2008/8/23
押井守の『スカイ・クロラ』
戦闘機(プロペラ機)の空中戦は是非とも劇場の音響と大スクリーンで見るべしと、
先日、見てまいりました。
その点については、期待通りの作品でした。
ただ、キルドレ達の地上の物語については
当初、危惧していた通り、あまり入り込めなかったですね。
人の命を賭けるリアル・ゲームとしての「戦争」が
恒久平和な世界において必要とされていたという筋書きに、
リアリティがあるのかといえば、ないでしょう。
しかし、そのような物語世界の設定に単に納得できないというのではないのです。
今回、あえて押井守が今の若者たちへメッセージをこめたんだという
そのメッセージが、当の物語の世界構造によって、
結局よくわからないものになってしまっているのではないか。
そんなことが気になりました。
まあ、あまりメッセージ性というものにとらわれずに見れば
物語自体はそれほどの齟齬もきたさず、あちらこちらにばらまかれた伏線を回収しながら
エンドロールの最後には、円環を閉じることになるでしょう。
少なくとも、昨日と今日は違う。
今日と明日も、きっと違うだろう。
いつも通る道でも、違うところを踏んで歩くことができる。
いつも通る道だからって、景色は同じじゃない。
それだけでは、いけないのか?
それだけでは、不満か?
それとも、それだけのことだから、いけないのか。

作者のメッセージというのは詰まるところ上の言葉に集約されているでしょう。
「退屈な日常を生きろ」ということなのでしょうが、作品では、
その退屈な日常と緊張感あふれた鮮やかな空の世界が対比させられています。
その天上の世界はおそらく作者の欲望がストレートに傾けられた世界であって
人間のエロスとタナトスが稀有に昇華されるような世界でもあり、
作者はそこに見るものを誘い込もうとしているようです。
確かに甘美な世界ですが、少し危険なにおいも感じます。
しかも、この物語における「退屈な日常」というのが
機械仕掛けのオルゴールのように永遠に繰り返される無限ループとして設定されています。
この世界のキルドレたちは、つかの間の生や恋や死を繰り返す。
生は繰り返されても、結局それは無時間性の中の生であって、
それゆえにキルドレ達のおかれた境遇の残酷さが際立つのですが、
このような俯瞰的な視点に立たされてしまうと、
「いつも通る道だからって、景色は同じじゃない」という
彼ら一人一人の生の内実や風景といったものと隔たってしまう。
この世界の中で、水素だけが繰り返される彼らの生を俯瞰する立場にあります。
果たして彼女はこれまで一体何を見続け、何を見届けてきたのでしょうか。
大人とキルドレとの間で生き続ける、彼女のマージナルな立ち位置にあって
その彼女の瞳の奥底に湛えられた底知れぬニヒリズムによって
このかりそめの地上の世界は覆い尽くされているようです。
この映画が鬱な映画だといわれる所以はおそらくそこにあるのでしょう。
「退屈な日常を生きろ」というのは、
そんな「退屈な日常」でも、まがりなりにも一回限りのものだからこそ
いつも通る道だからって、明日も通れるとは限らない
だから、そのありふれた風景も
一度限りのものとして、この眼に焼きつけておくこと
雲間に垣間見える遠くの光を見つめ続けること
一度限りの出来事の、そのひとつひとつに含まれている永遠を感じること
私たちも含めてですが、今の若者たちに
この退屈な繰り返しの日常を営んでいく上で作法として必要なことは、
平たく言えば、対象への関心を持続しつつ、
それに真摯な眼差しを注ぎ続けていくことではないでしょうか。

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2008/8/18
もうずいぶん前のことでしたが、
友人が、知り合いがアートの制作のための材料に使うので
履き古した靴を提供してほしいということで、
こんなきたないもの、どう使うんだろうと思いながら提供し
そのまま、そのことすら忘れていたのですが、
それが作品になったというので見に行ったのが下の美術展なのでした。

