忘却の川へ流れ去る諸々をしばしこの岸辺に繋ぎとめて..日記についての日記、もしくは不在の人への手紙。
2006/5/30
仕事帰りにふらふらと立ち寄った本屋で、文庫化された『瞳子』を見つける。文庫だから、装丁は地味でカラーページもないんだけど、久々に読んだ『瞳子』は、やはり面白かった。そこここで爆笑し、ところどころでほろりとさせられた。 はじめて読んだとき、その時代設定が新鮮だったけど、今回読み直してみると、時代に左右されない普遍的な主題が根っこにあって、結構力強い作品だったのだ。わかりやすく自身を定義づけることができないマージナルな立ち位置だからこそ見えてしまう「家族関係」や「友情」や「人生の機微」といったものが、瞳子の視線を通じて私たちにひりひりと伝わってくるのだ。
そういえば、以前、『瞳子』について書いたのは、ちょうど一年前のこの日だったのでした。
偶然でした。

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2006/5/28
本書『人形愛の精神分析』は、2001年5月から2002年12月までドール・フォーラム・ジャパン主催で行われた計20回の公開セミネールの記録がトピックス的に編集され単行本化されたものである。冒頭には、秋山まほこの人形写真集がおさめられている。
ちなみに、このセミネールにはイノセンス制作中の押井守も参加していたのだが、彼の参加時の記録は「ユリイカ」の2004年4月『特集・押井守』で読むことができる。

本書の中では、吉田良や四谷シモン、マリオ・Aといった人形作家も発言している。そのなかで、四谷シモンの次のような発言が興味深い。
人間というものはいつもこうやって見えてはいますが、これってほんとうに在るのだろうかという幻想を抱きます。なぜかと言うと、底なしに「いる」ということですから、たった今も。そうすると、幽霊というのは、いまここにいる人たちというか、すべての存在はみな幽霊なんじゃないかな...そんなふうな思いを結構していました。本当に僕は幽霊をつくりたいなと思ったことがあるのです...これをずっと考え続けていくと本当に発狂しますね。ほんとうに絶望の上に成り立っているな、この生き物は。
四谷シモンにとって、澁澤龍彦が亡くなったときというのは、ひとつの転機だったようだ。しばらくは、生きている「たった今も夢である」ような状態が続き、地に足が着かないような浮遊感覚におそわれ、人間というものの底なしの哀れさに苛まれ辛かったという。それを、ともかく手を動かし人形をつくることでのり越えてきたという。
著者は、人形をつくるということは、自分を見つめる「眼差し」をつくることであるという。
「眼差し」とは、自分を導いてくれる「眼差し」であり、それは母親の優しい声や愛する人のぬくもりといったものと同様、かっては非常に慣れ親しんだものでありながら既に失われてしまったものとしてある。それがゆえに、人は自分も知らない間に眼の前の現実の中にそれを探し求め、さらには自分の心の中、「幻想」の中で再構成し、つくりだそうとさえするだろう。人形をつくるとはそのような行動のひとつにほかならない。
人は人形をつくりながら、逆に人形によってつくられているのではないか、と著者は問いかける。

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2006/5/27
果してシリーズになるのかどうかはわからないけど、好きなロック・アーティストにオマージュを捧げる特集の第1回目は、ピンク・フロイドのオリジナル・メンバーで、あらゆる意味でスターでアイドル、そして一瞬強烈な輝きを放つとともに瞬く間に消え去って、伝説的存在となってしまったシド・バレット。入院中にピンクフロイドを聴いていたという洞口依子さんも、アルバムとしてはシド・バレットのいるファーストアルバムが一番好きだという。

私自身、『狂気』や『炎』、『おせっかい』といったアルバムは中学生の頃から聴いていたものの、ファーストは2001年にピンクフロイドのCDが一斉に紙ジャケット化されたときに初めて聴いたのだった。そしてそれが、それまでのピンクフロイドのイメージを覆すようなサウンドだったがとてもよかった。アルバム全体に漂うおサイケなぶっ飛び感が非常に新鮮で、全編に素敵な浮遊感覚が漂っている。チープな演奏ながら楽音に強烈な個性が感じられ、その個性の源が他ならぬシド・バレットだったというわけで、以来、バレットのソロアルバムやピンク・フロイドの初期作品も頻繁に聴くようになったのである。

