2006/10/28
これから述べることは、先の記述とはおよそ関係がない。つまりはなんの意味も無い話である。このところ、あちらこちらで川の風景を見る機会が多く、そこで巡り合った風景について何かここで書いてみようかなと、最近デジカメで撮った一連の写真を見直していたのだけれど、そのなかに川とは何の関係もない写真が目についた。それは都心の古い建物の写真だったのだが、そのツタの絡んだ壁面のレトロな雰囲気に興趣をそそられ、何枚か写真をとっていたのだった。下がそのうちの2枚の写真である。

今日、そのうちの一枚を何とはなしに眺めていて気がついたことがあった。写真を撮ったのは、9月の中旬で、そのころのわたしの頭の隅には、当時公開されていた黒沢清の『LOFT』のことが少なからずあって、それはこの日記の9月11日と9月23日のところにも書いたとおりである。とくに、9月23日の日記にはその映画についての感想も書いて、私にとってのその映画における映像のクライマックスにも言及した。『LOFT』を見たのは9月22日、写真を撮ったのは9月17日、どうやら映画のクライマックスは、予告として、あらかじめ私のもとに早々に訪れていたようである。『LOFT』を見なければ、おそらくこの写真がわたしの意識に働きかけることもなかっただろう。

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2006/10/28
偶然の一致については、ポール・オースターもよく彼の文学作品の主題とするところであり、それが彼の作品の魅力の一面にもなっているのだが、実際それが自分の身の回りで起こることはほとんどなく、起こったとしてもそこに何か意味を見出すというほどのこともない。それでもそれは、なかなか神秘的で謎めいた現象にも感じられるので、ささいな偶然の一致とかタイミングのいい出会い、気になっていたことが思いもかけないところから表面化する、といったことがらに対してはわたし自身はただ面白半分に嬉しがるくらいだろうか。
これら一連のことをシンクロニシティと呼んでもいいのだが、本来的には、それはわたしという存在が未知の潮流の中にあって、知らず知らずのうちにわたしたちはより大きな存在の見えざる手で導かれており、まれにそういった現象を通じてわたしたちに運命の導きやそういった存在の気配を垣間見させるのだ、という解釈もあるだろう。
あのときの自分の些細な行動が、ちょっとした選択が、偶然の出会いが、目覚めの後妙に印象に残った夢が、その他もろもろの過去のワンポイントが、その後の自分の来し方のなかで思いもかけない意味を持っていた、ということがあるとすれば、そのときおそらくわたしたちはシンクロニシティの圏域に踏み込んでいるのだ。
現実は小説なり奇なり、とよくいわれることである。そもそも現実というのは奇なることばかりであって、わたしたちはそれに気づいていないか鈍感になっているだけなのかも知れない。日々当たり前の生活の中で、疑問も不満もなく過ごしているならば、そんなことは気にもならない。逆に、志向性を有したある種の研ぎ澄まされた精神においては、シンクロニシティな感覚が繰り返されるのかも知れない。意味は、意味を見出そうとするもののところへ到来する。

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2006/10/15
金井美恵子の『快適生活研究』を読んでからというもの、この人はどういう人で、この人はその人の何にあたり、あの人との関係はどうで、結局その人つながりのあの人はどうなってしまったのだろうか、というようなことが気になって眠れないほどで、これは、当然、『噂の娘』のようにそれが記憶を主題とした小説だからというのではなく、ただ単に、登場人物が多く錯綜していて、そのうえ相当の月日が経っているからで、なんといっても『文章教室』以来20年という幾年月なのだ。
わたしは元来、人の関係筋についての感覚が鈍く、あの人は祖母の妹の旦那さんのなにがしにあたる遠縁の人で、といった話を家族がしていてもさっぱり理解できない呑みこみの悪い人間だから、この場合とくにそういうことになる。人の名前も片っ端から忘れてしまう。例えば、「隣の娘」に出てくる「小林」という人物が誰であったのかいっこうに思い出せなかった。それで、過去の目白連作をひも解くことになり、今日も6年前の『彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄』を読み直していたら、出てきたよ、桃子がアルバイトで勤めている進学塾のアルバイト講師だったのだ。そういえば岡崎さんのこともピンとこなかったし、やっちゃんなんてなおさらです。
それどころか、本の中にきちんと書かれているにも関わらず、さて紅梅荘はどうなったのだろうかとか、タマはまだ無事に生きているのかなどと気になるほどで、これはもう自分自身ひょっとしてアルツハイマーの初期症状かと心配してしまうほどなのだ。だから、少し自分の頭を整理してみようと、とりあえず今日読んだ『彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄』の登場人物を整理してみようと思い、古代ギリシャ、ローマの記憶術とかルネサンス記憶術など、あいにく記憶の技法にはまったく疎いものだから、記憶するにはとにかく図化するのがいいと思い、下のような相関図を作成したのだった。
結構多人数で複雑な関係です。そして女系です。男はみな情けなくてどこか欠落したキャラばかりです。


