忘却の川へ流れ去る諸々をしばしこの岸辺に繋ぎとめて..日記についての日記、もしくは不在の人への手紙。
2005/5/30
この週末は嬉しいことがありました。
以前日記に書いた、私に吉野朔実のすばらしさを教えてくれたマンガ友だちから久々のメールがあり、「吉野朔実、いいですよね。今も読み続けてらっしゃいますか?私も結構集まりましたよ。『瞳子』も手に入りました。この作品もいいですよー。お貸ししましょうか?」といった内容だったので、これはもう、渡りに船、棚からぼた餅、ということですから、早速本日いそいそと借りにまいりました。ついでに、『月下の一群』、『少年は荒野をめざす』や『ジュリエットの卵』、『栗林かなえの犯罪』、『period I』も借りることが出来、まずは『瞳子』から読み始めて至福の午後を過ごしたという次第です。しかし、まあ、持つべきは友、その友が同じジャンルで同じ嗜好を持っている、なおかつ人並み以上の収集癖を有しているとなればこれはもう非常にありがたい存在でして、なんかもう後光が射しているようで、今晩はその友人のほうへはとても足を向けては寝られません。
しかし、これは偶然というか、この頃さるお友達の日記でもしきりに吉野朔実ネタが出てまいりまして、わたしの中でも相当「読みたいガス」が充満し爆発する寸前だったので、気持ちは通じるというのか、願いは叶うというのか、これはもう「偶然の音楽」といいたいくらいなのです。
で、『瞳子』です。☆☆☆☆☆
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吉野朔実のこの作品に関してはですねー、物語とか絵とか構図とかは少し横に置いといて(もちろんそれらも良いわけですが)、この作品に流れている時代の空気というのが、非常に私のツボにはまりました。WEB上のお友だちも書いてくれていたように、冒頭主人公が読んでいる本が金井美恵子の『夜になっても遊びつづけろ』(1974刊)で、主人公がバイトの稼ぎで買った本が尾崎翠の『全集』。これはおそらく、1979年の創樹社刊の箱入りの1巻ものなわけです。私も若くてお金がない頃この本が欲しかったのに買うのを躊躇してしまった思い出があります。そして、瞳子にとってのウィリアム・ウィルソンのような成島さんがずっと読んでいた本がポール・オースターの『幽霊たち』(翻訳は1989年刊行)です。他に夢野久作なんかも出てきます。とにかく、作中の瞳子さんが思わず口にする、「いいなー、ワンルームマンション。ベッドとソファと観葉植物。美しい器に囲まれて。ひがな1日だらだらと本を読んで暮らすの」という述懐には私も深い共感を覚えてしまいます。
それ以上に時代の空気を感じるというのは、映画では例えば、瞳子が友人の森澤君と『ブレードランナー』なんかを見に行ってるので1982年頃のお話になるのですが、やはり作中に出てくる音楽(それは主にロックなのですが)にまつわるエピソードに対してで、私もこの作者と同じ時代の空気を吸っていたんだなあと思ったのでした。ちなみに作者はあとがきで、この作品の時代設定は1980年代の後半くらいと書いています。
作中で瞳子が新聞広告でロックグループの来日前売情報を見かけて、自分はバイトがあってチケットを即おさえられないから天王台君にかわりに買いにいかせるというところなんか、今も若者たちの間にそのような光景があるのかどうかはわかりませんが、グッとくるものがあります。その来日グループがキング・クリムゾンというわけですから、洞口依子さんも喜びそうなエピソードで、12月6,7日のNHKホールということは1984年クリムゾン2度目の来日の頃のお話になっています。
この頃はまだCDは普及していなくて、音楽を聴くのはレコードだったわけです。それもやはり買う時には1枚1枚入念に吟味しながら買うわけで、それだけ高価なものだったのです。だから2枚組みも非常に勇気のいることだったわけで、瞳子はバイトの稼ぎで2枚組みのLPと、コーヒー豆とケーキと尾崎翠全集をセットで奮発して買っちゃいます。そして森澤君の部屋のレコードプレーヤーでそれを直径30cmのターン・テーブルにのせて、昔は当たり前だった比較的大きなスピーカーで聞くのです。多分森澤君の部屋は3人の供用のリスニング・ルームになっていて、音楽を聴くために瞳子も天王台君も自分の部屋のように入り込んでくる、そんなスペースなのです。昔(とくに中高生の頃)は、再生機器(いわゆるシステムコンポ)の環境が整った家は少なかったので、音楽を迫力のある音で聴く時は決まった友だちの部屋で皆して集まって聞くということが多かったのです。そんな森澤くんの部屋にはさりげなくトーキング・ヘッズの『ストップ・メイキング・センス』のポスターが貼られていたりもします。