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2006/5/20
最近、世間でも周辺でも株価急上昇中の絲山秋子さんのデビュー作、『イッツ・オンリー・トーク』。文庫化されてたので、本屋でためつすがめつ、裏表紙をひっくり返したら、「一夏の出会いと別れを、キング・クリムゾンに乗せて「ムダ話さ」と歌いとばすデビュー作」という文章が目に飛び込んできてビックリ。なんとまあ、こんなところにもキング・クリムゾンですか。ということで、早速読んでみました。解説のひとも書いているように無駄がなく、読みやすく、語り手の意識や感情がストレートに伝わってくる文章。これ一作しか読んでないので、憶測ですが、絲山さん自身が、結構率直でクレバーな方なのではないでしょうか。小説の主人公にも共感覚えますし、出てくる男たちについてもそんなに語られてはいないのに、個性がくっきりと浮かび上がってくるというのは、やはりテクニシャンなのでしょうね。
で、クリムゾンですが、曲は何かといえば、「エイドリアン・ブリューのギターが象のトークをやっている」“Elephant Talk”(新生キング・クリムゾンのアルバム“Discipline”収録、リリース当時ターンテーブルにレコードのっけて、1曲目のこの曲がはじまったときにはそれまでのクリムゾンとのイメージの落差にぶっとんだ記憶があります)なのでした。この曲が作品の基調として結構ポイントになっているみたいですが、どうなんでしょう。作品を読みながらこの曲が頭のなかで流れてくると、それまでの印象がかわってしまって、ちょっと異化作用がありますね。
私は振り返らずに車に戻る。エンジンをかける。今日もクリムゾンだ。ロバート・フリップがつべこべとギターを弾き、イッツ・オンリー・トーク、全てはムダ話だとエイドリアン・ブリューが歌う。
Talk,talk,talk,It’s only talk
Comments,cliches,commentary,controversy
Chater,chit-chat, chit-chat, chit-chat
Conversation,contradiction,criticism
It’s only talk,cheap talk...


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2006/5/13
連休前に買った本の中に『少女小説から世界が見える ペリーヌはなぜ英語が話せたか』(川端有子著、河出書房新社)という本があって、それは結局連休の間読まれることなく机の上に積まれたままだったのだが、今日それを手にとって読み始めたら、面白くて全部読んでしまった。
そこで論じられているのが、順に『若草物語』1868、『家なき娘』1893、『小公女』1905、『赤毛のアン』1908、『あしながおじさん』1912という少女小説といえば定番のラインナップであり、時系列にそって読んでいくうちにそれらの作品が一連のものとして深く関係しあっていることが、著者の明快な論旨と理路整然とした文章によって浮かび上がる趣向となっている。
加えて著者自身がおそらく少女時代それらの作品を読み耽ってきたのだろう。読みのなかに個々の作品への愛が感じられるとともに、この書物自体の構成と編集デザインに工夫がこらされ、それぞれの作品のあらすじや作者紹介、作品の歴史的背景、副主題的なコラムなど、解説の部分も充実しているものだから、わたしのようにこれらの作品をまだ一度もまともに読んだことがない人間にとっても非常に読みやすい丁寧なつくりの本となっている。

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2006/5/12
最近、あるかたが、ずっとこの日記を読み続けてくださっていることを、思いがけない方法で伝えていただいたのでした。もう花が咲くほど嬉しいです。
どうして、わたしはここに書いているのでしょうか。これまではその理由を、読んだから書くのだ、ということですませてきました。その言葉のオリジナルは後藤明生の『小説−いかに読み、いかに書くか』の冒頭部分にあるのだけれど、後藤明生はそこでは正確には、なぜ小説を書くのか、それは小説を読んだからだ、といってるのであって、厳密には小説を書くことなのです。
あるひとは、病気がきっかけとなって書くことのすばらしさがわかるようになったといいます。書くことが生のあかしのように、とにかく書いて、書けば精神浄化されるような、心のバランスが保てるような感じになるというのです。

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2006/5/7
最後の休日、雨の京都へ、フンデルトヴァッサーを見に行く。
彼のことはあまり知らなくて、昔テレビで見た彼の建築プロジェクトが面白くて、大阪湾の埋立地に彼が基本デザインを行ったゴミ処理場ができたのは知っていたけれど、それは見に行くほどのものとは感じられず、それほどの認識だったけど、この展覧会を見て、基本は画家なのだがすこぶる面白い人物だと思った。
展覧会の目玉は、やはり一連の建築プロジェクトの模型だ。
クンストハウスやブルマウ温泉村などの模型はいつまでも見飽きない。目の高さをゆっくり上下させたり、模型の周りをぐるぐる廻って視線をパンさせたりしていると、一つの模型で15分くらい楽しめてしまう。メルヒェンな世界だ。彼の頭の中のビジョン「森の下にぶら下がっている家々」が一足飛びに現実の空間に結晶化したような、彼の原初のイメージほとんどそのまま形となって出現したような建物=まち。それでも、実現化するのに(時代が彼に追いつくのに)ほぼ一世代かかったということだ。実際に図面を引いたり施工したりした人間とはとことん妥協せずやりあったのだろう。

