忘却の川へ流れ去る諸々をしばしこの岸辺に繋ぎとめて..日記についての日記、もしくは不在の人への手紙。
2006/9/27
−あなたの瞳のなかに雪が降っています
−ではあなたの眼のなかには何がありますか?
−あなたでしょう
−性急なんですね。自分では自分の眼を見られはしないのに
−あなたが見て確かめればいい。それに、性急でなかったら忍耐する必要もないんですからね
−忍耐は、性急の受ける罰なんでしょう。だから、性急であってはいけない、と誰もが言うんです。
−あなたの言うことは、いつも決って、忍耐と性急さについてなんですね
−それについて語るのには、少なくとも二人である必要があります
−ええ、二人でなければなりません。少なくとも、二人。
そのように〈あなた〉たちは語り、ほとんど意味もなく微笑みを浮かべる。
ところで、実は何もはじまったりはしない。実は、何もはじまったためしなどはないのだ。ただ〈あなた〉は、いきなり、ここにいて、本当に、いきなり、ここにいて、その性急さときたら、信じられないほど唐突で、法則というものを無視している。
「花火」
彼が彼女をあまり長いあいだ見つめていると、彼の眼に見えてくるのは、彼女にとって換わり彼女に重ね合わされた、「不在」のようであり、彼はそれをなおも見つめることにおののきはしない。
−わたしがあなたを忘れたら、あなたは思い出すでしょうか?わたしのことを、あなたのわたしについての忘却のなかで
−でも、あなたを忘れるのはわたしなんでしょうか。思い出すのはあなたなんでしょうか?
−あなたでもなく、わたしでもない
忘れつつわたしたちから消え去るものはこの忘却のうちに、思い出す能力をもわたしたちのなかに消し去る。そのとき目覚めるのは「不在」の思い出。
忘却、忘却以外の何ものでもなく、忘却のイマージュ
期待によって忘却に返されたイマージュ
「期待 忘却」

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2006/9/25
21世紀になって少し経って、日本ではこのところ、皇室に子どもが生まれ、首相も新しくなって、巷では景気が良くなっているなどと言われ、皆さんようやく90年代のバブル以降の経済の低迷を脱したかのような気分のようだけれど、こちらの生活はいっこうに良くなる兆しもなく、将来に対しては不安要因ばかりで、ことわたしのまわりだけがそうなのか、なにもいいことはありません。小泉改革の行く末に聞こえてくるのは、格差社会だとか社会の階層化だとかいった言葉で、新しい首相は「美しい日本」などとおっしゃっているようですが、いったいこの社会はどんな方向に進んでいくのでしょうか。わたしとしては「美しい日本のわたし」というよりは「どこまでも曖昧な日本のわたし」といったところです。
先頃、といってももう2ヶ月くらい前になりますが、社会学者の鶴見和子さんがお亡くなりになりました。88歳ということで相当なお歳だったのですが、この10年ほどは病との闘いのなかでの執筆活動が主でしたから、研究活動としてはまだまだやりたいことがおありだったでしょう。彼女の著作はほんの数冊しか読んではいませんが、彼女のおかげで南方熊楠の偉大さを知ることもできましたし、彼女の柳田民俗学の読み解きも刺激的でした。また、近代文明へのクリティカルな視座からの水俣やアジアの文化への眼差しやエコロジカルな社会論は、日本人であるわたしたちにはこれからも必ず必要なものと思われ、今後の議論の豊富化が待たれるところでした。また、彼女はで歌人でもあり、女性であり、単独者でした。結婚もしなければ子どもも生みはしなかったと思いますが、自分がひとりの女性であるということに常に自覚的であったように感じます。
以前このブログにも、わたしは彼女の共生の概念を書いたことがありました。それはうろ覚えで書いたものだったので、正確ではありませんでした。今日、彼女の著作をぱらぱらとめくっていると、ちょうどそのテクストにぶつかったので、もう一度書き記しておきたいと思います。
1996年の出版というとちょうど今から10年前になりますが、『内発的発展論の展開』という書物のあとがきにそれは見つかりました。そこで彼女は、この本の到達点として『アニミズムの倫理と内発的発展論』を展開したいのだと書いています。ここでいうアニミズムの倫理というのが、平たくいえば環境倫理なのですが、それは「価値としての共生」であり、生きとし生けるものの「相互共生」であって、それは次の4つの柱からなると書いたのでした。
相互の利益となるような緊密で恒久的な関係としての
1 女と男の共生(家族)
2 人間と人間以外の自然のものとの共生
3 異なる文化を持った人々の国境内、国境を越えての共生
4 今生きているもの、死んだもの、これから生まれてくるもの、世代間共生
とにかく、彼女はわたしにとっては、戦後日本のリベラリズムの最良の部分を象徴する女性でした。合掌。