とくに天王台君のキャラはいいですね。「おなじ皿ならレコードよー」とか「買ったばかりのレコードを、早く聴きたいという気持ちをかかえつつ、一人ファミレスでメシを食う。このちょっとだけ幸せを先にのばす、ひとときが、快感…」とか、これはもう、共感を越えて天王台君を愛しいとまで感じてしまうほどです。このキャラの軽さとブライアン・フェリー好きというのがしっくりきます。
そんなこんなで長くなってきりがないのですが、吉野さんとは音楽の趣味も相当重なっているということが確認できたということだけでも『瞳子』を読んだ収穫として、十分なのでした。本を貸してくれたお友達とネットで教えてくださったお友達の両方に、改めて感謝いたします。それではおやすみなさい。今夜は北と東の方には足を向けて寝ないようにしましょう。

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2005/5/28
平山洋介という気鋭の研究者が、『不完全都市 神戸・ニューヨーク・ベルリン』というめっぽう刺激的な書物を上梓しています。震災で破壊された神戸、不況でスラム化し復興を果したもののテロの災禍に遭ったニューヨーク、東西冷戦で引き裂かれたベルリンの、三都それぞれの「破壊/再建」の過程で、どのようなシステムやパワーが現実として働いたのかを仔細に辿っていく力作で、ルポルタージュとしても、鋭角的で冷厳な批評性に裏打ちされた都市論としても、非常に読みごたえのある一冊です。
そのなかの神戸復興の章に、ささやかなエピソードが挟まれています。といっても、その背景に丹念な調査の蓄積があることが伺え、結果、その論考は本流都市論に対する非常に効果的なカウンターパンチにもなっているのです。それは街中の地蔵についての話です。
調査地区の地蔵85箇所について場所を拾い出し、それが震災前後でどのような変遷を遂げたのかを追跡したところ、震災で多くが破壊されたにも関わらず、意外とそれは場所や形態を変えながらも周辺の住民の手によって再生していったというものです。それらの地蔵の再生を支えたのは「御利益」という観念に支えられた周辺の人々のヴォランタリーな行動でした。それらの人々の間では地蔵は生きた存在だったのです。一方で、法定の都市計画はそのような存在を前提とはしませんから、正式な復興事業区域では地蔵の居場所はなくそれらは周辺の「空隙」へと、居場所を見つけて移動しているというのです。これでは「御利益」も復興すべき地区から流れ出ていくばかりではないか、と著者のシニカルな苦渋が文面から伝わってくるようです。
しかし、「御利益」ばかりが地蔵の生き延びる方途でもないようです。昨日も書いた都心の只中にもそのような場所がありました。正確にはそれは地蔵ではなく、付近の人々からはお薬師様と呼ばれ、古びてはいるものの立派なお堂でした。新聞社の敷地の中、ビルとビルの間に細い路地が通っていて、少し奥まったところにそれはありました。昼間でも薄暗いその場所は、それでも子供たちの絶好の遊び場でした。そこで親戚のいとこたちと靴隠しやかくれんぼをしたり、ときにはそこからさらに新聞社の建物の中に入り込み、活字の鉛片が散らばり珍しい道具が置かれている活版室へも入っていった記憶があります。子供にとってお薬師様は、そのような都会にあって不思議な異界への入り口のようなものだったのかもしれません。
しかしそのお薬師様は、子供たちにとってのみならず、大人たちにとっても大きな存在でした。その新聞社ではかねがね、古くなった建物の建替えや整理移転の計画がもちあがっては消えていくのでした。何故なら、建替えのためには敷地の中にあるお薬師様を動かさねばなりません。そして、それを動かそうとするたびに、社長が病気になったり誰それが自殺したりの不幸が続くため、頓挫してしまうということでした。それでもいよいよという段階になってようやく、奈良から高僧を呼び寄せ大掛かりな御祓い・御鎮めの儀式を取り計らうことで、敷地外の隣接地にお堂を移転させることに成功したのでした。このように、「御利益」もさることながら、「崇り・怨霊」の効果もてきめんだということです。
その後、その新聞社は無事に移転して、跡地にはハイテクな高層オフィスビルが建ちました。バブルを経て、周辺の景観もがらりと変わりました。しかし、一方で昨日書いたごとく、人々に忘れ去られたかのように呆然と立ちすくんでいる幽霊ビルもあります。都心の高度に管理されているかのような空間にも、あちらこちら「空隙」が存在するでしょう。機能化や経済化のシステムからこぼれ落ちた空間に、私たちもある日ふと彷徨いこんでしまうことになるかもしれません。
