行き詰まりの状況にあって、流行の音楽はほとんどアメリカのマーケットからMTV経由でやってくるという状況でした。それはあまり面白くなく、結局、パンク以後、ロック(とくに英国ロック、ロックは英国の一ローカル音楽以外のなにものでもないと私は思います)なるものは停滞していたということでして、以来それは停滞し続け、ロックどころか音楽が時代を映し出す鏡であるということは、なかなか言えなくなってしまったのです。一方で、局地的・散発的なマーケットにおいて70’sロックはリバイバルされ続けていますが。
映画では先ごろ『スクール・オブ・ロック』がミニシアター系で話題となりましたし(これ早く見たい)、若い世代の映画人にあっても、少し古くなるけどヴィンセント・ギャロは『バッファロー’66』で、ソフィア・コッポラは『ヴァージン・スーサイズ』で、その時代の音楽にオマージュを捧げています。Jポップでも70年代のヴィンテージな音づくりのラヴ・サイケデリコが売れているし、昨年はキムタクのドラマでクイーンが大ヒットしました(私の友人にフレディ・マーキュリーの大ファンで『オペラ座の夜』を全曲そらで歌う人がいて、去年渋滞中の車の中でそれを延々聴かされたことがありました)。マンガの世界では、浦澤直樹の『20世紀少年』が70年万博の少年の記憶をめぐる物語で、その時代のレトロな意匠がちりばめられるなか、表題がT-REXの曲名からとられているようにロックがそこで一役担っています。紙ジャケットもアナログ時代の郷愁を誘うアイテムとして、CD市場の中で一画を占めるようになりました。
といった感じでロックの火はこれからもあちらこちらで飛び火し続けるのでしょう。しかし、それは70年代前後のように時代と一体となったムーブメントとなることはもはやないでしょう。
かくいう私自身は中学時代から、いつも同じようにロックを聞き続けています。ただその時々で、それが現代音楽に近くなったり、テクノ・トランス風であったり、ワールド・ミュージックやトラディッショナルな要素が混じったり、アンプラグドであったりするのだけれど。とにかくこれからもロックは聴き続けるでしょう。私にとってそれは空気みたいなものですから。

0
2005/2/14
週末、どうにか京都近美の「草間彌生 永遠の現在」展にかけつけることができた。結構人が多かった。とくに若い女性が多い。最近、草間のメディアへの露出の機会も少なくないようだし、この回顧展の企画が草間人気に拍車をかけた一面もあるだろうか。わたし自身、彼女のことは詳しく知らなかった。一時、彼女のことをニューヨークを拠点にした前衛アーティストでダダイストで、フルクサスのメンバーの一員でと、なんだかオノ・ヨーコとごっちゃになったような誤認があったくらい、彼女のことは知らない。そのくらいの認識ではあったが、今回の回顧展を楽しみにしていたことは事実で、見に行けて良かったと思う。
最近の作品を見て、彼女がポップ・アーティストだと思っている人も多いのではないだろうか。たしかに、その側面もあるだろう。現に彼女のHPサイトでは、作品が多数グッズ化され販売されているし、かぼちゃなどはグッズになるとかわいい感じだ。作品に商品化との親和がある。ひょっとすると彼女は自分の作品で世の中が被われて欲しいと本気で思っているかもしれない。それはただの金儲けじゃないのかもしれない。
展示作品を最後まで見て、正直それらはわたしには非常に痛々しいものに感じられた。作品に対して痛々しいと思うのは失礼なことなのかもしれないが、どうにも辛い。命を削って作品と格闘している孤独な芸術家の姿が目に浮かんでしまう。以前ちらりと見たテレビ番組で、彼女の精神失調(彼女の昔の主治医によると統合失調であるという)と創作行為とに深い関係があるということは知っていたが、これほどのものとは思わなかった。命を削って作品を生み出すと書いたが、生きていくために創作せずにはおれない、創作が即ち彼女にとって生きることであるといったほうがふさわしい感じだ。
“obsession/強迫”や“accumlation/集積”、“obliteration/消滅”といった主題が、彼女の生の内実と相即であり、網や点や球体やファルスによって空間を埋め尽くさずにはおれない意識の有り様が、制作行為と直結しているのである。10歳の頃の絵(人物像)においてすでに画用紙全体を斑点が覆っている。物心ついた頃から彼女は幻覚と強迫観念にとり憑かれていたようだ。自分の視覚風景を被うこれらの物体が恐ろしくて彼女はそれを描き続けたという。「彼女は自身の苦悩を作品として昇華した」などという一般的な言い方があるが、草間にとってその苦悩は決して昇華されないものとしてあったのだ。描いても描いてもその網や点、ファルスは無くならずにそこに残り続け、逆に書くわたしが消滅してしまうような行為としてそれはある。描く対象は制作の後もいつまでもそこに残る「想像界の染み」として彼女を脅かしつづける...それが彼女にとっての、永遠の現在、創造の世界だったとしたら...
そういったことを考えると、病と芸術がせめぎ合い、どうにか折り合いを付けて成り立っている彼女の存在というか生命のエネルギーは偉大だと思わざるをえない。死なずに生きてあれだけの作品を生み出し続けるパワーがあったのだから。
入館者数が多かったからか、美術展のカタログはすでに売り切れていた。仕方が無いので、美術館を出た後に街の本屋で書籍を購入した。これは、美術出版社から出ていて、内容は美術展カタログとほとんど同じだということだ。