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2006/9/23
黒沢清の『LOFT』を見てまいりました。ホラー&ラヴ・サスペンスということで、黒沢清が久しぶりに女性を主役に据えた映画だということです。で、主役は中谷美紀なのですが、よかったです。冒頭の鏡に映し出された彼女の素顔と眼差しの凄みのある美しさにまず引きつけられます。中谷美紀以外の出演者の顔も皆それぞれすごかった。豊川悦司も安達裕実もみなどうしてあんなに凄い顔なのでしょう。ホラー映画だから怖い顔なんだということではないのです。久しぶりに映画館で見たからでしょうか。人や自然や内部空間も含めて、スクリーンに映し出された透過光線ってなんて美しいのだろうと思いました。
この映画は結構サービス精神に溢れている映画だと思いました。先の役者の顔もそうですが、光と影や気配が充満した多彩なカメラワーク、画面に登場する大小の道具立て、複雑なプロットの一方で跳躍する物語進行、これらのものが合わさって最初から最後まで集中力が途切れることなく楽しめました。巷では、ストーリィがよくわからないとか、あのエンディングは滑稽すぎるとか言われているみたいですが、全然気になりませんでした。とにかく次から次へと展開する絵をわくわくしながら見つめていました。ホラーなショットはジャパニーズ・ホラーのパロディみたいなのですが、それはおそらく海外資本のプロデューサーへの配慮でしょう。
男女の恋愛劇のほうは、のっけからクライマックスでした。中谷美紀が豊川悦司のいる不穏な館の窓へと引き寄せられます。中には運び込んだミイラのそばにぐったりと腰を落とす豊川悦司。彼が見つめる磨硝子のほのかな白い四角の光の中にぼんやりと黒い染みがあらわれ、それが徐々に人の形となって主人公の顔が浮かび上がると、今度はそれに近づく豊川悦司。彼は中谷美紀の硝子に据えた手に自らの手をそっと重ね合わせていきます。ベタだけど、見せるシーンでした。ベタといえばこの映画、音楽も少しベタでしょうか。それもおそらく演出のうちなのでしょうが、絵を見ていて少し音楽が邪魔なときがありました。

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2006/9/18
昨夜は眠れなくて、深夜、缶ビール片手にTVのスイッチを入れてみると、なんと懐かしい、原田知世主演、大林宣彦監督の『時をかける少女』が放映されていた。これを見るのは一体、何(十) 年ぶりのことだろう。今、アニメーションの『時をかける少女』が公開中だそうで、これがなかなか評判のようだ。キャラクターデザインが『エヴァ』の貞本義行で、古風な原田知世の主人公とはまた違った、今風のキャラ設定が魅力的らしい。それにしても、この原田知世の幼いこと。少し前に見た『さよならCOLOR』の彼女とは隔世の感がある。当たり前の話だけれど。
大林映画といえば、わたしにとってはやはり、『転校生』『時をかける少女』『さびしんぼう』の初期尾道三部作であり、そのなかでもこの『時かけ』がその頃飛ぶ鳥を落とす勢いだった角川の配給ということもあって、最もヒットした作品で、大林監督の出世作となったと記憶する。松任谷正隆のクラシカルで叙情的な音楽と尾道・竹原の古風な街並みを背景に進められる物語は、原作が筒井の学園SF物でありながら、独特のジュブナイルなリリシズムとファンタジーに満ちていて、当時の少年少女たちの心に深く訴えるものがあったのだった。
しかし、わたしの場合、この『時をかける少女』の見方については、たぶん一般の人たちとは違ったところがあったかもしれない。原田知世演じる主人公の芳山和子(そういえば新作の『時かけ』にも芳山和子が登場するという)のピュアで初々しいキャラに強く惹かれながら、その物語の展開を少し屈折した眼差しで追いかけていたのである。その眼差しの立ち位置は、脇役である尾美としのり演じる醤油屋の吾郎ちゃんにある。

