2007/12/31
もう少しで今年も終わりです。
今年は、職場でのポジションがかわったせいもあって、移動距離も幾分長くなり、その延長でアメリカに行くことにもなったのですが、さて、この先どうなんだといえば、全く不透明なことにはかわりありません。
いくつかの出会いがあり、いくつかの出会いそこねもあり、仕事以外の新たな社会関係が眼の前に浮かび上がってきたりもしていますが、それがこの先どう発展していくというのでしょう。
この場所で書き続けることのモティーフも今はただただ曖昧なばかりで、手紙の宛先は常に不在なのですが、それがこの場所のそもそもの本来性に他ならないのです。ここで書き続けているということには何の意味もないのでしょうが、書きつけられた言葉自体は、何らかの意味を指し示していることでしょう。
さて、今年の秋のアメリカ行以後、自分のなかに何かもやもやとしたものが立ち込め、それがまた、文学や都市論を介して考察以前のまとまりのない感想の巡らしとして自分のなかで続いています。ここで、それらを筋道たてて記述することはまだまだ手に余ることなので、このところ読んでいる、またこれから読もうとしている書物についてのノートという体裁で、思考のメモ書きを残しておくことで来年へのつなぎとしたいと思います。
都市の破壊と再生、ライフスタイル・センターやリテール・ディストリクト、ゲーティッド・コミュニティ、とくにアメリカのニューヨークにおける近年の傾向としてのジェントリフィケーションについて。
1.ニューヨーク烈伝/高祖岩三郎/2006.12.15/青土社/
2.流体都市を構築せよ/高祖岩三郎/2007.9.10/青土社/
3.不完全都市 神戸・ベルリン・ニューヨーク/平山洋介/2003.8.10/学芸出版社
4.巨大建築という欲望/ディヤン・スジック/2005/東郷えりか訳/2007.9.26/紀伊国屋書店
とくに最初の3冊は、ジュリアーニ市長以後のニューヨークの有様について把握するには非常に役立ちます。
アメリカの理念と現実を文学という媒体を通して俯瞰する試みにむけて。柴田元幸とポール・オースターをはじめとするアメリカの作家たち、そしてアメリカとは半分の現実と半分の理念で成り立っている国であるという考えに共鳴する内田樹の柴田元幸への接近、そこからまた、空虚な中心としての村上春樹を再読することになるのでしょうか。
5.アメリカン・ナルシス/柴田元幸/2005.5.25/東京大学出版会
6.柴田元幸と9人の作家たち/柴田元幸編・訳/2004.3.30/アルク
7.村上春樹にご用心/内田樹/2007.10.9/アルテスパブリッシング
都市というものをより広い射程でとらえるための思考の枠組みとしての都市表象論への接近。建築や都市計画、都市の景観に対して新たな角度で切り込んでいく視座としての都市の記憶術?
8.都市表象分析T/田中純/2000.4.20/INAX出版
9.死者たちの都市へ/田中純/2004.6.10/青土社
10.都市の詩学/田中純/2007.11.26/東京大学出版会
記憶術の扉を開き、より深く文化表象全般について、その空間や歴史を「イメージの廃墟」「幽霊たちの時間」としてとらえるための案内役。
11.アビ・ヴァールブルク記憶の迷宮/田中純/2001.10.30/青土社
12.残存するイメージ/ジョルジュ・ディディ=ユベルマン/2002/竹内孝宏他訳/2005.12.20/人文書院
上記に示した書物と観念が、2008年も引き続いて見え隠れするテーマとなるかどうかはわかりませんが、現時点における覚え書として。

