忘却の川へ流れ去る諸々をしばしこの岸辺に繋ぎとめて..日記についての日記、もしくは不在の人への手紙。
2009/9/9
今日、09年09月09日はほんとうに爽やかないい天気でした。
The Beatlesのリマスター発売日。国内では一部で盛り上がっていたようですね。
彼らの音楽は、中学生のとき、“LET IT BE”のシングルEP盤を買って聴いたのが初めてでした。それ以降は、自身の音楽的な嗜好に偏りもあったので、再び聴きはじめたのは21世紀に入ってからです。それも後期の作品が中心だったので、初期の4枚は今回のモノラル盤ではじめてまともに聴くことになります。温故知新というのか原点回帰というのか。
この日の世界同時リリース、彼らの音楽をじっくりと聴くいい機会になりそうです。

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2009/9/8
親密で幸福に充ちた幼虫的な愛の世界というものが、かつて、存在した。“無性”ということによってその幸福と蜜の甘美が保証されていた黄金の束の間の至福のときがあった。そのいわば魅惑しつくされた無時間の原野から、どうして、わたしたちは追放されてしまうのだろう。
「夢みられた少女たち」
もちろん、書くことは昔から好きだった。読むことが好きなのと同じように。昔はもっと純粋に書くことだけで満足していた。今よりももっと快活で情熱に溢れ・・・まるで書くことだけで生きていた黄金の幼年期。至福の王国で甘美な白昼夢を生きていたそのころ、いつもぼくはあなたと一緒だった。というより、ぼくはあなたであり、あなたはぼくであり、そんな未分化な幼虫のように、ぼくたちはつがいで生暖かい繭の中ずっとまどろんでいたのだった。
いつのころからだったろう、そんな二人の完結した円のような関係に亀裂が生じたのは。それ以来、ぼくはぼくでありぼくでしかなく、あなたはあなたになった。それがいつのことだったのか、ほんとうはよく憶えている。じりじりと焼けるような太陽の下、あなたは一人っきりで崖に立って海を見ていた。銀青色の光芒に海は包まれ、太陽は世界を覆いながら風を孕んで音をたてる巨大な透明な帆布のように海の上をわたっていた。そのとき、あなたはあなたであるということにはっきりと目覚め、またぼくを理解したんだ。そしてあなたがぼくと同じことも理解した。ぼくの眼を通してあなたは自分自身を見たのだろう。ぼくたちはこれまでのように無邪気で無意識な二人ではいられなくなった。
そのころからだろうか。ぼくにとって書くことが苦痛になったのは。それでもこうして書かずにいられないのだけれど、こんな状態から抜け出せないことは、実際苦痛以外のなにものでもない。昔はちがった。物語は次から次へ湧き出てきた。怪鳥にさらわれる姫を救い出す王子やにやにや笑う猫の話、恐怖の幽霊船や海賊がでてくる冒険物語、それは幼年期の王国の神々の物語。物語をひとつ読んださきからまた別の物語を書きはじめる幸福な日々。それがある日突然そうじゃなくなった。
そんなことは恥ずかしい行為だと、そんな観念にぼくはある日とらわれたんだ。これまでのつくりものの物語ではなく、自分のことについて書きはじめたとき、《ぼく》という一人称を使って書き始めた時、ぼくはおそれと驚きで身体が震えた。《ぼく》と書きはじめること――王国と神々の黄金時代の黄昏がはじまろうとしていた。それ以来、ぼくは物語を書くことをやめ、こうして日記を書いている。あるいは宛先のない手紙を。
一方で、常識ある普通の人々はみな、幻のような幼年期から軽々と脱出し、やがて書くことをやめていく。ぼくの回りの人たちもみなそうだった。みなそれぞれ自分の生活を見つけて、そのなかでときどき旅立つことはあったとしても、いずれはそこへ帰還していった。帰っていく場所があるということが大人の証明なのさ。彼らはみな書くことをやめていった。ノートは閉じられ秘密の部屋には鍵がかけられた。みな一人前の大人だから、書くことにいつまでもかまけてなどいられない。
あなたは特別な人だったけれど、もう子供じゃない。あなたはぼくを置き去りにしたままその一歩を踏み出したんだろう。あなたは大洋に漕ぎ出していく女船乗り。もはやあなたの視線は海の先の水平線が空と交わる辺りを見つめつづけたまま、決して出発の地をふり返ろうとはしない。海の上で、青一色の空虚な世界で、あなたの視線は無限の空間を見つめつづけたあまり、まるで宇宙の星を眺めているように、出発の土地への距離感を失ってしまいます。彼方を注視する視線は、それを支える肉体をすでに持ちません。
こうして帰還のない航海へと旅立っていたあなた。あなたからはもうぼくが見えるはずもない。ぼくができることといえば、こうして書きつづけることだけ。それは日記のようでもあり手紙のようでもあり、何事もない日常の、何事もないがゆえの備忘録のようなもの。何も待つことなどないし、忘れるに足ることなど何もないから、思い出すこともない。わたしという書きつづける生身の肉体があるだけ。そんな単調なやり方で、ぼくもぼくのやり方で海へと、沖のほうへと漕ぎ出したというわけさ。帰航が目的とはならない船出、ただ航海日誌を書くための航海。そうしてずいぶん時間もたって、いったいどれくらいの季節がめぐりめぐったのかわからないほどだ。今はもう、無意味な人生の灰色の煮こごりのような疲れや老いも始まり、やがてくる終わりを待ちながら、重い無様な肉体をかかえて生きているような気分だけど、ぼくは決して書くことをやめたりしないだろう。なぜなら<断片>に終わりがないように、ぼくの航海記にも終わりはないから。かぎりない不快さと苦痛の水平線の彼方に終りは飲みこまれる・・・
twice told tales
われら愛によって生き、われら愛の黄金によって充たされ、天の音楽星に充ち充てり。
星に海によって厳重にその内部の地殻を覆われた水球であり、目路のかぎり海また海。
波打ち寄せる岸辺のない球体の海の天空燃える巨星輝き溶けこみ
果てることなき黄金と永遠が赤道をめぐる
「少年少女のための宇宙論」

