2005/3/30
『海辺のカフカ』を読んだ後、どうにも気になり『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の文庫本を本棚の奥から取り出した。そして、結局読んでしまった。何年ぶりになるだろうか。1989年に文庫化されたときは、結局読まずじまいだったから、その作品が新潮社から書き下ろし長編としてリリースされた1985年当時、薦められた友人に借りて読んで以来ということになり、かれこれ20年ぶりの再読だ。やれやれ。
読んでみると、結構良い。完成度も高いと思う。主題もおもしろいし、形式も破綻なく内容と呼応し、最後まで読ませる。寓話ともファンタジーともとれる手法で静かに語られる「世界の終わり」とポップ&ライト感覚でサスペンスが進行する「ハードボイルド・ワンダーランド」の両者がラストまで拮抗し、緊張感が持続する。とくに、36時間後の死を自覚したあとの「私」の語り=人生風景が、ノリの良いドライブのかかった筆致で終局まで切なく心地よく読むものを運んでいくあたりは、見事だと思う。そこは作者一番の描きどころ、勝負どころだっただろう。少しノリ過ぎの感なくもないけど。『カフカ』でも語られることになる「森」や「メタファー」、「記憶」といった事物=概念が、その世界ではより素直に読むものに響いてくるのである。
「私」の意識の中の「僕」の意識、現実の世界とは別の仮想の世界で生きる「僕」、まるで『マトリックス』を先取りしたような主題を持つが、それがレイ・ブラッドベリのようにノスタルジックなS・F小説風に語られる。不条理な現実の世界で格闘する「私」と「世界の終わり」に取り込まれかけている「僕」、両者をつなぐジャンクションとしての「影」の存在。「世界の終わり」は文字通り「彼岸」の世界であり、記憶も愛も葛藤もなく徐々に熱死に至るだけの世界である。ただし、そこでの時間=意識の流れは、アキレスと亀のパラドックスのように死に近づけば近づくほど微分化されることで死が先延ばしされるという世界でもある。そのような世界に「僕」は根拠のない責任を感じて踏みとどまろうとする。現実世界に執着する煩悩の喩えでもある「影」との関係を断ち切ることを選ぶ。それは単純な言い方をすれば、外のリアルな現実に背を向けて結果的に内側に引きこもる=涅槃に入ることを選択した自我の物語、即ち、自死の物語だ。
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』がこのように死に向かう物語であるのに対して、『海辺のカフカ』は通過儀礼としての煉獄めぐりを経ての自我再生の物語となっていて、両方のベクトルは逆方向であるようだ。主題(メッセージ)としては、『海辺のカフカ』のほうが前向きなのである。しかし『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は、『海辺のカフカ』と違って安心して読めるのだ。これは、どうしたことだろう。それが作品の完成度の問題だけで説明できるのかどうか。正直、私にはわからない。漠然とした言い方になってしまうが、両作品の間で病状が悪化しているような気がするのである。
小説に関わらず、あるものが爆発的に売れるということは、一つの症候に他ならない。浅田彰の『構造と力』が200万部くらい売れたとき、本人が「こんな本がこんなに売れるということは、これはもう、単なる思想書や哲学書じゃなくて人生論・啓蒙書として受け取られてしまってるんですよね」と話しているのを聞いたことがあるが、村上春樹の小説と読者との関係にもそのような共生関係、共依存といってもよい関係があるのではないだろうか。一部の批評家が、彼の作品を毛嫌いするのもそれと無縁ではないのかもしれない。
このような小説の世界と、小説と読者との関係を、フロイト派やラカン派あたりの精神分析家に読み解いてもらえればありがたい。すでにそのような論評はあるのかも知れないけど。『イエローページ』を筆頭として巷の村上春樹読解本は、本屋でパラパラと眺めただけであるが、語り口も含めてどうも気持ちが悪いのだ。それは症候への自覚のないところ、もしかしたら症候を敢てネグレクトしたところ、で展開されているからだ、と、憶測してみる。村上春樹自身は、ユング派の河合隼雄と対談したりもしているようですけどね。そう考えると、なんだかんだとこの対談も怖いもの見たさで覗いてみたくなってくるんですよね。

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2005/3/18
村上春樹、『海辺のカフカ』を文庫で読む。村上春樹の本は長編だけを文庫化を待って読むことにしている。この前は『ねじまき鳥』の文庫化の際に読んで、それ以来だからもうかれこれ8年ぶりの村上春樹である。その間、この作家の人気は日本でも海外でもいや増すばかりだ。どうしてこの作家がこれほど読まれるのか、彼のよき読者とはいえないだろう私には、わかるようなわからないような事柄である。ちなみに、前回の『ねじまき鳥』は今となってはよく覚えていないがあまり感心しなかった記憶がある。さて、『海辺のカフカ』は?