さて、お薬師様はそれからどうなったのでしょうか。正式名称は「薬師堂」。それはこの一帯の地名の由来にもなっている聖所だったのです。再開発のために、一旦それは敷地外の隣接地に退かざるをえなかったのですが、今はもと居た場所に戻ってきています。それも、ハイテクビルの景観に似つかわしいものをとのデザイナーの意識が働いたのでしょうか、多面体の「ハイカラ」な意匠を施されて、周りを池泉で清められ、非常に丁重に扱われているように見受けられます。怒らせると恐ろしい存在であることがわかっていますから、商売人たちもその点は機に敏です。年に一度、奈良の薬師寺から僧侶を呼び寄せて法要も営まれているということです。
2003.9.17朝日新聞より

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2005/5/27
子供の頃に見た風景は、断片的ながらもいつまでも心のどこかに潜んでいるようです。ときにそれがふと意識と無意識の閾を越えて記憶として浮上してくるということはよくあることです。子供の頃、休みになるとよく遊びに行った祖父母の家の辺りの風景は、今でも比較的よく記憶に残っています。そこは都会の真っ只中でしたから、田舎に住んでいた子供にとっては刺激的な文物に満ちた場所でした。以前この日記にも書いたことのある迷路のような地下街や高層ビルの階段など、それは子供心にわくわくするような空間でしたが、どこかでそれを恐れていた面もあったにちがいありません。
ビルの薄暗い階段室をどんどん駆け登っていくうちに、自分が今いったいどのくらいの高さにいるのかわからなくなって目が回ってきて、急に足元もあやふやになり膝がむずむずとこそばゆい感じになってきます。手すりの間から下を覗けば、合わせ鏡の世界のように、手すりがはるか下方の焦点、奈落の底に向かって螺旋状に伸びています。まるで自分もその底へ落ち込みそうに感じて、思わず手すりと反対側の壁際へ身を摺り寄せたものです。
高いものを見上げたり高いところから見下ろしたり、というのはとくに子供にとってはスリリングな感覚でしたから、これからお話しする風景も、これまで心のどこかにしまわれていたもののひとつであり、いつか見た風景の記憶としてごくたまに思い出されることもあったでしょうか。
祖父母の家は都心の真ん中にあって、戦後まもなくに建てられた木造の古い家でした。うなぎの寝床のような細長い敷地で道路に面している辺が短い典型的な町屋割でした。定食屋を営んでいましたから、道路に面する側は店のスペースになっていて、ファサードはガラスブロック、手前にリュウゼツランの植え込みがあり、表向きはそれなりにモダンな風情をかもし出していました。住居は別棟で店の奥にあり、それは瓦屋根の普通の木造2階建家屋でした。そのころの都会の家ではどこでもバルコニータイプではない独立した物干し台が屋根の上についていました。幅の狭い急な階段で屋根の上まで上っていくのです。そこに上れば周囲が一望できます。といっても都会の真ん中でしたから、祖父母の家のある一画を残して、周囲にはビルが立ち並んで視界を遮っています。それでもその家の中では一番日当たりの良い空間であることに違いはありません。遊び道具を一緒に持って上ってそこに座り込んで、ぽかぽかした陽気の午前を過ごしたものでした。
ある日、何気に周囲に立ち並ぶビルを見廻していたのですが、そのなかで私の視線を釘付けにしたビルがありました。それは異様な雰囲気で今いる家の裏側に立ち上がっていました。子供の感覚ではそれは非常に高くて大きな壁のような印象を受けました。その壁も無愛想なコンクリートが剥き出しとなったままの壁で、開口部にはひとつも窓ガラスが嵌められておらず、骸骨の瞳孔のように空ろな黒い影が並んでいるのです。そこに人影が見えることもありません。ビル全体が大きな死体のようでした。私はそのことを興奮気味に家の大人に伝えましたが、そんなビルが建っているのかい、どこのビルだろうねえ、といった反応で、誰もまともに取り合ってはくれません。そのあと、私はそのビルの正体をつきとめようと家を出ましたが、路上からはいくら探しても見当たりません。いくら空を見上げても手前の建物に景色が塞がれてわからないのです。結局あきらめてそのビルを探し出せないまま家に戻ったのでした。
祖父母が商売をやめてその家から引越し、そして亡くなったのも、もうずいぶん昔のことです。当然その家は取り壊され、今そこは飲み屋やクラブが入った雑居ビルになっています。一帯の風景は様変わりし、いくつかの古いビルを除いて昔の風情はもうどこにも残っていないようです。向かいの新聞社ビルも新聞社がどこかへ移転し取り壊され、新しいガラス張りの堂々とした高層オフィスビルが建ち上りました。そして、わたしが昨日ライプニッツを読んだ本屋もそのビルにテナントの一つとして入っているのでした。