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2009/9/3
彼女は・・・僕のことを忘れつづけるだろう。ぼくは、彼女を名づけることが出来ない。名を告げることによって、ますます遠ざかり、離れられなくなってしまう存在。打ち寄せる岸辺のない海のように、彼女は果てのない波の永遠の循環であり、語ることによってしかその不在を明らかにすることの出来ない不在なのだ。そして、彼女は常にぼくの前にあらわれる。不在の指標として。それをたどっていくことの不可能な指標として。
『岸辺のない海』 9節
この前書いた『完本』と『中公版』との間の相違について、『中公版』における数節の文章の削除は、一部の文章の入れ替えにともなうものではないかと述べたのだけれど、その入れ替えの動機については作家に聞いてみないかぎりわからないだろう。
この入れ替えについてもう少し詳しく見てみよう。まず『完本』116節、河出文庫本で言うところの297頁「切手をはられ・・・」から121節「それから彼は長い眠りの中に入り込んで行った。」までが、中公版では9節20頁の後に移動されて、その前後の数節、114節・115節(294頁〜297頁)と119節(309頁〜310頁1行目)までが削除されている。
そして、『完本』89節、文庫本297頁「自分が他の子供と変わっていることに彼が気づいたのは、小学生の時だった。」から105節の途中「深く深く、哺乳動物のように丸まって眠るだけ――。」までが、中公版では26節に続く節として小説の前半部に移動されている。そして26節は67頁3行目まででそれ以降がカットされている。また、この移動に伴い、91節(229頁「彼は今や彼の分身のようにさえ思えるこの少女のことを長いことじっと見つめていた。」から始まる節)と98節前半部(251頁「行ってしまったのはぼくなのかきみなのか、」から次頁10行目「何一つとして、何も変りゃしなかったのだろう。」まで)が削除されている。
こうして文章で書くとわかり辛いのだけれど、大きな構造で見ると、小説中盤の大きなトピックスとなっている彼の「孤島生活」を挟んで、二つの数節からなるトピックスの塊が小説の前半部に繰り上げられているということになる。

