2007/7/8
人間とは、潜在的にしか存在しないドッペルゲンガーと自己とを同一視することによって生きている存在であり、そのようなプロセスを経て模造されるものがすなわちナルシシズムである。
『グラモフォン・フィルム・タイプライター』by Friedrich Kittler
ここで語っているわたしは、もちろん現実のわたしではない。
この場所では、わたしは極力ネガティヴなことを書くことを避けてきた。
つまり、概ね、わたしにとって価値のあるもの、心地よいもの、外部に記憶させることによって、いつまでも記録として留めておきたいものばかりを書き綴ってきたつもりだ。
だから、必然、書く主体としてのこの場所に定着されているわたしの精神も、日常の、実際のわたしとは少し異なったものであるだろう。
普段のわたし、そして、書く主体としてのわたし。
それは自己とそこから派生したドッペルゲンガーのようなもの。
書く主体としてのわたしは、わたしと密接に関わりつつも、普段のわたしからは幾分遊離した存在だ。
へその緒でつながりながら、地面から数メートル離れてぷかぷかと浮かんでいるかのような存在。わたしと重なりながらわたしから滲み出て、オブスキュアーな光を投げかけているオーラのような存在。
しかし、わたしはこれまでそのような存在に促されるようにこの場所で書き続けてきたのはなかったのか。
普段のわたしと書くわたしと、果たしてどちらがより本質的なわたしなのだろう。
近代文学が、エクリチュールを外部に定着させることによってはじめて、語りの存立構造というものを主題化させたのだとするならば、書くわたしというのは極めて文学的な事柄だ。そして、そこにはある種のナルシシズムが成立しているだろう。
最近、ひとつの体験をした。
それは不思議な出来事だった。
その不思議さは、決して‘wonder’な不思議さではなく、どこか‘curious’な不思議さだった。
それは、ひとつの出会いであったのだが、その出来事のさなかに、わたしはわたしのドッペルゲンガーと向き合い続けていたのである。
湿度の高い夜気の中、ある人との応対のあいだじゅう、自己意識は普段のわたしの意識とそのドッペルゲンガーの意識とに分裂し、ねじれながら大気の中を浮遊していた。
わたしの口から吐き出された言葉も、とたんに浮力を失って霧の中へと消えていくようだった。
それは、鏡像段階の崩壊。
その出来事の中で、わたしは象徴界の他者とむきあっていたのだろうか、それとも現実界と背中を合わせていたのだろうか。
溶け崩れはじめる鏡の表面。
ひとは、いつまでも書くことのなかで幸福な午睡を貪り続けることはできない。
のだろうか?
教えて、ソクラテス!
鏡像は主体をその魅力的な統合性のうちに虜にし、人はこれとイメージのうちに狂おしく同一化していくことになる。主体はこの外部の鏡像を取りいれ、欠けた自己自身の統一的な姿を先取りして、この場所に自我なる主体の仮面を見出すこととなる。
『ラカン』 by 福原泰平

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