忘却の川へ流れ去る諸々をしばしこの岸辺に繋ぎとめて..日記についての日記、もしくは不在の人への手紙。
2009/8/30
単行本上梓までに私としては珍しく一年も時間がかかったのは、当時の私がこの小説を書きながらまったくの孤立状態にいるような気がしていたからで、単行本にするにあたって、かなりの分量をカットしたのもその表れだったろう・・・二つの『岸辺のない海』のどこが違うのか、中公版ではなぜある部分がカットされたのか・・・
『岸辺のない海』 文庫版著者あとがき
作家もこのように書いている二つの『海』の相違については、作家自身考えるのに時間がかかると書いているのは、両者の間に介在するのが単純なカット編集ではないということがあるだろう。『完本』の最初からパラグラフに通し番号を振り、それを『中公版』の編集に沿って並べ替えてみると、カットばかりではなく下の図のようなブロックの入れ替えが行われていることがわかる。

小説がはじまってすぐ、10節目のところで『中公版』のほうでは『完本』の終わりのほうの数節がつなげられており、またそれ意外にもブロックの前後関係が入れ替わっているところがある。このことから、『中公版』における文章のカットは、最初にカットありきだったわけではなく、このようなブロックの前後関係の入れ替えによってカットしなければならない文章が生じてしまったというふうに考えたほうがよいのではないだろうか。
それにしても、著者は単行本にするにあたって、どうしてこのように前後関係を入れ替える必要にかられたのだろうか。一般的な物語小説であれば、このような入れ替えは考えにくかったであろうが、それが出来たということもこの小説の特殊性を物語るものとなっている。これらのパーツの入れ替えによってこの小説の世界=物語構造が壊れてしまうものではないということだろう。これを単純化して言うなら、この小説には明確なストーリィがないからということになろうが、ならばなおのこと、単行本化の際孤立状態にあったという作家にこのようなアレンジをさせた動機(それはあるいは外部要因かも知れないのだが)は何かということになろう。
といったことも、この不思議な『海』の世界の神秘性をより増すことになり、ぼくはますますこの『海』の深みにはまりこんでいくことになるのだろう。

0
2009/8/29
早朝、久留米を車で出発して熊本県の宇土経由で天草に入り、上島・下島と海岸線の道を走り、途中温泉浴や海水浴を挟みながら島の南部の天草市河浦町崎津に着いた頃には既に陽が沈みかけていた。
トンネルを抜けて小さな入り江の集落に入ると右手の漁港の背後にその建物は屹立していた。それは前面に青々とした入り江の水面を抱え、緑の半島を背に水平にひろがる漁村の家並の中心にあって垂直に天を指していた。緑と青の間で家並と天主堂が調和的な景観を構成しひとつの小さな宇宙をかたちづくっている。

対岸に宿をとり、ぶらりと村のほうへ歩いて出かけた頃には既に夕闇が迫っていた。海岸沿いの通りの両側に家が軒を連ね、それぞれ夕餉を向かえているのだろう。人通りのない道で私たちの靴音だけが響いている。ゴッシク風のその天主堂は、残照を背に受けてそびえ建っている。
帰り道、ある一軒の玄関先でガラス越しに眼をやると、居間にキリストのイコンと桐の十字架の聖壇が祀られているのが見えた。厳しい迫害の歴史を乗り越えて今もクリスチャンの信仰がここでは根づいているのだろう。老婦人が独りできりもりする宿で見せてもらった村の航空写真。天主堂を中心に漁港と集落が仲睦まじく寄り添い親密な世界を構成しているのがそれをみるとよくわかる。
わたしも友も旅の疲れでその夜は酒もそこそこにすぐ寝ついてしまった。おかげで眼が覚めたのは夜明け前、見晴らしの良い二階の窓から入り江を挟んで正面に天主堂が見える。
なんて静かな、そしてなんて美しい光景なのだろう。半島の上では西に傾きかけた月が煌々と光を照射し、静かな入り江の水面を照らしている。8月6日のその夜が7月の新月、つまり皆既日食の次の満月だったことに気づく。太陽の光を隠した月が今は太陽の光を真正面に受けて、入り江と天主堂に神秘的な光を投げかけているのだった。