上の写真にあるのが当の靴の作品。
もう、びっくりするとともに、なかなかすごい作品だなと感心しきり。
たくさんの靴が赤い糸で結束され、無数の赤い糸は焦点の奥で一つに収束します。
提供者がその靴についての想い出を記した紙が付されている靴もあります。
それぞれにくたびれた靴はそれ自体が不在の所有者の痕跡であり
まるで記憶の堆積といった感じで、モノとしての生々しい存在感を有しています。
それらが赤い糸で束ねられているのは、
人々の集団的記憶を表象しようという意図があるのでしょうか。
そのほか、黒い糸が錯綜した蜘蛛の巣のように張り巡らされた部屋の中に
精神病棟から運びまれたたくさんの白いベッドが並べられている作品や
天井からいくつも吊り下げられた泥まみれの巨大なドレスの作品などがありました。
制作行為のプロセスにおいては作者が自ら体を張るその一方で、
表現においては精神を生と死の挾間のぎりぎりのところまで追い詰めていく、
そんな感覚もあって、生み出される空間はスリリングかつサスペンスなのですが、
さらにその表現が、きわめて女性的な感性(ジェンダー感覚)に
裏打ちされたものであることを感じさせる、
それが彼女、作家塩田千春としてのオリジナルな作風であるようです。
出品数は少なかったけれども、大作・力作ぞろいで、
そうとう制作は大変だったろうなと思います。
用意された展示空間がまだまだ彼女には小さいようでした。
まだ若くしてスケールの大きな芸術家の本格的な登場です。
今後の彼女の活躍に期待しましょう。
いつか、廃校や廃屋病棟などを借り切って、その空間の全てを覆い尽くすような
ホラーでスペクタクルな作品を制作してほしいと思います。


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2008/8/17
今年の夏休みの締めくくりは、京都の御池のマンガミュージアムでした。
このマンガミュージアム、京都市とあの竹宮惠子がいるマンガ学科のある京都精華大学の共同運営で、30万点に及ぶマンガが収集・保管・展示されています。
建物は、昭和4年建造の元龍池小学校校舎のリッチで落ち着いた当時の佇まいを残すところは残しながら、図書館・博物館として改装した建物で、京都の街中の小学校は周辺の商家や町衆の寄贈も多かったのか、どれもデザイン的に凝っていて、豊かな空間を今も残しています。
京都市では、デザインセンターに転用された元明倫小学校など、このような小学校の改装・転用例が他にもいくつかありますが、このマンガミュージアムは集客効果という点では最も成功した例となっているようです。
とにかく、ホールにも廊下にも校庭の芝生の上にも、老若男女が場所を問わず座り込んでマンガに没頭している風景は愉しいものです。入館料400円を払えば出入り自由なので、1日時間をつぶすことも可能です。


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2008/8/16
4ヶ月ぶりの更新です。
今年の夏もそろそろ終わろうとしています。
今年の夏は、一言でいえば、芸術の夏だったでしょうか。
結構、美術館・美術展に行く機会がありました。
大きなものでは、東京上野の『フェルメール展』と『対決 巨匠たちの日本美術』、
大阪中之島の『モディリアニ展』&『塩田千春 精神の呼吸展』
小さなギャラリーでの開催だったけれどバラエティに富んで面白かった『BODY展』
そして旅先で立ち寄った大原美術館など。
クライマックスはやはり『フェルメール展』と『対決 巨匠たちの日本美術』でした。
気合をいれて朝一から1日かけてハシゴしました。
どちらも大勢の人が詰め掛けて大変な混雑でしたが、見に出かけた甲斐がありました。
フェルメール展では、当初予定されていた「絵画芸術」が出品とりやめになったのは
残念でしたが、代わりに出品されていた「手紙を書く婦人と召使い」の
フェルメールならでは構図と白いカーテンごしの柔らかな自然光に感動しましたし、
「リュートを調弦する女」など、写真などで見るとそれほどでもなかったものが
抑制された色彩の中にも微妙な光のニュアンスが感じられたりして、やはり
実物をこの眼で見なければわからないという、当たり前のことなのですが、
実際に体感できてよかったです。

『対決 巨匠たちの日本美術』は、残念ですが今日が千秋楽となります。
これはもうすばらしい展覧会でした。見に行けてよかったです。
巨匠たちを一対一で対比させて展示するという企画の面白さもありますが、
作品のどれもがスケールが大きく、エネルギッシュな生命感に満ちていて
作品から気をもらっているような感じで、見ているだけで元気になりました。
いい加減、足は疲れていたのですが、壮快な気分で美術館を後にしました。
そのほかの美術展についても、また、少しずつ書いていければと思います。


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