まず、二つの物語が同時並行で進んでいくところは『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』に似ている。これはだれもが感じることだろう。それも大昔に読んだだけだから、今は記憶の彼方だが、最後に主人公が閉ざされた世界に踏みとどまるようなところで終わっていて、それが後をひくような印象だったことだけを覚えている。『海辺のカフカ』も同じような設定がでてくるが、この作品では主人公の少年は...と、これはネタバレになるから止めておこう。
さて、読後の印象としては、やはり、村上春樹の小説は気持ちが悪いということだ。でも、その気持ちの悪さといういのはなかなか説明のしにくいものだ。それと、この作品はたしか完成度が高いというような評判だったはずだが、わたしには、そうは思えなかった。相変わらず読み手をぐいぐい引き込むストーリー展開で、かってのような鼻につくようなレトリカルな表現もほどほどに、ヴィヴィッドなイメージを巧みな描写で文章にのせ、様々な解釈の余地とそこそこの余韻を残しながらも最後はすっぽりと終結をみせる、のだけれど、なんなのだろう、この心地悪さは。それを、うまくまとめることは多分できないだろうから、気になるところを羅列してみよう。
まず居心地の悪い第一要因は、主人公の行動の枠組みにエディプス・コンプレックスというファクターを持ってきたところにある。これは私自身の感覚の問題かもしれないが、フロイト精神分析のエディプス・コンプレックスというものが、さっぱり感覚的にピンとこない。だから、主人公が父親を殺し(たかもしれない)、母や姉と近親相姦し(たかもしれない)というところでの葛藤劇の必然性や真実味が理解できない。たとえそれがメタファーとして描かれるのだとしても、その意味が実感として納得できない。それが絶対的な悪の存在である父親の下で育った少年カフカの不幸な成長期の家庭環境によって引き起こされる悲劇(悲劇じゃないかもしれないが)なのだといわれても、その部分は全く描かれていないから、心に迫ってくるものがない。例えば、中上健次の一連の路地モノに描かれる父親殺しや近親相姦を描いた作品と較べてどうだろう。物語世界の強度として、この村上作品は一連の中上作品にとても及ばないという印象である。
二つの物語がパラレルに展開していき、それが最終のところで交差するという物語形式のあり方に関しては、時間刻みに相互の物語世界がお互いを牽引し、相互のエピソードの謎が謎を呼び、筋立てが補完し合い、空気の入れ替え的な読み手の気分転換にもなるという点で、この長編をダレずに読ませるテクニックとして大正解だろう。端的に言えば、ナカタさんというキャラ設定がなかったら(加えて彼とホシノさんとのセッションプレイがなかったら)少年カフカの物語も非常に暗鬱で沈滞したものとなっていただろう。しかし、一方で、このような物語の駆動装置を作品に嵌め込むために、よくわからないエピソードが作品冒頭で語られることになる。ナカタさんがそのようなキャラを持つようになった原因となる謎の集団児童意識不明事件である。その事件は進駐軍のXファイルとして凝った形式で語られるが、なんだか気持ちの悪い、女教師のわけのわからない秘密の開示もあって、作者自身は楽しみながら書いているのであろうが、どうにも不自然にフカし過ぎの感が否めない。
二つの物語は、カフカのほうは一人称で、ナカタさんのほうは三人称で語られる。それは良しとして、カフカの話において「君は...」という二人称の語りが要所で出てくる。これはカフカにとっての超自我的な人格であるカラスが語るときのナラティヴになっている、冒頭でこのくだりを読んで、私はカフカ少年が少年期の虐待か何かのトラウマによる解離性人格障害のようなものになっており、別人格であるカラスが諸悪の根源なのかと当初は思ったのだが、すぐにそうでないことがわかる。カラスは最後まで極めて理性的な存在である。ということは即ち、カフカ少年は意外にも最初から最後までまっとうで、健康で鍛えられた肉体を有しかつ頭もよく、自己を概ねコントロールできる老成した精神の持ち主、つまり極めて優秀な少年(大人)であると感じられる。