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2006/9/17
去年6月の新作『OCTAVARIUM/オクタヴァリウム』のリリースとそれに伴う今年1月のジャパンツアーを経て、Dream Theaterからまた新たな新作が我々の手元に届いた。新作はCDにして3枚組、DVDでは2枚組となるライヴ・アルバムで、今回の注目はなんといってもフル・オーケストラとの共演である。このグループ、もう行き着くところはフル・オーケストラとの共演か超絶技巧アンプラグド・アンサンブルしかないのではないかと、以前にも書いたことがあるが、早々にその一方をやってしまった。時は2006年4月1日、ニューヨークはRadio City Music Hallでの1回きりの公演で、彼らの20周年記念盤ともなっている。ZABADAKといいDream Theaterといい、なんともはや20年、長いものだが振り返れば短い幾年月である。

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2006/9/16
一般のブログでは、コメント欄以外を除いた本文のテクストは、日記と同様モノローグの連なりであるのに対して、このブログ日記では、ときおり「手紙」というカテゴリーのもとに対話体の文章を挟みこんでいる。「手紙」以外のカテゴリーにおいても、対話体の文章を時折挟みこむ。対話体の文章は「あなた」に宛てた文章であるという形式のもとで、「です・ます」調で書かれる点に特徴があり、時折、さも「あなた」の具体的な事がらに言及したような話が書かれたりするから、読み手としては、これはやはり実際の誰かに宛てて書かれた手紙なのだと思うだろう。しかし、この場所に書かれたものを読む限りでは、当の相手が誰なのかはおろか、その誰かが実際にいるのかどうかさえもわからないはずだ。
この世界の法則では「あなた」は、今、ここにいない「不在」の「あなた」であり、その意味で「仮想」の「あなた」なのだとしても、わたしにとっては、さも眼の前にいて語りかけている相手は「あなた」以外に他ならないのだし、「あなた」がまぎれもなくそこに「存在」するのであれば、わたしは今日も「あなた」に対して語りかけるだろう。わたしが「あなた」にこうして語りかけるとき、まるで「あなた」はわたしのすぐそばにいるようだ。「あなた」についての具体的な事柄、髪型や眼の色、顔の貌や体つき、わたしに語りかける声や笑ったときの表情、あなたが通り過ぎたときに鼻先を掠める香りなど、それらのことはもうすでに一切が曖昧な記憶としてあるだけで、いまではもうその記憶も覚束なげで、ほんとうに「あなた」という人がいたかどうかさえもわたしにはもはや自信はないのだけれど、こうして「あなた」について語っていると、わたしはますます「あなた」の存在を確固たるものとして、感じるはじめるだろう。
この世界の法則が崩れるのは、どんなときだろうか。それはわたしが「あなた」はいないと告白したときだろうか。「あなた」なんてそもそもいなかった。それはわたしが頭の中でつくりあげた、ただの幻想だったのです。そしてもうわたしは、「あなた」に向けた「手紙」を書くことをおしまいにする、そんなときでしょうか。
それとも、ほんとうに「あなた」がこの世界に現れるたとしたらどうなるでしょうか。あなたがこの世界に現れる方法、たとえば、コメント欄に「実際の」「あなた」からの書き込みあったとしたら。「いつも、お手紙ありがとう、わたしはどうにか元気でやっています。あなたのほうはお元気ですか? from ネコ」。わたしは戸惑わずにおれるでしょうか。あなたはほんとうの「あなた」で、「ネコ」さんはほんとうの「ネコ」さんで、「あなた」はほんとうに「ネコ」さんだったのだろうかと。わたしはわたしのなかでなんの確証もないまま、「ネコ」さんをほんとうの「あなた」として、対話しつづけることが果してできるでしょうか。手紙を書き続けていくことができるでしょうか。その自信がなかったとしたら、わたしはあなたは「あなた」じゃないと宣言し、それでも、「わたし」はまぎれもなくあなたにとっての「あなた」で、そのように今まであり続けたのだし、これからもそうあり続ける他はないのです、などと「あなた」にいわれでもするなら、わたしはもうこれからは「あなた」に語りかけることはないでしょうし、「手紙」も書くことはないでしょう、といって、自分の中に深く沈潜していくことになるのでしょうか。
ほんとうの「あなた」がこの世界に現れたとき、この世界は、徐々に崩壊をはじめるのでしょうか。