その本屋のフロアの一画に喫茶室はあります。まだ購入していない本も持ち込め、お茶を飲みながら頁を繰ることができます。壁際はカウンター席となっていて、窓の外は殺風景な都会の街並みです。「モナドロジー」を読み終えた私はぼんやりと窓越しの風景を眺めていました。見れば、そこからはちょうど祖父母の家のあった一帯を見下ろすような格好になることがわかりました。そこに広がる風景を見ながら、かってのその界隈の風景、記憶の中の風景をしばらく私は反芻していたことでしょう。もうずいぶん昔の出来事の断片的な情景が私の脳裏を掠めていたかも知れません。そして、ふと、一つの建物に目が止まりました。そして間もなく、私は言いようのない感覚に囚われることになったのです。目の前にあるそのビル、コンクリートが剥き出しのそのビルがそうだったのです。遠い昔、子供だった私の心をつかの間とらえた、くだんのビルだったのです。周りの風景は変わってしまったというのに、そのビルだけが今も変わらず幽霊のように建ち続けているのでした。
何かに急き立てられるように店を出、私はその幽霊ビルをつきとめようと、すでに黄昏時を迎えた街中に足を踏み入れたのでした。しかし、いくら歩き回っても、路上からそのビルに辿り着くことはとうとうできず仕舞いでした。
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2005/5/26
少し前の日記でポール・オースターの『孤独の発明』のことを書いたとき、最後に、その作品のなかで引用されていたライプニッツの「モナドロジー」の印象的な断章を付け加えたのでした。それとは別に、村上作品を幾つか読んだことから「物語」論に関する興味が擡げてきたのですが、そんな折、岩波現代文庫の『物語の哲学』を本屋で目にし、ちょうどそのラインに触れてくるような内容だったので読んでいると、物語と歴史に関わる記述の歴史についての命題に「時は流れない、それは積み重なる」とあり、そこでやはりライプニッツの「モナドロジー」の全く同じ箇所が引用されていたのでした。このような偶然が重なり、以来、ライプニッツに少し夢中です。
その後、「モナドロジー」本編に当ってみたいと思い、本屋でライプニッツ関係の本を探してみたのですが、この17世紀の哲学者に関する書物は意外と少ないようです。当の「モナドロジー」が、岩波文庫でも絶版のようですし、中公「世界の名著」シリーズでも「ライプニッツ」の巻はなかなか見当たりません。で、その時は、ドゥルーズの『襞 ライプニッツとバロック』(宇野邦一訳)を題名に引かれて買ってしまいました。今、それを最後のところまで読み進めているところですが、いやー、難しい。ほとんどわかりません。訳が悪いということじゃなくて、ただ、内容が今の私には手におえないという感じです。
でもどうしても、「モナド論」自体が読みたくなり、今日、仕事の合間に本屋に立ち寄りました。実は、ライプニッツの著作集10巻本は工作舎から杉浦康平のなかなか魅力的な装丁で出ていて、そのなかの一冊に「モナド論」は納められているのです。が、いかんせん、その本の高価なこと。一冊がどれも1万円くらいします。確かにそれだけの価値はあるのでしょう。松岡正剛のサイトなどを見てもこの著作集に関しては力が入っています。それで、その一冊を手に取り、喫茶に持ち込んで頁をめくり始めました。こんな時、こんなことができるジュンク堂という本屋はなかなかいい本屋だなと思います。で、結局30分程で読んでしまったのです。「モナド論」、非常に短いのです。それは80くらいの短い断章で構成されています。そこに4倍以上の分量の注釈がついて、せいぜい40頁ほどのボリュームです。訳も平明で読みやすいのです。しかしこれはやはり奥が深そうです。この決して多くない文章の中にライプニッツの思索の蓄積がそれこそ襞のように折り畳まれているようです。それに17世紀の人ということもあり、科学と宗教が表裏の関係にあるようで、なかなか神がかりな感じも受けます。無数のモナドが世界に充満しているところなどは、華厳経の世界観に通ずるところもあるのではないでしょうか。ライプニッツは易経についても研究したということですから東洋的な思考とも通ずるものがあるのかもしれません。わかりませんけど。
モナドと魂の関係、そして精神にまで高められた魂(モナド)と神(世界)の関係、極小の世界と極大の世界、そのそれぞれにモナドはあるというとてもスケールの大きな思考です。結局、モナドには窓がないということのようです。物をやりとりするような窓はないのです。それではモナドはどのように世界を受容するというのでしょうか。それについては、世界はすでにモナドの中に全て含まれているというのです。そしてモナド内部の「表象」により私たちは物事を感受しているのです。たしかそのようなことではなかったでしょうか、間違っているかもしれませんが。ここではそれを確認することもこれ以上内容に立ち入ることもできません。いずれ、ゆっくり読み直してみたいと思います。