0
2005/2/4
イノセンスにおいては、人間は、心身において、心の部分では電脳化(記憶の外部化)、身の部分では義体化が進むことにより、私とは何か、私は本当に私なのかという深刻なアイデンティティ・クライシスに苛まれるようになったと語られます。
現在、記憶の外部化も義体化も部分的にはすでに始まっています。携帯端末を持つということは、自分の記憶を外部化するということに他なりません。私自身も携帯パソコンを常に持ち歩いているので実感できることですが、このような端末は、自分の脳が一部外部化されたものであり、記憶バンクです。私の友人で、PCのハードディスクが壊れたためにこれまで蓄積してきた全てのデータを一挙に失ってしまい、ショックでしばらく軽い心神喪失の状態に陥った人がいましたが、他人事ではありません。バックアップの措置は不可欠です。
このWeb日記にしても、ひとつの外部記憶装置に他ならないでしょう。サーバーの事故で日記が全て消えてしまい、バックアップがなかったとすれば、少なからずショックも受けるでしょう。また、わたしのほうが何らかの事故で死んでしまったとしても、しばらくはここに過去の私の記憶が残ることになります。更新されない日記がいつまでサーバー上に保管されるのかはわかりませんが、現に更新されないWEB日記は無数にあるでしょうし、その中には既に書き手がこの世に存在しない日記もあることでしょう。
私は時々陳腐な想像をします。自分が更新を放棄した日記をある日久しぶりにチェックしてみると、その後も誰かの手によって、私の日記が更新されているというものです。また、私が死んでしまったら、この匿名の日記はどうなるのだろうかとか、遺言書にこの日記のことを書いておいて自分が亡くなって後、家族友人が閲覧できるようにしたらどうだろうとか、俺の日記を引き継いでくれと言い残して友人が自殺してしまったりしたらどうしようとか、つまらないことを考え出したらきりがないのです。
確かなことは、私という存在はここに、ある種の場として、言葉としてあるということです。更新されているかいないかにより、生きているのか死んでいるのか判断するしかないのですが、あなたがここにアクセスするとき、私はここにいるのです。言葉の数だけ、Ghostの数だけここにいるのです。

0
2005/2/3
イノセンスについて感じたことをもう少し。
前作に較べて、映像の密度は格段に高いものとなっている。とくに本作は2Dアニメーションと3DCグラフィックの混成映像となっており、両者の表現上のギャップは大きいが、気にはならない。タイトル冒頭のSDポリゴンによる球体関節人形ハダリの制作プロセスの映像などはやはり美しいし、この冒頭部分で、映像的には前作を凌駕していることがわかる。渡り鳥の映像も、映画版パトレイバーに東京湾に群れ飛ぶユリカモメのシーンがあったと記憶するが、それとは格段なものとなっている。もっとも前作から随分と経っているのだから表現が飛躍的に向上しているのはあたりまえなのだろうけど。
3DCGに違和感がないのは、表現対象に応じて表現手法を使い分けているようなところがあるからかもしれない。CG表現によるリアルなテクスチャー感覚は、作品中の不気味な対象をより不気味に表現するために用いられているような感がある。印象的なシーンとして、バトーが行きつけの店にガブリエルの餌を買いにいくところで、彼が開いた扉がチリリンと音が鳴って閉まるときに、扉の上部に取り付けられたベルがアップとなるシーンがある。なんの変哲もないシンプルな画面だが、CG表現が際立っているために妙に印象的なシーンとなっている。このあと、確かバトーの耳に「キルゾーンに踏み込んでるわよ」という少佐の声が囁く。つまり境界の踏み越えと存在が到来する兆しとしてのベルの音を示唆するためにわざわざこのような表現が選択されたのではないかと、深読みしてしまうのだ。
映像的にはクライマックスとなる北端都市のカーニバルの風景もCG表現でこそ可能なのだろう。ここでは細密な3DCGの遠景に焦点が合わされるとともに、人の往来する2Dアニメの近景がぼかしで重ねあわされ、効果的な表現となっている。CGにより遠景のあらゆる景観構成要素を群れで動かせることが可能となったため、長まわしでもだれない。遠景という点では、最初の警察署内部の2Dによる描きこみも相当なものである。この背景描写の力により、登場人物の長尺の台詞も気にならないのだ。バトーとトグサが長々とおしゃべりしている間、こちらは背景の不気味な雲の動きに目を奪われているといった具合である。
さて、この作品を映画として考えると、アクションやスペクタクルなシーンが極力絞り込まれており、物語の流れとしては躍動感がなくそれどころか常に滞りがちであり、登場人物は饒舌で観念的な物言いに終始するため、鑑賞者は、絶えず「そろそろ現実的な話をしませんか。何の話をしているのです?そろそろ仕事の話をしませんか。」と、狂言まわしのトグサの気持ちに重ねるように物語を駆動させたいという欲望にとらわれるかもしれない。しかし、物語の速度を高めるにはこの映画、終始絵の密度が濃すぎるようである。わたしは、この点に関してはこれでよいと思っているし、映像表現に関してはこの作品がジャパニメーションの一つの到達点だとも思う。押井守は映画という大きなタブローに細密画職人のように彼の世界を描きこんだのだろう。そして彼の思考のテクストを盛り込めるだけ登場人物の台詞に盛り込んだのである。この作品を映画(movie)として見るのではなく、映画(picture)として見ること。一編の絵巻物を鑑賞するように、一冊の書物を読むように、この作品に参入すること。そうすれば、それほど不満を持つことなくこの世界を楽しめるのではないだろうか。