1
2009/8/27
ぼくはきみに手紙を書き、きみはそれを読んで、敏感にあることを感じとったんだ。ぼくがきみに伝えようとしていることをひとつも書いていないということを。なぜなら、ぼくがきみに伝えようとしていたことは本当はたった一こと〈愛してます〉とかそんな単純で馬鹿気た言葉でよかったはずなのに、ぼくは、それを伝えるためにもっともっと何百倍、何千倍もの言葉を必要としたんだ。そして、書くということは、そういうことだった。真実から遠ざかるようにしてしか真実に近づく手だてがないかのように、もうきみとは関係なく、きみと呼ばれるきみではないきみの彼方の何もないどこにもない場所に向って、ぼくは書いた。
『岸辺のない海』 34節
もう夏は終わろうとしているのに、ぼくはまだいつかの夏の記憶の〈海〉で溺れかけているんだ。
夏休みも終わりかけの週日の図書館は人が比較的少なく、ブラウンジングでの書庫閲覧の申請もスムーズに済んで、係りの女性が指し示す可動式の棚に眼をやれば、棚の上にはぴっちりと背がそろえられた雑誌の合冊製本が6冊分並んでいた。それはもうかれこれ40年くらいも昔の〈海〉という名の文芸雑誌だった。
ひとつの小さな机をぼくは独占して、ひたすらぼくは古びて黄ばんだざら半紙のような紙を指でめくる。手元には僕自身が持ち込んだ小説の文庫本があり、その文庫本には1ページ目からパラグラフの冒頭に手書きで通し番号が振られている。そして、昔の雑誌と文庫本とを見比べながらメモをとるというのがこの日の図書館でのぼくのミッションだったというわけさ。
1971年12月号 1−14
1972年 新年特大号 15−26
1972年 2月号 27−42前半
1972年 3月号 42後半−50
1972年 4月号 51−61
1972年 5月号 62−67
1972年 6月号 68−76
1972年 7月号 77
1972年 8月号 78・79
1972年 9月号 80−89
1972年10月号 90−94
1972年11月号 95−103
1972年12月号 104・105
1973年 新年号 「作者急病につき休載」(編集後記)
1973年 2月号 106−114
1973年 3月号 115−121
1973年 4月号 122−133
察しのいいきみのことだから、ぼくがしたことがわかるだろうけれど、そのことにどれほどの意味があるのかはよくわからないでしょう。だってぼくにもわからないのだから。とにかくぼくはこの豊穣な(放恣なといってもいいんだけれど)言葉の海へ、単純な数字でできた、それゆえ客観的で抽象的な澪標を突き刺した。それがこの言葉の海に身を尽くし、遭難せずにかろうじて航行し続けるためのささやかな道しるべというわけさ。