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2007/12/15
スクリーンではじめて青山真治の『helpless』を見る。
場所はといえば、大阪キタは天六に近い中崎町。
なんと青山真治のレトロスペクティヴが開催、あの『AA:間章』まで一挙上映。
いま、ここはすごいことになっている。
少し前に、香椎由宇ちゃんが散歩に来たころから、メジャーになった。
もはや、船場や堀江ではない。時代は中崎町のようである。
おとといの夜は、古い町屋の喫茶店に洞口依子さんが降臨されて、
『子宮会議』のリーディング・セッションが行われた。
その声と立ち居振る舞いに、心底感動する。
彼女はまさに女優だった。存在自体が全くの異空間をつくりだす。
それはまごうことなきハレの場の生成。
きわめて良質のエネルギー・波動にあてられて、
ほんと、心身ともにリフレッシュさせていただきました。感謝。
で、洞口さんもその作品のファンであり、
テレビのプログラムではロケ地まで訪ねている『helpless』である。
今までDVDでしか見ていなかった。
今夜見たのは30席ほどの小さな小屋で、それほど大きくないスクリーンだったが、
これ、やっぱりスクリーンで見るとちがう。
回し過ぎのフィルムが疲労しているせいか、
いつの時代の映画なんだと思うくらい画像も音もブチブチだったが、
スピーカーの音が大きくて、迫力があった。音楽の良さが際立つ。
冒頭の航空機からの俯瞰撮影は有名だけれど、
これ、こんなに無茶な揺れ方してましたっけ?
それに引き続いての、バイクに乗る浅野忠信を追っかけるカメラだけで
満足している自分がいた。トンネルのシーンもなにげにすごい。
それにしても1989年9月の北九州である。昭和の終焉である。
お父上はもういない。
病院と廃工場に峠のレストラン、映し出される風景が、どれもいい味を出している。
また、演技がいいのか、演出がいいのか、
出てくる登場人物全てのキャラが際立っている。
いろいろ書き出せばきりがないので、個人的な符牒について一つ。
最近、林檎ねえさん(関西でこういうとハイヒール・リンゴになってしまう)
の『ギブス』がiPodのヘビー・ローテーションでした。
「だってカートみたいだから〜 あたしがコートニーじゃない〜」
なんて鼻唄うたってたら、NIRVANAの『Nevermind』の紙ジャケが出て、
懐かしくなって買ってしまった。カート・コバーンのポスターも付いてきた。
そしたら、今日見た『helpless』の中で浅野君が
『Nevermind』のジャケットをでかくプリントしたTシャツを着ているではないか。
ちょっとした偶然が、ちょっと嬉しい。
でも、NIRVANAの『Nevermind』のリリースは1991年だから、
映画の設定とは辻褄が合わないんだけれどね。
これも通なひとの間では有名な話なのだろうか。
3連チケット買ったので、明日は『ユリイカ』。
で、来週は『サッド・ヴァケイション』を見ようと思います。
北九州サーガ3部作だそうです。まるで中上の世界です。

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2007/12/9
黒沢清の『叫』では、葉月里緒奈演じる幽霊が大胆なパフォーマンスを見せてくれて楽しかったのだけれど、中でも幽霊が遥か彼方の空に向かって飛んでいくシーンが印象的だった。多くの人はほとんど映画的な受けねらいのシーンと受け取っただろうけれど、金属質の叫びを発し、空を飛ぶ幽霊を見ているうちにずいぶんと昔のことを思い出した。
それは学生時代、学生寮に住んでいたときのことである。山の中腹の丘の上にあった当時の寮は鉄筋コンクリート4階建てで、私の部屋は4階の一番西端にあった。六甲山から吹き降りてくる風で窓や扉を開けっ放しにしておけば風通しも良く、夏の熱帯夜でも快適だった。部屋の窓は南向き、外側にはベランダもついており、寮の建物の下は崖となっていてその下は当時高校のグラウンドだったから非常に開放的で、神戸港の埋立地や大阪湾のパノラマが広がる好立地である。
ある夏の夜、いつものように窓を開け放しにしてパイプベッドで寝ていたわたしは、外で誰かが騒いでいるのを夢うつつの状態で聞いていた。窓の外、グラウンドのむこう側にあった集合住宅の駐車場あたりで一組の男女が何かもめていて、若い女性が男に向って怒鳴り散らしている。
わたしは体は眠っているのに聴覚は冴えたような状態で、近所迷惑だな、近くの住民が目を覚まして出てこないのだろうかと眠りの中で意識を働かせている。そのうち口喧嘩のような状態がエスカレートしてきて女性の声も叫び声のような調子になってきた。このままだと流血騒ぎにまでなりそうな勢いで、なにやら剣呑な雰囲気がこちらまで伝わってくる。そしてお互いもみあうように何やらくぐもった声で言葉を投げかけあったと思ったら、女性のほうが突然の叫び声を上げた。
最初の一声がギャーと大きく聞こえたと思ったら次にそれは真空に吸い込まれたような調子で一瞬遠くなり、その次にその声はまるで矢で放たれたかのように闇をつんざくような大音響をともなってこちらに真っ直ぐ向かってきたのだ。それはまるで衝撃波のように寝ているわたしの脳天を貫き脊髄を通り抜けていったのである。
わたしは驚いてベッドから飛び起きてそこで完全に目が覚めた。そして、これはもう確実に警察沙汰だなと思いながらベランダから身を乗り出して声が聞こえてきたほうを見やった。ところが夜の街はひっそりとして落ち着き払っている。男女の声はもう全く聞こえないし動く人影もない。夜の街も寮の内部も皆寝静まっている。わたしはキツネにつままれたような感じでしばらくぼんやりとベランダで突っ立っているばかりだった。翌朝、寮の住人に聞いてみたが、そのような声を聞いた人間は誰もいなかった。
その寮のわたしの住んでいた部屋では、過去に二人ほど自殺していた。そのことはその部屋に移り住んでしばらくして友人から知らされた。といっても寮生活自体がわたしにとって非常に居心地のいいものだったから、普段は何事もなく平穏にそのことが全く意識に上ることもなく過ごしていた。それでもやはり、時々感じることがあった。幽霊が出るとかいったことではない。わたしが感じたのはその部屋が何かの通り道になっているということだ。
時々、何かが通り過ぎていくのだ。それはツルリと冷たい触感を伴うものであったり、ネコのようにまとわりつくような感覚を伴うものであったり様々だった。そして先ほどの叫び声も、それら通り過ぎるものの一つだったのだ。そういったこととその部屋で自殺があったということの間にはおそらく直接の関係はないと思うのだけれど、その部屋がどこか別のところへつながっている道の真ん中にぽつんと浮かんでいる泡のような空間だったのだとすれば、中にはその空間を通り抜けて道を向こう側へ歩き始めるものもいるのではないだろうか。