0
2005/2/2
ということで、1月は往ってしまいました。このぶんでは、2月も速そうです。
そしてこの冬一番の寒さがやってきました。
去年以来、いくつかのモティーフの周りを思考は巡っていたのですが、先日『イノセンス』をようやくDVDで見ることができ(それは私にとっては絶妙のタイミングだったのですが)、偶然それらのモティーフが映像に見事に結実されていることに驚きました。そのモティーフとは「人形」と「鳥」です。

「人形」については、それが作品の主題であるから、別に驚くべきことのことではないのですが、一方の「鳥」はどうしてあれほど形を変えて繰り返し描かれなければならないのでしょうか。宮崎駿の作品にも鳥や飛行のモティーフは繰り返し出てきますが、それは飛行機好きな少年が持っているような直接的・体感的なイメージであるのに対して、押井守のそれにはより観念的・形象的なイメージがつきまとっています。
バトーとトグサが、美しいプロペラ機に乗りこんで北端都市のエトロフ上空を旋回するところから、画面は鳥の形象におおわれます。それにしても靄に霞む高層ビル群を無数に群れなして飛ぶ渡り鳥の、その風景のなんと至福なことでしょうか。北端の街は天上の世界でもあるようです。
鳥は天空より飛来するものとして、いわば神の使いを象徴しているようであり、それは人間に何かを告げにやってくるものとしてあります。鳥の羽ばたきは神の訪れ(音連れ)であり、それを聞き認めることのできる人間だけが天上の世界と交感できるのかもしれません。映画にも示されているように、鳥とは天使の仮の姿でもあるのでしょう。そして天使はデーモン的な存在として、神と人間の中間に位置して人間の運命を司るべくふるまうでしょう。イノセンスにおいては、バトーは自身の「守護天使」である草薙素子の存在の音連れを、チリリンという鈴の音とともに察することができ、まるで神に導かれたかのように確信を持って行動します。彼の確信はもはや信仰のようなものなのかもしれません。彼は自分のゴーストの囁きのまま迷うことなく行動するでしょう。まるで自身のゴーストが神とその使いの天使、草薙素子に導かれているのだといわんばかりに。イノセンスではもはやバトーの草薙素子への思いは愛を通り越して宗教の域に達しているといえそうです。
最後、草薙素子はバトーに向かって次のように言い残して彼のもとを去ります。「バトー、忘れないで。あなたがネットにアクセスする時、私は必ずあなたのそばにいる。」と。これは、「私はあなたの心の中にいる」と言っているのも同じことで、このように一方的に告げられた者は、もはやその思い(愛)を内面化するほかなくなるでしょう。愛の対象はまるでもう死んでしまったかのようでもあり、その意味で彼女はバトーにとって絶対的な他者となってしまったといいうるでしょうし、そのような対象を愛しつづけていくには長く喪に服すような仕方でしかありません。そのような愛は、「至高の、絶対的で接近不可能な他者」として「私たちを外的にではなく、内的に掌握する」でしょう。
もはやバトーは「転回」するしかないのでしょうか。鳥は高く天井に蔵(かく)れ、魚は深く水中に潜(ひそ)む、と作中で語られるように。バトーは魚となり、水晶の中に自らの心を封じ込めるほかないのでしょうか。無限の倫理の彼方を見つめながら...孤独に歩み、悪を成さず、求めるところは少なく、林の中の象のように。
転回とは、あたかも喪を執り行うこと、すなわちあるものの死を耐え忍びつつ、それをみずからのうちに保持することであるかのようだ。そして新たな秘密の経験を開始し、秘儀を分かち合うこととしての責任の新たな構造を切り開こうとするとき、人がみずからのうちに保持するものは、埋め込まれた記憶であり、より古い秘密のクリプト(地下祭祀場)なのだ。
『死を与える』ジャック・デリダ

0
1 | 《前のページ | 次のページ》