帰り際に、岩波文庫のコーナーを通りかかるとライプニッツの『形而上学叙説』が復刊されていました。『モナド論』ではありませんでした。残念です。岩波さん、また復刊よろしくお願いします。そして、今、あれこれとライプニッツで検索していましたら、あるじゃないですか、中公クラシックスというシリーズに『モナドロジー 形而上学叙説』が。本屋へ行くときには、やはり下調べが必要だということですね。まあ、図書館のほうが確実なんでしょうが、本屋のほうが身近ですからね。じゃあ、そういうことで、それではおやすみなさい。

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2005/5/21
由良君美の『メタフィクションと脱構築』を読んで腑が落ちたことの一つは、少し前、柄谷行人『日本近代文学の起源』を新しく出た定本版(定本柄谷行人集1、岩波書店、2004.9.28)で再読したときに生じたある疑問と関係がある。
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『日本近代文学の起源』は学生時代に初めて読み、その後、文庫化された時に再読し、そしてまた読み返したのだが、相変わらず面白い。柄谷行人の著作の中ではやはり一番わかりやすく面白いのではないだろうか。今回の定本と以前のものを見比べてみると、あちらこちらで段落が組みなおされ、新たに文章が加えられている。また、米独中韓の翻訳版の序章と今回はじめて結章として新たな章が付け加えられている。
その結章は「ジャンルの消滅」として、ノースロップ・フライの4つのフィクション類型―「ノヴェル」「ロマンス」「告白」「アナトミー」に言及し、本来小説というものはこれらのジャンルが混交されたなんでもありの雑種な形式であって、純粋リアリズム小説は逆に特異な一形態に過ぎなかったが、日本の近代文学においてはそのようなとらえられ方はなされなかったと書く。また、通時的なジャンルの混交としてバフチンの「カーニバル的世界感覚」を引っぱり出して、近代以前の歴史的な要素の貫入によって小説にはポリフォニーな開かれの可能性があったがそれが結局は不発に終わってしまったことを指摘する。
私が疑問に感じたのは、元の稿にはなかった結章がどうしてこのようなかたちで付け加えられなければならなかったのかという点だった。それがどうにもとってつけたようにしか感じられず、その内容もよく理解できなかったのである。論考の閉じられ方も少し中途半端な感じだ。
しかし、それは結局、柄谷行人の論の展開不足にあるということが由良本を読むことでわかる。この章については、英語版の出版の際に付け加えられたものであることが序文に書かれている。おそらく、どちらかといえばこれは日本人以外の海外の読者に対して書かれた章なのだろう。柄谷には「日本近代小説」を海外のスタンダードな小説概念との上で相対化し、即席でそれを対象化する必要があったのである。しかし、柄谷行人が『日本近代文学の起源』の英語版のために「ジャンルの消滅」を用意していたとき、全く同じような主題を、由良君美は70年代後半からすでに「メタフィクションと脱構築」というより広い射程でとらえて論を展開していたのである。また柄谷のバフチンの持ち出し方に関しても、由良が1973年のバフチンに関する論考で展開していることと全く重なっている。
ここで対照的な事柄として面白いのは、柄谷と由良の夏目漱石に対する評価だ。
柄谷は、イギリスで近代小説が確立された時期に、スターンの『トリストラム・シャンディ』はすでにそれを解体してしまうような作品として書かれてしまった、でもそれがそもそもnovelというものの本質であり、漱石が『我輩は猫である』から小説を書き始めたとき彼はそのことを十分に意識していた、という。
しかし、由良は、漱石に関しては非常に低い評価である。漱石は『トリストラム・シャンディ』を好んでそれに言及しながらも決してそのメタフィクション性を理解してはいなかった、メタフィクションの可能性を理解していれば、『猫』のような作品を生まなかっただろう、とにかく古くさい感性のどうしようもない人で、言語遊戯がどうしてこんなに下手糞なのか、と漱石のことをボロクソに書いている。
このようにバフチンのジャンル論からみた小説家漱石の位置づけという点においては、両者のテキストにおいてそのとらえ方は全く反対のようである。ただ、アナトミーとしての文学とメタフィクションとしての文学、それぞれの中味をよく吟味した上でなければ、上記の漱石評価も一概にどうこうとはいえないだろうし、それは私の手に余ることがらでもあるから、両者の評価が対照的であるという点をここでは指摘するまでとしておこう。

