忘却の川へ流れ去る諸々をしばしこの岸辺に繋ぎとめて..日記についての日記、もしくは不在の人への手紙。
2007/5/29
「私たちの人生にはたくさんの困難がある。
お金とか服とか車とか、形あるものに心のよりどころを求めようとするが、
そういうものが満たしてくれるのは、ほんの一部。
目に見えないもの――誰かの思いとか、光とか風とか、
亡くなった人の面影とか――
私たちはそういうものに心の支えを見つけたときに、
たった一人でも立っていられる、
そんな生き物なのだと思います。」
河瀬直美

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2007/5/28
英国プログレッシヴ・ロックから、新たなブライテスト・ホープの誕生である。とはいっても、彼らはすでに15年以上のキャリアを持つグループである。以前からちょくちょくその名前を耳にしていて、最近ではキング・クリムゾンのロバート・フリップをゲストにツアーを組んで日本でもコンサートを行った彼らであるが、そのサウンドはノーチェックだった。先日CDショップで彼らの新譜『Fear of a Blank Planet』を見かけて、裏側のクレジットを見ていると、キーボードがJAPANのリチャード・バルビエリということで、これは知らなかった。そしてゲストにロバート・フリップの他、RUSHのアレックス・ライフソンが参加しているではないか。実は当日はRUSHの新譜『Snakes & Arrows』が目当てだったのだが、ついでにこれも、ということで手に入れたのだった。
早速聴いてみると、期待されたゲストのロバート・フリップのサウンドスケープやアレックス・ライフソンのギター・ソロはそれほどインパクトがなく、このグループはリーダーのヴォーカル兼ギター&コンポーズのスティーヴン・ウィルソン/Steven Wilsonで持っているということがわかる。グループに占めるその存在の大きさという点ではイット・バイツのフランシス・ダナリーくらいあるだろうか。
サウンドの範疇としては、プログレッシヴ・メタルということになるのだろうけれど、イギリスらしいしっとり感とたゆたい感、叙情性を兼ね備えた英国ロックの本道のような印象である。まあ、わたしにとっての最近の英国ロックの本道といえばいつぞや紹介したマリリオンなので、偏ってはいるのだけれど。一般のメタルのようにアグレッシブにがんがん押してくるというような音ではなくて、音数も整理されて、幾分メランコリックにストイックに「引き」の美学を感じさせてくれる。これはスティーヴン・ウィルソンの幾分くぐもったエフェクトをかけられた内向的なヴォーカルとアンビエントに空間を構成するリチャード・バルビエリのキーボード・サウンドによるものだろう。
とここで、彼らのアルバム『Deadwing』の日本版解説を読んでいると、スティーヴン・ウィルソンはマリリオンの影響下にあるグループから彼の活動を始めているということであり、マリリオンのアルバム『Marillion com.』にもプロデュースとして参加しているということだ。確かに、そのアルバムのクレジットには全9曲中5曲のコ・プロダクションとして彼の名前を見ることが出来る。どうりで琴線にひっかかってくるサウンドだ。
シニカルな不良高校生か理工系の学生といった風貌で、華奢な体躯で細面のストレートに垂らした金髪を歌う息で吹き飛ばしながらギターをかき鳴らす姿は、ちょっとカッコよく、アイドル性も有している。もう決して若くはないけれども、日本でもう少し人気が出てもいいような気がするし、次回の来日の際には必ず生で見たい、そんなミュージシャンだ。
それではYou Tubeから、スティーヴン・ウィルソンがカッコよくアコースティック・ギターをかき鳴らしながら歌うクリップ「Trains」をどうぞ。