この移動と削除によって、116節の「切手をはられ、彼女のもとにとどくことのない手紙」の内容が消されてわからなくなり、それを宛てた人物が誰なのかもわからなくなった。『完本』を読み進める中では、手紙の宛先は114節に語られているように、3年ぶりかで駅のホームで会った「あなた」のことと読めるだろう。この「あなた」も複数の「彼女たち」のうちの一人にすぎないのだろうけれど、幼い頃、彼がいつも一緒にいた少女であり、いまも彼にとって過去のトラウマ的な記憶とともにあり、姿を変えて彼の「孤島生活」に闖入してきた〈原初の彼女〉ではおそらくない。なぜなら彼にとって彼女は「不在の指標」でありつづけ、決して出会えず、手紙も届かない相手であろうから。
1974年版では、その手紙についての記述が冒頭に置かれることにより、その手紙の存在自体が希薄なものとなっている。その結果、その手紙の宛先についてもより抽象的なイメージとなった。そして「孤島生活」の前に彼は深い眠りに入り込んで行く。でも、どうしてなのか。そのことを理解するにはいずれにせよもう少し時間がかかりそうだ。
『岸辺のない海』のなかで彼が想起する「複数の彼女たち」。一人の男を一緒につけまわした少女や駅前の喫茶店で待ち続けた彼女、駅で3年ぶりに出会った彼女、どしゃぶりの雨の中高原の町までドライブした彼女、よその男から寝取った彼女、そして最後に昼の公園で話している彼女。こうして何人もの(無数の)彼女について小説家の「ぼく」は書きつづけるだろう。そこでは、彼女の数ほど「ぼく」も存在するだろう。しかし、こうして書くことを遅延し続ける彼の書くことのはじまりの「はじまり」に〈原初の彼女〉が彼方の消失点として存在している。いずれにせよ、その中心の不在と複数の存在によって構成された星座の配置が当時の作家にとってなにか好ましいものではなかったために、このような変更が行われたのであろう。

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2009/9/1
富岡港から国道を南下することおよそ20km、先の崎津の天主堂の手前5kにその天主堂はあった。トンネルを抜けると谷沿いに地形が開け、右手の集落の背後,小高い丘の上にすっくと白亜の天主堂が建っていた。快晴の空の下その建物は白く輝いていた。大江の集落はその天主堂の足下にひざまずく信徒のように落ち着いた佇まいを見せていた。カーブのアプローチの坂道を上っていくにつれ、その建物の存在感と美しさが増していく。
駐車場で車を降りて建物を仰ぎ見れば、その天主堂は太陽を背に受けて後光を発するようだ。とても眩しい。堂までの小径の周囲は手入れも行き届いて色とりどりの草花が植えられ、この堂が人々から愛されていることがわかる。
天草では徳川の禁教時代にも隠れキリシタンの村人たちによって信仰が受け継がれてきたが、明治になり禁制が解かれて再び布教が行われるようになった。この天主堂は明治18年に25歳で宣教師としてこの地を訪れたフランス人の神父が私費を投じて建てたものだという。
崎津の天主堂が水辺の石造りの重厚なゴシック様式であるのと対照的に、ここ大江の天主堂は木造白漆喰のロマネスク様式。丘の上からいまにも天に向って羽ばたきそうな軽やかなイメージの建物である。ステンドグラスや薔薇窓から光が射す室内が非常に明るくて美しい。堂内は写真撮影禁止なので紹介できないのが残念なのだが、祭壇の上に飾られた聖画や天井の装飾も非常にカラフルで愛らしく、そこにいるだけで心が浄化されるような感じを受けた。
崎津の天主堂と大江の天主堂、この二つの天主堂はどちらもたいへん素晴らしかったのだが、それらを見たこちらのタイミングもあるのだろうけれど、周囲のロケーションや建物の様式、周辺のアトモスフェアや色彩といった点で受けるイメージは全く対照的、まるで月と太陽のようだ。

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