忘却の川へ流れ去る諸々をしばしこの岸辺に繋ぎとめて..日記についての日記、もしくは不在の人への手紙。
2009/5/30
ゆうべ、フランスの稀代のプログレッシヴ・ジャズ・ロックグループ、マグマのコンサートに行ってまいりました。マグマは今回で4度目の来日、個人的には前回2005年9月の心斎橋クアトロ以来の2度目の生マグマです。
当日券での入場にも関わらず、ラッキーにも前から8番目中央付近の良い席でした。前回はライヴハウスでま近で見ることが出来て、ひたすら巨躯のクリスチャン・ヴァンデのドラムスとヴォーカルに圧倒されっぱなしでしたが、今回は程よい距離間でバランスよく彼らのステージを堪能できました。

結論からいうと、非常に素晴らしいライヴでした。相変わらずのパワーとテンションで息つくひまもなかったというのが正直なところ。前回のライヴハウスと違って会場の規模がそこそこだったので、ライティングなどの機材も充実していて、音や奏者に合わせて緻密な照明演出がなされ、美しいステージングでした。ドラムスのクリスチャンを中心にベース、ギター、エレピ、ヴィブラフォンといった4人のミュージシャンが脇を固め、ステラ・ヴァンデをはじめ3人のコーラスの立ち位置なども曲中構成に合わせて移動するシアトリカルな演出でした。
今回は全くの予習なしでしたので、セットリストはわかりませんでしたが、新曲中心のようで、なかにはまだ名前もついていない曲もありました(ステラがそんな紹介をしていたようです)。全部で5曲、10分程度の力強い1曲目にはじまり、2曲目が30分程度の起伏に富んだ聖歌といった感じの荘厳な曲、ステラのメイン・ヴォーカルが美しすぎます。今回は全体的にステラの美声がクローズ・アップされていて嬉しかったですね。若いころはどちらかといえばふっくらしていたけれど、ほっそりと美しく老いられて、それでいて声量は豊かで高音も伸びがありました。
3曲目が今回のハイライト、50分強の大作です。中間部に(HHAIだったか)過去の楽曲が挟まれて展開の激しい曲で、最後はチベットの声明のような呪術的なコーラスとヴァンデのシンバルで静かに幕を閉じて、ちょっと会場は水を打ったように静かになり、間をおいて大歓声でした。
アンコールは2回、1曲目は初期の代表作コバイアで、ブルース・フィーリングなギター・ソロがフューチャーされていました。このギタリストがお茶目で、勉強してきたという日本語で俳句を披露してくれたり、インフルエンザは大丈夫?などと言って会場を沸かしてくれました。
アンコール2曲目ラストはクリスチャンのヴォーカル主体の曲で、彼の声のパワーと表現力に圧倒されました。サックスを演奏しているかのように口元で指を動かしながらのオノマトペ的な超速ヴォーカリゼーションはコルトレーンへのオマージュでしょうか。
とにかく、グループ結成40年、一貫して自身の音楽を追及し続けそのパワーを維持し続けるクリスチャン・ヴァンデの音楽への真摯な熱意と精神、そして愛には感嘆せざるを得ません。


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2009/5/24
あなたはわたしに「なまえのない森」のことを覚えているかと聞きました。わたしは思い出しました。あなたとわたしの出会いのころでした。それは『鏡の国のアリス』の不思議な森のことでしたね。
そこでは存在するものすべてに名前がないので、生き物はみな不分明で自他の分け隔てなく仲良く暮らしています。その森に迷い込んだアリスも出会った鹿と仲良く話をしながら一緒に歩くことができたのでした。ところがその森を通り抜けたとたん、全ての存在と名が明るみに曝け出され、人は人に、動物は動物に、ふたたび心を通わすこともなくばらばらな存在に戻っていったのです。
この挿話のことは、偶然、少し前に読んでいた高山宏の復刻本『アリス狩り』にも述べられていたこともあり、すぐに思い出すことが出来たのでした。博識な著者らしく、この挿話については「目覚めに取り付く幻滅感」という言葉で、広くキャロルと同時代の文芸や哲学の中で位置づけています。
存在は言葉の中に光りながら落ちてくる一方、同時に自らを人間から無限に遠ざけるという考えが、『存在と時間』のハイデガーの悪夢であったわけだし、一方、すべてでありながらついに何者でもない白い鯨の「白さ」の中に、見る人ごとに別々の勝手な意味を読み取ることの悲劇的なおかしさを叙事詩的奇作『白鯨』の中に書いたハーマン・メルヴィルとキャロルは正確に同時代人であった。そして、この時代には、人間本意の意味と言葉の介入を拒むような「白い」空間が多くの作家を魅了したもののようだ。いわゆる白紙(タブラ・ラサ)に憑かれたメルヴィル(『白鯨』)、白い海の物語を書き続けたポー(『ゴードン・ピムの冒険』)、何よりもマラルメ(「海の微風」)がいる。作家たちにとっては、自分たちがむなしい言葉で何かを書くという行為は書かれつつあるはずの世界とは実は何のかかわりもない、という幻滅感が避けがたいものとなったのである・・・略・・・夢が現実へと修練させられる「覚醒(めざめ)」の瞬間、「作家」キャロルは言葉を失うのだ。