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2007/5/27
午後に用を済ませ、市内からバスに乗り内宮へ着いたのは午後の4時頃だった。さすがの内宮もこの日のこの時間は人通りも少なく、ゆったりとした気持ちで五十鈴川にかかる宇治橋を渡る。渡り始めれば、見えるものは川と橋と鳥居、山並みの緑と青空だけであり、この広い空間に目に入る要素が少なく、非常にソフィストケートされたものばかりで気持ちがよい。川を渡り鳥居をくぐり抜けるとまた空気が一変し、神域に近づいているのが感じられる。まっすぐ伸びる広々とした長い参道の端を歩き、それが山のほうに曲がり始めるところで五十鈴川におりる石畳の大階段があり、階段の端でせせらぎの音を聴きながら川の冷たい水に手のひらを浸す。
内宮は外宮とくらべると奥の院といった雰囲気で、自然がより深く、空気も清澄だ。巨木が両脇にそびえる薄暗い参道を進むと左手に大きな石段がありその高みに社殿がひかえている。鳥居をくぐり、橋を渡り、川で手をすすぎ、階段を上り、また鳥居をくぐりぬけ、二礼二拍一礼する。その道行きの行動が見えないものの手によって完璧にプログラムされているようであり、歩を進めていくごとにこちらの意識や精神も何か研ぎ澄まされていくような感じを受けるのだった。

現在の社殿の左側に、7年後にはそこに新たな社殿が建てられる予定の御敷地とよばれる場所が設定されている。白と黒の砂利石で敷き詰められ、小さな祠がぽつんと設置されている。そこに今住まうものは何なのだろうか。御敷地に接する側、現在の社殿との間にも鳥居が設けられている。おそらく引越しの時に神が通る入り口なのだろう。
内宮の社殿から御敷地の周囲をぐるりと巡るような道を進むと、社殿のちょうど後ろ側、谷を隔てた深い森の中に別宮が鎮座しているのだった。名は荒祭宮(あらまつりのみや)、天照大御神の荒御魂をまつる内宮の第一別宮で、二つの正宮についで重くまつられているという。出雲のときのもそうだったが、出雲大社の背後に控える素鵞社といい、この荒祭宮といい、中心となる社殿の背後に控える宮には一種独特のパワーが漲っているように感じる。このあたりまでくると人影も途絶えて、夜ならばたいそう恐ろしかっただろう。今回、風の宮や土の宮、多賀宮といった別宮も見て回ったけれど、この荒祭宮がもっともインパクトの強い場所だった。神の魂には二つの側面があるという。そのおだやかな側面と荒々しい側面をそれぞれ、「和御魂(にぎみたま)」「荒御魂(あらみたま)」とよび、別々に祀るというのも興味深い話だ。

ともかく、久しぶりに聖なる気が漂う場所でゆったりとした時間を持てた。帰りの宇治橋では陽がすでに山の端にかかろうとしていた。
実はこのところ、調子が悪く、体が非常に疲れやすい状態が続いていた。2週間ほど前からそれが顕著に自覚症状としてあらわれ出した。早く病院の検査を受けなくてはいけないなと思うほど、背中から下腹部にかけて鈍痛を感じることがしばし、悪夢から目が覚める夜もあった。
それが、今回の伊勢参りの翌日、すっと消えてなくなった。なにが起こったのかといえば、体から石が出てきたのだった。それで体の痛みの原因もわかった。体ももとに戻り、以来調子はまずまずである。これも伊勢参りのおかげだろうか。