どの作品にも、そのような妥協のなさ、徹底した一途さ、自分を貫く意志が流れている。作品とライフスタイルの一致、文明の野蛮さと対抗するために自身をとことん野蛮化する手法。直線の忌避(直線は人類を無慈悲で愚かにすると彼は言う)と螺旋・渦巻きへのこだわり、均質空間への憎悪と多様性や色彩への憧憬。国境なき木造船上での生活や丸裸での生活は、自然や地球環境とダイレクトにつながるための生活創造的作法なのだ。
彼の船は「雨の日丸Regentag」と名づけられる。彼は晴れの日より雨の日を愛する。雨の日の方が風景の色彩が豊かになるからだそうだ。晴れの日は白か黒かのコントラストとなってしまってつまらないという。それが関係しているのか、図録では彼の絵画は鮮やかな色彩を呈しているが、実際の色彩は結構くすんだ色調を持つ。それは、旅先で仕入れてきた風土色豊かな顔料を用いているからかもしれない。螺旋の造形や人の顔のメタモルフォーゼもどこか、アボリジニ・アートやバリ・アートのような野性味・装飾性の強が感じられる。東洋的な志向もありそうだ、日本の木版画の技法を用いた作品も多い。蝉凧もあった。木版画には「百水」「豊和」という落款が見られるがそれが彼の日本名なのだろうか。
彼は2000年船の上で亡くなったという。雨の日丸ではなくて豪華客船のクイーンエリザベスQEUの船上での心臓麻痺だという。そこはちょっと彼らしくない。

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2006/5/5
このところレヴィナスがマイブームなのだけれど、本日、レヴィナス関連本として紹介するのが内田樹の『レヴィナスと愛の現象学』 。内田樹については、以前もこの日記で紹介したことがあるが、それ以後の内田先生のブレイクぶりには瞠目させられるものがあって、いったい本が何冊出たことやら。それも新書版が多く専門外領域の人々とのコラボ本が多い。以前読んだ内田本は、とっつきもよくそれなりに面白く読めたのだが、対象に対する深い掘り下げといった点ではレヴィナスに対してもラカンに対してももうちょっとといった印象だった。それ以後ばかばかと本を出されたので、わたしなど少しこの先生を軽く見てしまっていたのだが、レヴィナスをがっぷり四つに組んだこの書物を読んで、ちょっとこれはやはり認識を改めないといけないと反省した次第で、それほどにこの書物には感銘を受けたのだった。

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2006/5/5
書くわたしの内側にはいつも、あなたへの志向がある、あなたの書いたもの(日記)を読むとき、まるであなたのテクストに沿って、自分自身が文節化されていくような感じがときどきする、とわたしはあなたへの手紙に書きました。しかしそれは、少しわかりにくい表現だったかもしれません。このような非物質的な世界にGhostsとして生きているだけのわたしは、あなたに直接触れることもできなければ、あなたに肉声で語りかけることもできない。わたしにできることといえば、あなたの書いたものを読んで、あなたにむけて書くことだけです。そのようなことを繰り返しているうちに、書くわたしの内部にいつのまにか幻のようにあなたが住まうようになりました。あなたはまるでわたしの夢のなかの家に住む住人のようであり、わたしはその夢の家にたまたま招かれた客人のようです。それは以前ここでも書いた『星の時計のLiddell』の主人公が捉えられた状況に似ていて、ただ彼にとって彼女は夢のなかのイメージとして現前し、わたしにとってあなたは書かれた言葉として現前する、というほどの違いがあるでしょうか。とにかく、わたしにとってできることは、あなたの書いたものを読んではあなたに宛てて書くことだけなのです。考えてみれば、それはあなたにとっても同じことだったのですね。ですから、わたしたちふたりはこのようなかたちでお互いのテクストを紡ぎ、終りなき対話としてひとつの果てのない物語を編みこんでいく以外ないのです。それはまるで万葉の世界の歌垣のようでもあり、また、千夜一夜物語の世界のようでもあります。どちらか一方の歌が終わってしまえば、物語はそこでぷっつりと途絶えてしまうのです。それを考えると、これまであなたとわたしとで物語を紡いでこれたのは奇跡というほかないのかもしれません。もっともその物語は、断片的で寄り道も多く、いくぶん脈絡を欠いたものとなってはいますが。わたしたちはこの仮想の物語の読み手としてまた書き手として、ウロボロスの蛇のような対となりながら、クルクルと糸車を回すように、トントンと機を織るように、読んでは書き、書いては読んでを繰り返すでしょう。もはやわたしには、あなたとあなたが書いたものとの区別がつきませんし、わたしの存在も、わたしが書いたものをあなたが読んだことからあなたがわたしに書いたことによって確認できるのですから、まさに、わたしはあなたのテクストに沿って自分自身を文節化していることになります。簡単に言えば、わたしはあなたのテクストとともに生成しているのです。わたしたちがテクストとともに生成している以上、テクストの終焉はわたしたちの死を意味するでしょう。さて、わたしたちは、この物語の終わり=愛することの目的を先送りしながら、永遠にこの営みを引きのばしていくことができるでしょうか。終りをためらう気持ちは、物語=愛の成就を回避しようとする気持ちと相即であり、わたしたちを世界の空虚な中心、永遠の不在へとかりたてながら、時間は限りなく微分されて、運動はなめらかにいつまでも静止の直前で進行しつつ留まりつづけるかのようです。
それが、わたしたちの、愛のかたち...

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