0
2009/8/13
やがて、無数の夜と昼が限りない反復の中にたちあらわれる。太陽の光を小さな茶色の円盤の形をした光彩で調節し、少し眼を細めて、狂気のような太陽のもとでぼくは書く。もしくは夜の中で、狂気じみた夜の中でも、ぼくは書くだろう。夜の静けさと、静けさの中に呑みこまれた不可能な熱狂のうちで。書きはじめることによって、彼方から僕を囲繞しはじめる不在がやって来る。無数の夜と昼の反復の中に、ぼくの老いがゆっくりと肉体をおかしはじめる。終わりのないはじまりの中で、緩慢に死に近づきながら。時と海の干満の中で、終わりなき物語がはじめられる。
さて、お盆休みが始まると夏も終わりです。今年の夏は梅雨が明けなかったり、台風と地震が同時に来たりと巷に夏らしいイメージは感じられませんでしたが、わたしはといえば、先週のうちに休暇をとって旅に出かけ、天候にも恵まれて夏を満喫できました。とはいっても、ここでの話題は旅の話ではなく、その旅に携帯した文庫本の話です。
それはもう随分昔に読んだ、永遠の夏休みを描いたかのようなリゾート・ロマンスの側面を有するアンチ・ロマンだったのですが、今回それをこの旅の途行きに再読するのに最適と思い、持って出かけたのでした。しかし、旅のほうがめまぐるしく充実していて、結局帰って来たときにはまだその四半分も読めていない有様でした。
その文庫本というのは、金井美恵子の『岸辺のない海』です。
『岸辺のない海』は、最初雑誌の『海』に連載されていたものが1974年中央公論社より単行本が刊行されました。しかし、それは掲載文章の一部が割愛された形で出されたため、その後1995年に雑誌より完全復元されるとともに新しく「岸辺のない海・補遺」が付け加えられ、『完本・岸辺のない海』として日本文芸社より出版されています。
わたしの持って行った文庫本は、1974年版の文庫版として1976年に中公文庫から出されたもので、今では単行本も文庫本も絶版となっています。わたしはその文庫本を去年四国の地方都市の古本屋で購入したのでした。趣味人の若い店主が経営する店で、そこでは他に『言葉と<ずれ>』や『添寝の悪夢・午睡の夢』他の金井美恵子のエッセー数冊を購入することができました。ちなみに1974年版の単行本のほうも、つい先日京都のアスタルテ書房で購入したばかりでした。

そして、旅から帰ってきて久しぶりに最寄の本屋を覘けば、『岸辺のない海』の文庫新刊が並べられているではないですか。河出文庫の新刊で、これは1995年版の『完本』が文庫化されたものでした。最近の河出文庫はなかなかいいですね。
この文庫版のあとがきには、金井美恵子自身、1974年版では相当の文章がカットされたと書いていますが、ざっとみたところ単純に割愛されているようでもなさそうです。しばらく引籠もって、その部分を読み比べることでこの夏の残りを過ごすことが出来ればとも思うのですが、わたくし自身そんな贅沢な身分でもありませんし。
以前、この場所でも、1974年版と『完本』とでテクストにどのような裁断や組替が行われているのかを辿っていきたいと書きましたが、それはもちろん分析行為といったものではなく、読むことの愉悦や快楽を反芻すること、著者に言わせれば「小説の中を漂いつづけること」であり「岸辺のない海に浮かび続けること」に他ならないのです。

2
2009/8/2
perfumeといっても巷を賑わしている3人組のユニットのことではありません。嫌いじゃないけど。
昨日、『マン・オン・ワイアー』を観た映画館は、京都駅の南の東寺にある京都みなみ会館でしたから、映画終了後、映画館から歩いてすぐの東寺を散歩、久しぶりに迫力のある立体曼荼羅を体感し、みめ麗しい月光菩薩増・日光菩薩増にも再会を感謝し、ご挨拶いたしました。
そして市バスにのり、烏丸四条へ。目的の地は建築家の隈研吾が近代建築(旧丸紅ビル)のリノベーションを手がけ、今は商業複合施設となっているCOCON KARASUMAにあるインセンス・ショップのlisnです。

このお店、現代感覚・アート感覚あふれたお香屋さんで、20年くらい前から知っていて結構お気に入りなのですが、京都の北山からこの烏丸四条に移ってからは訪れたことがありませんでした。お店はまだこの京都と東京の青山の2店舗のようです。
ひとつひとつお香を手にとってその香りを試しながら、自分の好みのピースを選んでいくのは結構楽しく、蒸し暑い季節柄、選んだ香りは森やハーブ系統に落ち着きました。香りのひとつひとつに “Norwegian Wood”だとか“Sidewalk”だとかコンセプチュアルなネーミングがほどこされています。ショーケースに並べられているのは一部なので店の人に頼めば200種類くらいある香りのピースから選ぶこともできます。
またお香立てもおしゃれで、時折デザイナーや彫刻家の新作も出ます。この日は鋼板を用いてミニアチュールな建築空間をお香立てに見立てたシリーズが店内に並べられていました。わたしはシンプルな球体の鋳鉄製のお香立てを20年来愛用しています。
今回は、自分用に4種類の香りのピースとサシェを、夏休みにお世話になる方へのギフトとして季節の詰め合わせセットを購入しました。
日曜の午前は、好きな香りをくゆらせてリラックスすれば、気分も新たにリフレッシュです。