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2006/9/13
この前は、黒沢清の映画の幽霊的なものから『攻殻機動隊』のGhostへと話が及んだのだが、先日見た一編『タチコマの家出 映画監督の夢 ESCAPE FROM』(S.A.C.No12)では、生命維持装置のような箱におさまった映画監督の脳がでてきた。この脳の内部には持ち主である映画監督自身がつくりだした映画館が封印されているのだ。この脳に接続したものはみな、この監督の理想の映画が上映されている仮想の映画館へと誘われ、そのすばらしい作品に心奪われ、誰もがそこを離れられなくなるのだった。皆が皆、夢見心地で監督の夢を眺め続ける、夢のような光景。
その監督の夢に接続しかけたタチコマは、そこにタチコマにとってはいまだ未知のGhostの所在を垣間見ることになる。バトーの天然オイルを注入され、自我に目覚め始め、よりいっそうの知性の獲得を求めて外部の情報を自ら摂取しようとするタチコマ。Ghostにふれることで機械から存在者へ大きく踏み越えようとするタチコマ。しかしそれは未遂に終わる。それ以降、タチコマ内部の変容は草薙素子をある種の脅威へと追い立てるだろう。それはまるで、人の心を宿し始めた内田善美の「ネコ」のようだ。
さらに、第15話「機械たちの時間 MACINES DESIRANTES」ではタチコマが、とうとう自身の個性や意思を自覚し始める。この話のなかでのタチコマたちの会話が面白い。サイボーグと人間の差異だとか、精神が身体と切り離すことができるのかと真剣に議論するタチコマ。このようなタチコマの進化に危機感を感じた少佐がバトーを呼びつけて部屋のなかで相談する。その場面で、少佐の態度の変化に気づいたタチコマがそれを盗み聞きしようとするシーンがあり、それが『2001年』からの引用となっていてなかなか楽しい。ほかにも、クレタ島人のパラドックスでサイボーグを煙に巻いたりもしていて、それは『ブレードランナー』を思いださせるのだった。
そんなタチコマが、Ghostに思いを馳せる。アナログのバトーたちにとってGhostの源にあるのは神なんじゃないかと、それは、体系を体系たらしめるために要請される意味の不在を否定する要素なんだよね。でもって、デジタルな僕たちにとって、それは数字のゼロみたいなものなんじゃないかなー。ねえねえ、Ghostを持つってどんな気分?いいなあ人間は死ぬことができて...バトー、困惑
せめて、スクラップにされる前に「ミキちゃんに会いたい」と欲望するタチコマ(MACINES DESIRANTES?)、欲望する機械、内部に幽霊を宿す機械、もはや、それは人間そのもの。

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2006/9/11
少し前に洞口さんつながりで『黒沢清の映画術』を読んで、最近また、彼の初期評論集『映像のカリスマ』が増補改訂されて出ていたので読む。すると、今月号の『文學界』が黒沢清の特集を組んでいる。いったいどうした風の吹きまわしかと思いきや、昨日から新作の『LOFT』が公開されているということだ。思い立って見に行こうと思ったが、関西はこんどの週末から公開なのだ。微妙に遅い。大阪市が払い下げを検討している心斎橋のビッグステップで公開が予定されている。ここで見るのは、なんと『バッファロー66』以来になるんだな。
一連の黒沢モノを読んで、この監督が海外でホラー映画の巨匠としての地位を築いているなんてことは知らなかった。黒沢映画は『ドレミファ...』と『cure』と『カリスマ』『降霊』『回路』『アカルイミライ』くらいで、『降霊』はたしかにホラーだけれど、『回路』はホラーだとは感じなかった。どちらかといえば『カリスマ』と通じる黙示録的なカタストロフ映画の印象だった。
飛行機が火を噴きながら墜落してまちに突っ込んでいくというカタストロフなシーンが最後に出てくる『回路』をトロントの映画祭で上映した次の日に9.11テロが起こり、本人もぶったまげたということで、そういえば今日が何年目かの9.11なのだけど、それ自体もなんだか黙示録的に因縁めいた話で、意外にこの監督の映画は予告的な部分を持ち合わせているのだろうか。これはもう少し小粒な話だが、『アカルイミライ』で渋谷の少年たちがなんでまたゲバラのシャツを着ているのか、あまりにも作為を感じさせるなと思ったら、その後『モーターサイクル・ダイアリーズ』が流行ってゲバラがファッションになってしまったし、なんでクラゲなんだろうなと思ったら、今度は巨大な越前クラゲの大群があちらこちらで大発生するし、結構時代を先取りしているのだった。
で、ホラーに話をもどすと、撮影の手法は確かに皆が言うようにホラーっぽい。露出を微妙に変化させることで画面の奥の鏡が奇妙な光を宿したり、真っ黒な壁に得体の知れない何かが浮き上がってきたりと、結構盛り上げてくれる。監督自身、幽霊という存在に興味があるようだ。対談本でも「人間の本質は幽霊だ」なんてことをおっしゃっている。
新作の『LOFT』もミイラという幽霊的な存在をめぐる男女の恋愛劇ということで面白そうなのだが、得体の知れない存在や物事に対面した人間の人格変容、といったことはそれだけでいかにもミステリアスだし、それを映画は光と影のスペクタクル(スペクター)として見せてくれるのだから、結局、映画というものは幽霊そのものなのだろう。となると、人間というものは本質的に幽霊であり、幻影なのだ。僕自身は幽霊というものに出会ったことはないけれど、存在論的には幽霊というものにすごくひかれるところがある。僕自身このネットの世界では幽霊だしね。
そうなると、話はまた、少し前の『攻殻機動隊』へと話はもどるのだ。皆さんご存知のようにこの作品世界では人間を人間たらしめるコギト、霊や魂のことをGhostと呼んでいるのだが、人間の本質がGhostなのだとしたら、ここでも、人間の本質は幽霊ないしは幽霊的なものなのだということだろう。人はその都度の自分の欲望や意識によって動いているようでいて、実際は自分の中から聞こえてくるのか外からやってくるのかもわからない幽霊の囁きによって動かされているだけなのだ。