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2005/5/18
由良君美は、昨日の澁澤龍彦とのつながりでいえば、仏文学の澁澤、独文学の種村とならんで英文学の由良君美、といわれるくらいの人気文筆家だったと記憶するが、他の二人ほど読者数が多くはなかったような印象だ。澁澤でいうところの『集成』や『ビブリオティカ』、種村なら『ラビリントス』といったような著作集がなかったからともいえるが、書きものとして、面白みは決して他の二人にひけをとることなく、そのクリティカルな強度という点では3人の中では最も上位にあったと思える。その由良が1990年に既に鬼籍の人となっていることを、先日本屋でふと手にしたこの書物の奥付を読んで知ったのだった。そうですか、そんな昔にお亡くなりになっていたのですか。それはなんとも惜しまれることで、少し早すぎた感がある。ここはお悔やみの意味も含めて手にした書物を購入し、ありがたく読まねばなるまい。
由良君美を先の二人と並べると、「幻想文学」というタームが浮かび上がってくるのだが、彼の活動は英米幻想文学の紹介にとどまることなく、英米圏以外の思想や哲学領域をも渉猟するほど知に対する貪欲さがあった。80年代のニューアカ・ブームの折には、『別冊國文学』で「ポスト構造主義のキーワード」と称して、現代思想・批評の解説本を監修もしていたくらいだ。本来「幻想文学」という括りにはおさまらない人だったというわけで、それでは何だといえば、本書の題にもなっている「メタ・フィクション」というキーワードが有効となるのだろう。そもそもイギリスで始まった小説というメディアのほとんど初期の頃から、メタフィクションなる技法はほぼ全開だったということだから、その主題としての射程は広大にちがいない。それを総括するのは大変な力技となろうが、由良君美は本書の最初のところで〈自己再帰性〉という言葉を用いて幾つかの概念でそれを説明し、なかなか明快な整理をしてくれている。それにも増して豊富な作品の例示とともにわかりやすいメタフィクション素描となっているのが、「反小説の小説史スケッチT・U」だ。文学の素養のない素人の私にとっては、なんとまあ目からうろこが落ちるような文章で、この初出が1978年ということだから、もっと早くに読んでおくべきテクストだったと思う次第。とにかく、由良君美に関しては、はやく全集なり著作集が編まれるべきではないかと思う。
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2005/5/18
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ユリイカ』の人形特集で四谷シモンの名前を見れば、やはりそこで書かれもしている澁澤龍彦のことが思い出され、中公文庫の『少女コレクション序説』などを取り出して、表紙や口絵の四谷シモンの人形の写真を眺めることになる。その人形は、あとがきにも書かれているように、1982年に制作され個展に出展された後、北鎌倉の澁澤邸に「娘」として引き取られたものであるという。そこで、季刊「みづゑ」1987年冬の澁澤龍彦追悼号を取り出してみると、そこには篠山紀信による澁澤邸内のパノラマ写真(昔、このような写真をシノラマと呼んでいただろうか)が、見開き折込みページで綴じられているのだった。澁澤が1987年夏に頚動脈瘤で亡くなった直後にとられたのであろうその写真は、主人が不在の家という静謐な空間を紙の上に定着させている。生前、主人の掌上で弄ばれたであろう様々なオブジェ、博物学的な静物の数々も妙に沈黙してそれぞれの場所に鎮座しているようだ。書斎は四方を書棚で取り囲まれ、そこにぎっしりと並べられ積み重ねられた蔵本の宇宙はかっての主人の脳髄が外部化したような有様である。そして、その一画には、先ほどの「娘」が、今も主人の帰りを待つかのように、土井典の作であるベルメール人形とともに静かに佇んでいるのだった。
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2005/5/10
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『ユリイカ』5月号の特集が「人形愛」だということを、友人が教えてくれました、で、さっそく購入。表紙は恋月姫人形、で、特集表紙がまたまた内田善美の『草迷宮・草空間』です。内田善美リヴァイヴァルの予感がします。
取り急ぎ、押井守の対談から読み始めました。彼が愛知博のパビリオン監修をしていたのは知っていましたが、人形百体の展示だったとは。「愛・地球博」、行くことはないでしょうけど、これは見たい気がします。