0
2009/8/1
それが人の心を動かすのは、つまるところ、その芸がまったく何の役にも立たないからだ。
我々みんなの心の底にひそむ、美に憧れる衝動を、これほどはっきりと浮かび上がらせる芸術はほかにないように思う。綱の上で歩く男を見るとき、我々の一部も彼とともに空中にあるのだ。
ほかの芸術の演技とは違って、綱渡りの体験は見る者にじかに伝わってくる。何ものにも媒介されず、簡潔で、説明はまったく不要。それ自体が芸術なのだ。それはひとつの生命を、この上なくむき出しに描きだす。ここに何か美しさがあるとすれば、それは、我々が自分たちの裡に感じる美ゆえだ。
「On the High Wire/綱の上で」 ポール・オースター 1982
ポール・オースターもオマージュを捧げた綱渡りの大道芸人、フィリップ・プティのドキュメンタリー映画が公開されることを数週間前の新聞記事で知って、これは見たいと思っていた「マン・オン・ワイアー」を今日見ることができた。
1974年8月7日、ニューヨークのワールド・トレード・センタービルのツイン・タワーの屋上に綱を張って地上411メートルの空中で綱渡りを演じた男、フィリップ・プティ。彼の証言とプロジェクトに協力した友人たちの証言や当時の記録、再現フィルムも加えて、彼のこの一世一代のパフォーマンス=違法行為が、まるで犯罪サスペンスのようなフィルムになった。
目的は、空中を歩く単なる綱渡り、しかし、それがノートル・ダムの尖塔の間やシドニーのハーバー・ブリッジの橋脚の間、WTCのツイン・タワーの間となれば、無謀ともいえる困難なトライアルであるゆえその行為は聖性を帯びたものとなる。その瞬間、ひとつの芸が何か神々しいものに昇華されるのだ。それはポール・オースターも書くように、むき出しの美というものなのかも知れない。
しかし、大きなプロジェクトを成し遂げるには不屈の精神と周到な準備、そして友情で結ばれた協力者同志の緊密なチームワークが欠かせない。そのアートは友情にも支えられていたのだ。映画では彼の協力者となった友人たちへの丹念なインタビューが行われていて、そのプロジェクトを巡る人々の心理劇の側面も浮き彫りにされている。
いまから未知の領域に踏み出すという高揚、いまその渦中にあることの忘我、何ともいえない浮遊感、地上411mの一本の綱の上で、彼は微笑み、かもめと会話を交わし、神に祈りを奉げる。映画はただスティル写真による場面のシークエンスを映し出し、バックにはサティの静かな音楽が流れる。涙が出そうなほどの美しい光景はただ呆然と眺めるしかない。
この綱渡りは裁判沙汰となるが結局はニューヨーク市民に熱狂的に受け入れられた。しかし、あまりにも大きな行為の達成は、達成感とともに深い喪失感を伴うものなのだろう。その後もニューヨークに留まることになるフィリップには、ともに命をかけた親友や恋人との離別が待っていた。ひとつの物語が終わり、彼らの各々の心の底でも何かが変ってしまった。映画の最後のほう、恋人だったアニーや彼の一番の理解者であり協力者だった幼馴染のジャン=ルイへのインタビューが涙をさそう。
この映画は、あえて9.11には触れていない。しかしこの映画を見る誰もがそれを意識せざるをえないだろう。ポール・オースターは2001年9月11日の覚書でWTCの敷地から立ち上る煙を眺めながらフィリップ・プティのことを考えていたという。わたしたちはこの映画を見ながら9.11のWTCがつねに意識に浮かび上がってくるだろう。それをどう結びつけるか、また結び付けないかは私たち次第だ。私にはこの映画が今は亡きWTCへの最良のレクイエムになっていると思えるのだが。

0
1 | 《前のページ | 次のページ》