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2006/10/14
金曜夜、ぼんやりとテレビで『僕らの音楽』を見ていた。幸田來未が小林武史のピアノで「スワロウテイル」を歌っていて懐かしいなと思った。グレイと氷室京介の「ANSWER」が歌も演奏もやたらカッコよくてびっくりした。しかし、きわめつけは岩崎宏美と知らない女性シンガーが歌っていた「友達の詩」という曲だ。静かでゆったりとしたピアノとチェロにのせて、それでも心に強く響いてくる歌だった。歌の第一印象のインパクトとしては、元ちとせの「ワダツミの木」や柴咲コウの「月のしずく」以来のものがあった。
一体誰なのでしょうかとネットで調べたところ、中村中(あたる)という21歳のデビューしたてのシンガーソングライターだったのだが、なんとその「友達の詩」は彼女が15歳のときに作った曲なのだという。歌も詩もすごく老成した感じで岩崎宏美とタイマンで歌っているのを見たときは、こんなベテラン・シンガーソングライターがいたっけ??てな感じだったのでびっくり。
触れるまでもなく 先のことが 見えてしまうまんて
そんなつまらない恋を ずいぶん続けてきたね
胸の痛み直さないで 別の傷で隠すけど
簡単にばれてしまう どこからか 流れてしまう
手をつなぐぐらいでいい 並んで歩くぐらいがいい
それすら危ういから 大切な人が 見えていれば上出来
忘れた頃にもう一度会えたら 仲良くしてね
手をつなぐぐらいでいい 並んで歩くぐらいでいい
それすりゃ危ういから 大切な人は友達ぐらいでいい
友達ぐらいがちょうどいい
15歳でこの諦念の感覚って、いったいどのような体験にもとづいて生まれてくるのでしょうか。「友達の詩」は彼女のオフィシャルサイトで聞けます。今日はついつい何回も繰り返し聞いてしまいました。

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2006/10/9
いつのまにか秋は本番。空気は澄んで空は高く、木の葉は色づきはじめ、金木犀のかおりが庭先に漂っています。今日も気持ちのいい秋晴れの一日でした。こんな日は戸外の木陰で本を読むのも気持ちのいいものです。で、金井美恵子の新刊『快適生活研究』を読みました。

何気ない連作短編のようでいて、語り手の視点が作品によって異なり、さらに作品の中に書簡や通信文の形式で別の話者の視点が挟まれ、それらの視点や語りがこの連作全体として有機的に呼応しあうという、決して内容が難しいというわけではないのに、複雑な構成で読み解くのが一筋縄ではないという、それはやはり金井美恵子ならではの小説なのです。
とくに、中盤から、登場人物が複雑に絡まりあい、なかほどの一篇ではとうとう、語り手の私はかの『小春日和』、『彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄』の桃子となり、小説家のちえこおばさんもしっかりと登場して、それなりの齢(よわい)を積み重ねているのでした。『小春日和』では19歳の桃子と30歳後半のちえこおばさんが、この作品では桃子は36歳、ちえこおばさんはなんと60歳の手前になっており、小説の書かれた年代の隔たりぴったりに、小説の登場人物もそこでの出来事や主題もすっかり高齢化が進展しています。その時の隔たりを感じながら、読みすすめるものとしては、軽いめまいを覚えずにはいられないのでした。
また、この作品では、金井美恵子の目白モノ連作における『文章教室』にはじまる物語の系と『タマや』にはじまる物語の系の二つの系が交差しています。桃子も出れば桜子も出て、桃子の親友の花ちゃんも桜子の親友の舞ちゃんも健在で、夏之さんやアレクサンドルもいます。そして、『文章教室』の現役作家はつい最近鬼籍の人となったばかりで、桜子の夫の中野勉は彼の追悼文を雑誌に書くのでした。
『文章教室』が書かれてから実際に20年以上の月日が流れ、作品のなかの時間もしっかりと20年以上の月日が流れているのです。これは、よく考えるとすごい話です。『彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄』でも10年の月日が流れて、それはそれで途方もないことではあるものの、一方で情況は何も変わってはいないじゃないかという感覚がありましたが、これからはそうもいかないという感じがします。桃子は、桜子は、そして小説家のおばさんは、これから先どうなるのでしょうか。
金井美恵子 目白連作小説
1985年 作家37歳 『文章教室』
1987年 作家39歳 『タマや』
1988年 作家40歳 『小春日和』 桃子19歳
1990年 作家42歳 『道化師の恋』
2000年 作家52歳 『彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄』 桃子30歳
2006年 作家58歳 『快適生活研究』 桃子36歳

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2006/10/1
すべての有意的表出活動には、
いまだコード化されない差異による<交感 communion>の位相と、
硬直化したコード内の対立のもとでデジタルに機能する
<伝達 communication>の位相があり、
わたしたちは自らの身を縦に貫く両者のなかに生き、
その重層的意識の上下運動を繰り返している。
『生命と過剰』丸山圭三郎
わたしは言葉で、
あなたにいったい何を伝えたいのでしょうか。
そもそも、何かを伝えようとしているのでしょうか。
わたしの中に、あなたに伝えたい何かがあるとして、
はたしてそれは言葉で伝えることができるものなのでしょうか。
言葉の目的のひとつがコミュニケーションにあるとしても、
コミュニケーションや意思伝達から零れ落ちるものにこそ
言葉の本質がありはしないでしょうか。
わたしは、詩人の言葉を愛します。
わたしは、言葉が伝えるものと、言葉そのものを愛します。
たとえコミュニケーションに挫折したとしても、
いいえ、挫折するからこそ、そこで言葉は「言葉」として
不透明な〈対象〉としての、肉体(Body)と魂(Ghost)を呼び寄せるのです。

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