やはり、興味深いのは、この日記でも取り上げた『イノセンス』への言及です。この映画はダレ場にこそ映画のエッセンスがすべて入っているということで、「ドラマが単調であるとかさんざんいわれたけど...それはしょうがないんです。極端に言えば、背景を見て欲しかったのであって、ドラマ的にメリハリをつけたらそこに目がいかなくなるでしょ。」とは、まさしく私がこの映画の見方として日記で書きつけていたことでした。
この映画で、人形を人形らしく見せるのは不可能だから、バトーやトグサの人間の登場人物の方を魂がとんでいるような死体や幽霊として、人形として描いたのだということで、なるほどと思いました。まあ、アニメの場合、人形との対比上といった以前の問題として、表情豊かに人の顔を描くことが非常に難しいということもあります。つまり、アニメの登場人物に人間の役者のように演技をさせることは不可能なのです。『イノセンス』でも、人間の少女が「だって、人形になんかなりたくなかったのよ」と感情を露にして訴えかけていた場面なんか、非常に醜い表情にしか見えませんでしたから。ラストの人形を抱いたトグサの娘の微笑みも醜かったし。もっともこれは、人間をとくに醜く描こうという作り手の意思が働いていたのかもしれません。でもやはり、リアリズムのアニメの場合、登場人物とくに主人公はできるだけクールな人格に設定するということが鉄則ではないでしょうか。同じようなリアリズム・アニメの『人狼』の場合も、男女の人間劇が物語の柱になっていたのですが、女性の準主役が感情を爆発させる場面で、アニメではどうしてもその大根役者ぶりというか醜さばかりが目立ってしまう結果となっていたのでした。
辻村ジュサブローの「人形は景色だ」という言葉から押井守が理解したこととして、日本人はどんなものでも景色にしてしまう感性があるのだという指摘もその通りだと思います。景色の中で全てを語る、景色に託して何かを語ろうとする、その次元では水墨画も3Dも同じなんだ、という点。この押井のいう、思想の景観化や文化遺制としての景観という主題は、松岡正剛の『花鳥風月の科学』やオーギュスタン・ベルクなどの日本文化論・風景論につながっていく問題のようです。
ということで、今月号のユリイカ、残りもこれからぼちぼちと読み進めていくことにします。

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2005/5/8

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2005/5/7
もうずいぶんと昔のこと、学生時代、山の中腹の学生寮に住んでいました。
その寮は、もとは古い鉄筋の校舎で、大きな教室を小さな部屋に小割に改造した急ごしらえの殺風景な建物でした。学生時代の5年間をその4棟建て・4階建ての建物を根城としていましたが、その大半を南の棟の4階の一番西端の一人部屋ですごしました。それはほとんど引きこもりとも言ってよいような生活でした。ある半期などは学部に出た日数が両手両足で数えられるくらいだったと記憶します。あまりの音沙汰なしのため心配した友人が部屋までわざわざ生命反応を確認しに来てくれたことも一度や二度ではありませんでした。外から見れば病気のような状態だったかも知れません。体重も極端に減り(175cmの身長で)50kgそこそこまで落ちたこともありました。噂では私の住んでいた部屋は過去に2人ほど自殺者が出た部屋だということでしたから、友人も多少心配したのかもしれません。
でもその時の私は、実際なんと幸せなことだったでしょう。貧しくはあってもバイトと少しの奨学金でそれほど食べる心配もせずにゆうゆうと暮らせたのでした。そして何よりも有り余るほどの時間がありました。本なんて読みたいだけ読めるし、映画も見ようと思えばいつだって見れます。寂しくなれば友人の部屋に行って酒を飲みながらいつまでもぐだぐだとだべっていられます。明日のことなんて全然考えなくてもいいのです。
明け方、空が白々となり鳥が鳴きだす頃ようやく眠りにつき、目が覚めてみると陽は傾き西の空を茜色に染めている、ということがしばしばでした。建物は湾を見下ろす山の中腹という絶好のロケーションにありましたから、部屋からの眺めは最高です。ある晴れた日など、朝から夜まで半日以上をベランダからただ海を眺めるだけで過ごしたりもしました。太陽の高度と傾きによって海は様々な光を反射し、水面は刻々と色を変えていきます。港を出た大型船がじりじりと緩慢な動きで海峡を抜けていきます。夜は夜で星屑をばらまいたような夜景が眼下に広がり、夜半過ぎになると海沿いの埋立地にある鉄工所の巨大な溶鉱炉の炎が空を不気味に赤く焦がします。