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2007/5/26
先日、三重県の伊勢に、たまたま行く機会ができて、ついでにお伊勢参りをしてきた。自分自身、これまでそれほど意識はしていなかったが、神社仏閣めぐりが結構好きなことに気づいた。昔、沖縄をよく歩いていたときには、御嶽(うたき)とよばれる沖縄の伝統的な祭祀空間を訪ね歩いたこともあった。本島南部の斎場(せーふぁ)御嶽など今でも忘れられない空間である。その後、熊野の聖地などをときに訪ねたりもした。そして、去年、出雲大社をじっくり見る機会があり、その空間だとか雰囲気を味わいながら結構面白いものだと認識するようになったのだ。そして、今回の伊勢、そこはことのほかすばらしい場所だった。
伊勢神宮は、天照大御神を祀る内宮(ないくう)とよばれる皇大神宮と、豊受大御神を祀る外宮(げくう)とよばれる豊受大神宮を頂点として、市内や各地に散らばる14の別宮、43の摂社、24の末社、42の所管社からなる神宮125社によって構成されている。一般に参られるのは、内宮と外宮の二つであり、外宮をお参りしてから内宮を参るというのが一般的な訪ね方のようである。伊勢神宮といえば20年毎の式年遷宮で有名なのだが、今年が次の平成25年の式年遷宮に向けて様々な祭祀がはじまる7年間の最初の年になるらしく、すでに市内のあちらこちらでそのような案内が掲げられている。
まずは、外宮、伊勢市駅からまっすぐ伸びる市街地の参道を歩くと10分くらいで神社の入り口につく。最近は、人々はこの外宮を訪れずに、内宮とおはらい町を観光する人がほとんどであり、わたしもこれまで内宮は2度ほど行ったことはあるもののこの外宮は初めてで、訪れてみると当たり前のことだが、なかなか厳かな空間で、平日の午前で人も少ないということもあり、快晴の天気で空気も澄んで気持ちがよいのだった。
日本のこういった聖なる空間は、参道から始まって中心に到達するまでにいくつもの橋や鳥居や手水場といった境界をくぐり抜けていく、その境界を超えるごとに内側の空気が変わっていくのを感じる、そのプロセスがひとつの魅力であろう。そして、広い神域のなかに池やせせらぎ、巨木や森といった水と緑の自然の要素、様々な建物や摂社、道や階段といった人工の要素が重層的に構成され、道行きを演出してくれる。久しぶりに針葉樹の若葉やクスノキの新芽の涼しげな香りをかいで、風の音や鳥のさえずりに耳を澄ませば、心が浄化されていくような気がするのだった。
外宮の社殿にたどり着けば、拝所の向こう側の開口部、内庭と本殿を見通す開口部には白い布がかけられ、人々の視線は柔らかく遮られているのだった。これはこれで一つの文化的な作法のようで納得もし、その白いスクリーンが映し出す光と影、紗のかかった向こう側の風景にしばし時間を忘れ、みとれるのだった。


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2007/5/11
先日ここで書いた公開講座を聞いて以来、気になっていた著者の本がようやく手に入り、それを読み始めているのだけれど、それが期待に違わずめっぽう面白いのでした。
著者の名前は大橋力。科学者でありながら山城祥二の名で芸能山城組を主催、『アキラ』のOST作成に携わる。そしてその著書というのが『音と文明』です。


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2007/5/5
猫はよく寝るから寝子だと云うのだそうだ。また、猫は小さな子供と同じで、だましたり、うそを云ったりしてはいけないのである。
連休前に、古本屋で見つけたちくま文庫の内田百けん集成の二冊、『阿房列車』と『残夢三昧』、それと、以前から持っていて読みかけのままにしていた『ノラや』を読む。
『ノラや』に、「ネコロマンチシズム」という題の一編が収められている。漱石門下の文学者たちの集まりで当時話題だったネオロマンティシズムのことを、そこに出入りしていた鈴木三重吉が漱石の「猫」をもじってネコロマンチシズムと云っていたそうで、それを内田百けんが借りてきて、ノラやその後継のクルについて書いている自身のエッセイの題としている。
『阿房列車』と『ノラや』は書かれた時期が重なっており、『ノラや』のなかで『阿房列車』のヒマラヤであろう人物が出てきたり、死んだクルの棺おけになるのが阿房列車でたずねた先の東海道由比駅の駅長が毎年送ってくれる蜜柑の箱であったりする。また、ノラの失踪中に『阿房列車』の旅に出かけなければならない作家の穏やかならぬ胸中も『ノラや』のなかで吐露されている。
内田百けんの『ノラや』といえば、金井美恵子の『タマや』である。『ノラや』の中で、百けんの奥さんがお勝手でノラを抱いて、「いい子だ、いい子だ、ノラちゃんは」と歌う様に云いながらそこいらを歩き廻ると、「ノラは全く合点の行かぬ顔をして抱かれていた。その様子のかわいさ。思い出せば矢張り堪らない」と、作家は涙そうそうとなり、『タマや』では、「タマや、いい子、いい子」とアレクサンドルや夏之が猫に語りかける。
「ノラやノラや、今はお前はどこにいるのだ。ノラやノラや、お前はもう帰って来ないのか。」
今まで身近にあったものを失ったときの悲しみ、ぽっかりと心に穴があいたような悲しみというものは、だれにでもある事だろうけれど、その渦中にあるものにしかわからない悲しみの果てしなさというものが存在する。戒律のごとく好きなものも絶ちながら、失った存在のことを思い続け、夢にまで見る、そうしてついには不整脈や喘息という自身の身体症候の中にその存在を住まわせるようになる。
いつか忘れることが出来るのだろうか、忘れるほうがよいのだろうけれど、そんなに簡単に忘れられるものではないし、忘れたくないという気持ちもどこかにあるものだ。でも、ここは辛いけれども気持ちを強く持って、そのものを彼岸に送ってやるという気持ちが必要なのだろう。