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2007/12/2
黒沢清の「LOFT」に続く新作「叫(さけび)」をDVDで見る。相変わらずの黒沢節で、今回もホラーだがその映像にわくわく気分で魅入ってしまった。「LOFT」の山奥の二軒屋という自然の中の密室劇から今回は東京湾岸に舞台を移し、エンディングの辺りでは都市的なカタストロフ劇の予兆をも垣間見せる設定となっており、ある意味で「LOFT」でもあり「回路」でもあり「cure」や「カリスマ」の雰囲気を漂わせ、一部で集大成といった声も聞かれるが、それほどではないだろうけれど十分楽しめる内容だった。
今回、湾岸という海と陸の間という舞台立て(それはすなわち異界へと開かれた境界の場所である)により、物語と映像を貫く一本の張弦が立ったことで、相変わらす荒唐無稽な筋立てながら映画的な説得性の高い(どういうことか書いている自分もわからないのだけれど)作品に仕上がっているような印象だ。
この作品でも徹底して動員されるのが鏡面上の光の反射や反映だ。鏡を覗き込む人の視線、鏡に映り込むあちらの世界、鏡の向こう側で移ろいゆくものをカメラは執拗に追い続ける。鏡面を体現するものは姿見であったり車のフロントガラスであったり、廃墟にころがる金属の表面であったり、埋立地の水溜りであったりするのだが、それらが映し出す不吉な光が物語を動かす。とともに、今回、映画にダイナミックな物質性を与えているのが「叫」という題名にも示唆されているところの様々な「振動」である。
わたしがこの映画で一番怖かったのは実は地震の音。不吉な地震が別の恐怖の予兆となっている。その他にも様々な震えがこの映画には散りばめられる。水溜りの水面の震えやビニールカーテンの波立ち、鳥の羽ばたき、叫びに震え逆立つ黒髪、工場のようなロフト感覚あふれる警察署の内部の吊り下げランプも右に左に揺れ続ける。世界はそういったすぐに液状化する不安定な基盤の上にかろうじて保たれているのであり、人はいつそこから足を踏み外すかもしれないし、向こう側の存在も簡単にこちらに手を伸ばしてくるだろう。

舞台の性格上、廃墟萌えや工場萌えといった人の感覚にもこの映画は訴えかけるものがあるだろう。それらは見捨てられ、長い年月のうちに朽ち果て、そのように朽ち果ててあることも忘れ去られている。しかし、そんな場所にあえてスポットをあてることにより、幻想やノスタルジーといった余剰な感情を抱くのもまた人の性だ。
この映画は、そういった忘れられた場所や存在が私たちに復讐しにやってくるというお話だ。私たちははるか昔に渡船の上で揺られながら遠い距離で少しばかり視線を交わした相手のことなどもちろん忘却しているだろう。しかし、忘却されたものたちは、その忘却こそが罪なのだと私たちを問い詰める。あなたには、何かできることがあったはずではないのかと。そのような問いかけは理不尽なものであるにもかかわらず、わたしたちはある種のうしろめたさのようなものを感じざるをえない。
一方の忘れることともう一方の思い続けることの齟齬から、ときに恐ろしい物語が生まれる。わたしたちがその物語に無縁であるという保証はない。そんなリアルな恐怖を、単に幽霊に語らせるのではなく、揺らめく鏡面や震える水面の様態によって詩的に描き出しているというところに黒沢的な美学が感じられる。それはきわめて映画的な戯れのエクリチュールだ。

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