主人公のキャラ設定はさておき、問題はカラスの語りである。冒頭と最後でカフカとカラスが対話しているので、カラスはカフカの内面の声として想定されているようである。しかし、29章で少年が少女時代の母親とセックスする場面で、語りがカフカの「僕」からカラスの「君」へと移行するところがあるのだが、どうにも違和感がある。そこでのカラスの語りはカフカの行為と内面を的確に外部から傍観し描写する語り手となっており、カフカ少年の鏡像的対自人格の立場を逸脱して、ニュートラルな近代的表象の描写主体となって(しまって)いる。こういった局面は作中に時々あらわれる。そのような語り手とは一体何者なのか、カラスという存在は何なのか。それに加えて、カラスのエピソードは枠飾りの形式を与えられもし、独立的に記述されることにもなるのだが、その挿話自体どうにも中途半端な内容なのだ。
そんなこんなで、謎が謎のままで解決されていないといったレベルを超えて、この『海辺のカフカ』という作品は不可解なところが多い。作者は、エンターテインメントなんですから、という気持ちがあるのかも知れないが、エンタメであるならば形式的な綻びは極力避けたいところではないだろうか。細かい話になるかもしれないが、性同一性障害でゲイの女性という大島さんのキャラ設定を説明呈示するために、たいそうリアリティに欠けるフェミニズム団体の女性調査員二人組みのエピソードを挟み込むのも考えものである。
そして、悪を表現しようとして、それがただ悪趣味なものに止まっているところがいくつかある。先の二人組み調査員もそうだし、ネコを虐待しその心臓を味わうジョニー・ウォーカー、カラスに顔面をつつかれる男、ナカタさんの口から這い出しホシノさんに退治される生命体、それ以外にも、夢の中でのレイプや、母親の腕の血を啜るカフカ少年など、結構この作品は悪趣味のオンパレードとなっている。
結局、私はこの作品を、このように不可解で不気味なものとして、怖いもの見たさのような感覚でついつい読んでしまったというわけである。前回の『ねじまき鳥』もそのような不気味感覚に満ちた作品だったに違いない。だから8年の歳月を隔てて、再び村上作品に本能的に手が伸びたのだ。そう、そのような悪趣味を嫌悪しながらも覗き見てしまうという、それがありがちな人の性というものだとしたら、それこそこの作品が多くの人に読まれる理由の一つにもなっているのだろうか。そして、ほとんどが、それが不気味なものと自覚されないまま、人々の無意識に蓄積されていくのだとしたら。とにもかくにも、村上春樹なる作家は、小説というものを巡っていろいろなことを考えさせてくれる作家である。
私は、この作品を読んだ中高生あたりの青少年に感想を聞いてみたい。この作品を読んでどこに何をどう感じましたか、と。そういえば、こんな疑問を持つ私のような人間のためにかどうかしらないが、『少年カフカ』なる関連本も出ているようだ。

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2005/3/16
しばらく前に届いたあなたからの手紙のことを思う。
それは、短いお礼の手紙でした。
それは、書き置きのように、
余裕のない情況で、書かれたであろう手紙。
本来の場所からではなく、仮の場所から出された手紙。
短い文面の中で、あなたはそのことを詫びさえしていました。
今のあなたはどのようなところにいるのでしょうか。
私には知る由もありませんが、いずれにせよ、
手紙をお送りいただいたことに感謝します。
苦労をおかけしたなら申し訳ありませんでした。
もう、無理はなされないよう。
私は、変わらず、いつもここで
あなたのご無事と幸せをお祈りしています。
「ではさようなら。」
海に投げ入れられた壜はいつも戻ってくる。
― モーリス・ブランショ

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