そのような夜景を眺めて酒を飲みながら、私たちはいつも話していたものです。このような場所でこんなきれいな風景を見ながらほろ酔い気分で暮らせるなんて今だけだよ、これから先、一生、こんな夜景を眺めながら夜更かしする日々を送ることなんかないだろう、こんな時間はいつまでも続かないのさ、と。その頃の自分の生活を振り返れば、本当に非生産的で自堕落で恥ずかしい限り、悔悟の念は今も少なからず残っているのですが、一方で、そんな風に暮らしていたその頃の自分のことをとても羨ましいと思っている私がいます。
どうして、こんなことを私は書いているのでしょうか。そう、結局はそうだったのです。今はもう、その頃の暮らしからは随分と隔たってしまったということです。そんなことは当たり前の話なのです。当然です。けれど、疲れて何もかも億劫になり現実から逃避したいと思う時、後ろ向きの気分な中思い出すのは、昔のそんなゆったりとしていた時間の記憶です。一体全体、時の進み具合はこのところとくに速く感じられて、日々の生活や仕事に追われ、その中で自分の時間はますます限られていくようです。そんなとき例えば、わたしは生きている間あと何冊の本が読めるだろうか、と考えたりします。私の場合、だいたい1年間で読める本はせいぜいが80冊なのです。10年で800冊、30年で2400冊です。がんばっても、図書館の書棚の10mに満たないくらいでしょう。これからの時間を測る尺度として、それを目に見える形にすれば、それくらいのものなのです。それはちょっとショックなことです。
それでも、そんなゆとりのない生活にあっても、自分ひとりだけの愉楽のひとときをどうにかつくろうとしています。大切だと思えることは、陳腐ですが、独りになって自分と向き合うことです。私は、文章を読むことが好きです。ジャンルを問わず読むことが好きなのですが、でも好きな文章はというと、書いた人の気持ちだとか感覚だとかが読んでいて心にしみ透ってくるような文章です。とくに孤独な心が語るモノローグのような文章が好きですね。それは多分、私にとって読むことは自分と向き合うことだから、孤独なモノローグというのは必然そのような自分と向き合うことから書くことが始まるわけですから、読む自分の心と書く彼や彼女の心とがそこでは重なり合うような関係が形づくられるために、より心が動かされるということなのでしょう。それは極めて近代的な表象作用じゃないかといわれれば、そうなのですけどね。
だから、ネットがそんなモノローグが繰り広げられている場に他ならないということを知ったとき、正直青天の霹靂でした。もう4,5年も前のことになるでしょうか。WEB日記というものの存在を知り、そこで公開されたモノローグを読むことが、ひとりの時間の日々の楽しみのひとつとなったのです。そして、お気に入りの日記は毎日訪れるようになり、時にはWEB上で管理人の方とお話したりもしました。そして、そのうち自分がWEB上で書くということもできるんだということに気づいたわけです。というより、これはもう今まで何度も書いていることですが、その日記を読むことが、今度は自分に書くことを促すようになったという訳なのです。読んだから書こうと。それで今に至るというわけですけど、もはや書くということ、文章をつくるということが自分にとってある種のリハビリのようなものとなってしまっているのかもしれません。
学生時代のように日がな部屋の窓から外の風景を眺めているというわけにはいかなくなりましたし、今窓の外で広がっている風景はそんなに素敵なものでもありません。しかし、気が向けばWEBというものを通じて机上のモニターの窓からは様々な景色を見ることが出来るでしょう。それは実際の風景ではなく心象風景といったものなのかも知れないですが、いつか見た海のようにそれは様々に色を変え、いろんな光を私に投げかけてくれることでしょう。そして今度は私自身が風景となって、誰かの心に映し出されるということもあるのかもしれません。昔「モナドには窓がない」という題の小説だったかエッセイだったかがりました。その内容は知らないのですが、私にはモナドには窓があるように思えるのです。それは錯覚なのでしょうか。今も窓の外では景色が広がっているのです。
オシ・ゴト・イソ・ガシ・スギ・ルネ コ・ノ・ゴ・ロ
ヒト・リノ・ヨル・モテ・アマ・シテ
カナ・シミ・カン・ジル・コト・ナイ ダ・ケ・レ・ド
ヤサ・シク・スル・コト・デキ・ナイ
緑が燃えている 風が叫んでいる 海が騒いでる
君にくちづけて 外へ
ビルがこわれていく 屋根がはがれていく 地面がわれていく
君を抱きしめて 見てる
天使が空を飛ぶ 悪魔が手をふるよ 神様が笑うよ
ごらんすてきだよ “景色”
B.G.M. 「景色」 perform by PSY・S

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