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2007/5/4
先日、久しぶりにあなたからメールをいただき、この本のことを知ったのですが、本屋で見かけたこの本を昨日買って、先ほど読み終わりました。全くあっけないくらいにはやばやと読み終わりました。

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2007/5/3
4月は結局1回しか更新できませんでした。ようやく連休モードに入り、少しほっとしています。この間、いろいろと書きたいこともあったのですが、なかなか落ち着かなくて書けずにいました。さて、なにから書き始めよう。やはり、前回に引き続き・・・ということで、上野洋子さんのDVDです。

今回、当のライヴを映像で見るにつけ、最強のメンバーによる最高のバンド・アンサンブルだった、それに全く引けをとらない上野洋子の強靭なヴォーカルだった、それを目の当たりにできたわたしは全く幸せだった、というようなことを再確認した次第です。
映像で見ると皆さんほんとにいろいろな楽器を持ち替えて頑張ってます。上野さんは、アコーディオンにブズーキ、ティン・ホイッスル、縦笛、鈴。クジラさんはコーラスでハモりながらのヴァイオリンやマンドリン、トランペット。棚谷さんはアコーディオンを抱えながらのキーボードで、海沼さんのヴァイヴやスティールドラムも利いてるし、仙波さんもいろんな効果音を供給しています。鬼怒さんもそこここで複雑なピッキングが大変そうです。「対角線」とか「猫の地図」とか、聴くだけだと何気ない曲が演奏はどれも難しそうで、皆さん譜面を見ながら個々の演奏に集中せざるをえない状態が続きます。メドレー紹介で、曲の並びに脈絡はないけれどどの曲も複雑で難しいのですという上野さんの言葉に仙波さんが「やめてくれーっ」と悲鳴を上げていたほどですからね。

CDでは聴けない「Hide in the Bush」もDVDには無事納められ、これがバンド・アンサンブルで非常にかっこよくプログレッシヴな仕上がりになっていて、原曲を凌駕しています。そしてDVDには鈴木慶一さんと新居昭乃さんのインタヴューがあります。新居さんもアルバムでは聴いていましたけれど、素はこんな方だったのですね。
鈴木さんが「カモメの断崖、黒いリムジン」の曲のモティーフを説明していたのが興味深かったです。昔の映画の景色とマンディアルグの「断崖のオペラ」、ザ・バーズの「8マイルズ・ハイ」に触発されて詩が出来たとのこと。うろ覚えですが「断崖のオペラ」は確かに印象的な短編です。間違いでなければ地中海の凄く眩しくて鮮やかなイメージがありますけど、少し曲の印象とはちがいます。「8マイルズ・ハイ」は、原曲は知りませんが、先頃紙ジャケ化されたスティーヴ・ヒレッジがカバーしていて、サイケでカッコいい曲です。
それにしても、この曲が大駱駝鑑とのコラボだったのですね、うーん、白虎社じゃなくてホッとしましたが、正直、ちょっと合わないかも。どうせなら麿さんにも出てきてもらいたかったですね。それとも断崖なんだから、高いところから吊り下げられるイメージでいけば山海塾でしょうか。
DVDが撮られた東京のライヴハウス、大阪のときよりも二まわりほど大きそうです。ゆったりとしていて羨ましいですが、すし詰め状態の大阪の、近い距離感も捨て難いかな。PFMのときの大阪ブルーノートと川崎クラブチッタの距離感の違いくらい?3m先の鍵盤の上のプレモリの指使いが見られる、みたいな。目線のすぐ先に歌う上野さんがいる、みたいな。
嬉しいことに、6月にまた上野さんの生声を聞くことが出来そうです。場所は京都。主役は日本プログレ界の重鎮難波弘之さんで、上野さんはサポートメンバーに名を連ねています。今回のメンバーの仙波さんと鬼怒さんも一緒です。楽しみです。

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