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2009/5/9
あなたのこと 思い出すたび
夜空の星が 近くに見える
遠い町に 離れていても
僕らの夢は 今夜も一つ
ああ 君の声が 風の中に 混じっている
そんな夜さ そんな夜さ いつまでも
暗い夜さ 暗い夜さ いつだって
わたしのこと 思い出してね
夜空の星よ 届けて欲しい
ああ 遠い声が 風の中に 混じっている
そんな夜さ そんな夜さ 今夜も
ああ 遠い声が 風の中に 混じっている
そんな夜さ、そんな夜さ いつだって
暗い夜さ 暗い夜さ いつまでも
暗い夜さ 暗い夜さ いつまでも
暗い夜さ 暗い夜さ いつまでも

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2009/5/6
金井美恵子の『目白雑録(ひびのあれこれ)3』が4月初旬に出ています。
金井美恵子については、3月にも『柔らかい土をふんで、』が河出文庫で文庫化され、久しぶりにこれを読み返したところでした。文庫には作者インタビューも載せられており、元気そうな様子でなによりだったのですが、『目白雑録3』を読んで、はじめて『目白雑録2』以降の2年半ほどの作者の日々を知った次第です。
この間の作者の大きな身辺変化としては、あとがきにも述べられているように、1網膜剥離、2トラーの死、3禁煙、の3つだということですが、読み始めてみると最初はサッカーの話題が多く、それも2006年のドイツ・ワールドカップの話題(正確に言えば2006年5月17日のUEFAcupCL決勝戦の話題)からということで、非常に時間の隔たりを感じさせる結果となっています。
あれから中田英寿も旅を終え(いや、今度は国内の旅に出発したんだっけ?)、日本代表は相変わらず煮えきらず(それでもワールドカップ出場に王手をかけ)、バルサはロナウジーニョからメッシのチームとなり(今夜は確かCLの準決勝対チェルシー線だったはず)、で、日々サッカーにおいて世界は移りゆくのでした。こちらのサイトでも話題にした、中田英寿を巡る雑録についても、「バカヤロ、酷評されるのは中田じゃなくて、お前の文学的自己愛の無恥ぶりさ。」としっかり落ちをつけてくれていたのでした。
でも、なんといっても、2007年9月の「休載の記」以降、網膜剥離の術後のたいへんそうな経過に加え、『昔のミセス』のあとがきであっさりと知らされたトラーの最期、2007年9月4日のくだりが描写された文章には胸うたれたのでした。作家の病やトラーの死が『目白雑録3』の全篇に影を落としているようで、ところどころでは相変わらず笑えるのですが、いつもの金井美恵子らしい攻撃性には幾分翳りが見えるようです。
先日文庫化された『小説論 読まれなくなった小説のために』について書かれた文章もあります。それを上梓したのが1987年で作家39歳の時なのですが、この年には『タマや』も上梓されています。その年は作家デビューからちょうど20年目のことであり、それからトラーと一緒の生活も含む20年間が作家の中ではひと区切りだったのだというようなことが書かれています。
一読者としては、これからの新しい20年間、厄をのり越えた作家がマイペースながらも確実に小説を書き続けられることを願ってやみません。


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2009/5/5
GWも明日で終わり。時の経つのは相変わらず速いですね。
本日は、大阪中之島の国立国際美術館で開催されている
杉本博司「歴史の歴史」展にいってまいりました。
このアーティストに関しては、その作品より先にテクストから入りました。
今年2月東京で立ち寄った青山ブックセンターの美術本の一角で特集が組まれていて
手に取った第一評論集の『苔のむすまで』を表紙に魅かれるまま購入し、
帰りの新幹線の中でいっきに読んでしまいました。すこぶる面白かったのです。
そして、著者の大規模な展覧会が当時金沢の21世紀美術館で行われており、
その後大阪に巡回するということを知って、楽しみにしていた展覧会でした。

今回の展覧会のコンセプトのユニークな点は、写真家としての杉本博司のみならず
かつて古美術商を営んでいたコレクター杉本博司の側面に大きく光があてられていることです。
出展数も、コレクションの物が写真作品を凌駕しています。
『苔のむすまで』に載せられていた土偶や古面、仏舎利塔、
『現な像』の観音像や唐の舎利容器を直に見ることができてよかったですし、
二月堂華厳経一巻七幅や当麻寺の古材の展示は非常に迫力がありました。
写真作品ではやはり、地下2階の9つの「海景」シリーズはよかったですね。
暗闇に連続して浮かび上がるモノクロームの海の光景には思わず溜息が漏れてしまうほどでした。
以前、トロントのリベスキンド設計の展示スペースで開かれた「海景」の展示手法と同じく、
展示室いっぱいに広がる緩やかに湾曲するウォールに「海景」群が展示されているのですが
スケールはこちらのほうが大きいでしょう。
それぞれの海の持つモノクロームで超歴史的な存在感とあわせて、
劇的な展示空間そのものをできるだけ多くの人に生で体感していただきたい、
そう思わせるような展示でした。
また、地下3階の大空間を丸ごと生かした「放電場」の展示構成も面白かったです。
大空間の両端にデュシャンのシュミラクル(一つはマン・レイによる肖像の、一つは大ガラスの)が配され
その間に「放電場」が異常に眩しい光を放ちながら立ち並んでいます。
大ガラスのシュミラクルについては、作品設置の際に即興的なアレンジで制作された過程が、
館内のドキュメンタリーフィルム「我想う、故にワレ有り」で説明されていました。
普段の常設展示品を全てとっぱらって杉本作品で埋め尽くした今回の展覧会、必見です。


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