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2006/9/3
Sea Song
見るたび君は違って見える
君は波立つ海の泡から生まれ
月の光の下で君の肌はなめらかに輝く
一部は魚、一部はイルカ
別の場所は赤ん坊のマッコウクジラ
僕は君の、君は僕の、戯れの相手?
冗談はおいといて、
酔ったときの君はとても激しい
酔っ払った君が僕はとても好きだ
夜が更けるほどに、君はほんと素敵だ
でも僕はわからない
朝になり、しばらく人間を演じている時の
君は全然違って見える。
ねえ、微笑んでよ
春が来れば君は変わってしまうだろう
君は季節の生き物だから
潮に漂うヒトデのよう
体を駆け巡る君の血が次の満月に出会うまでは
君の狂気は僕の狂気とちょうどいい具合にフィットする
君の錯乱は僕のそれとぴったりフィットする
僕たちはひとりじゃない
written by Robert Wyatt

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2006/9/2
シリーズも3作目が始まろうというのに、遅ればせながらTSUTAYAで借りてきた『攻殻機動隊S.A.C.』を第一話から見はじめる今週末。このシリーズは、もしも草薙素子が人形使いに出会わず広大なネットの世界に旅発っていくこともなかったらという設定の下に、草薙素子やバトー、トグサを核とした公安9課の活躍が刑事物語風に展開されている。物語の時代背景も当初の「企業のネットが星を覆い、電子や光が世界を駆け巡っても、国家や民族が消えてなくなるほど、情報化されていない近未来…」から「あらゆるネットが眼根を巡らせ、光や電子となった意思をある一方向に向かわせたとしても“孤人”が複合体としての“個”になるほどには情報化されていない時代…」といった風に、すこし情況は進んだものとなり、ネットに対面するパーソナルな視点に焦点があてられている。
「孤人が複合体の個となるほどには情報化されていない」というのは難解な言い回しだけれど、それが、各人の意識が集団幻想化されずにかろうじて独立を保っている社会というのであれば、この現在の情況とそれほど隔たっていない社会なのかもしれない。先ほど「広大なネットの世界」と書いたが、攻殻機動隊の世界においても、そしてこの現実の世界においても同様に、ネットというものは「広大さ」ではなく「狭さ」を、「遠さ」ではなく「近さ」をいっそう促すものであるようだ。そしてそのようなネットを介して人々は今日も、より「親密」で「直接的」な「つながり」を持とうとしているのだろう。それはなんだか、距離感のないスーパーフラットな感覚に満ちている。
“Stand Alone Complex”...個が孤でありながらの複合体、それはスーパーフラットなコミュニティが幾重にも重なる蛸壺化した社会とは違った社会のあり方だろう。攻殻機動隊の公安9課も、草薙素子を筆頭としてそれぞれが屹立した“Stand Alone”な構成員の集まり“Complex”であり、公安9課自体が“Stand Alone”な存在だからこそ、組織としても魅力があるのだ。

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