2009/9/3
彼女は・・・僕のことを忘れつづけるだろう。ぼくは、彼女を名づけることが出来ない。名を告げることによって、ますます遠ざかり、離れられなくなってしまう存在。打ち寄せる岸辺のない海のように、彼女は果てのない波の永遠の循環であり、語ることによってしかその不在を明らかにすることの出来ない不在なのだ。そして、彼女は常にぼくの前にあらわれる。不在の指標として。それをたどっていくことの不可能な指標として。
『岸辺のない海』 9節
この前書いた『完本』と『中公版』との間の相違について、『中公版』における数節の文章の削除は、一部の文章の入れ替えにともなうものではないかと述べたのだけれど、その入れ替えの動機については作家に聞いてみないかぎりわからないだろう。
この入れ替えについてもう少し詳しく見てみよう。まず『完本』116節、河出文庫本で言うところの297頁「切手をはられ・・・」から121節「それから彼は長い眠りの中に入り込んで行った。」までが、中公版では9節20頁の後に移動されて、その前後の数節、114節・115節(294頁〜297頁)と119節(309頁〜310頁1行目)までが削除されている。
そして、『完本』89節、文庫本297頁「自分が他の子供と変わっていることに彼が気づいたのは、小学生の時だった。」から105節の途中「深く深く、哺乳動物のように丸まって眠るだけ――。」までが、中公版では26節に続く節として小説の前半部に移動されている。そして26節は67頁3行目まででそれ以降がカットされている。また、この移動に伴い、91節(229頁「彼は今や彼の分身のようにさえ思えるこの少女のことを長いことじっと見つめていた。」から始まる節)と98節前半部(251頁「行ってしまったのはぼくなのかきみなのか、」から次頁10行目「何一つとして、何も変りゃしなかったのだろう。」まで)が削除されている。
こうして文章で書くとわかり辛いのだけれど、大きな構造で見ると、小説中盤の大きなトピックスとなっている彼の「孤島生活」を挟んで、二つの数節からなるトピックスの塊が小説の前半部に繰り上げられているということになる。

この移動と削除によって、116節の「切手をはられ、彼女のもとにとどくことのない手紙」の内容が消されてわからなくなり、それを宛てた人物が誰なのかもわからなくなった。『完本』を読み進める中では、手紙の宛先は114節に語られているように、3年ぶりかで駅のホームで会った「あなた」のことと読めるだろう。この「あなた」も複数の「彼女たち」のうちの一人にすぎないのだろうけれど、幼い頃、彼がいつも一緒にいた少女であり、いまも彼にとって過去のトラウマ的な記憶とともにあり、姿を変えて彼の「孤島生活」に闖入してきた〈原初の彼女〉ではおそらくない。なぜなら彼にとって彼女は「不在の指標」でありつづけ、決して出会えず、手紙も届かない相手であろうから。
1974年版では、その手紙についての記述が冒頭に置かれることにより、その手紙の存在自体が希薄なものとなっている。その結果、その手紙の宛先についてもより抽象的なイメージとなった。そして「孤島生活」の前に彼は深い眠りに入り込んで行く。でも、どうしてなのか。そのことを理解するにはいずれにせよもう少し時間がかかりそうだ。
『岸辺のない海』のなかで彼が想起する「複数の彼女たち」。一人の男を一緒につけまわした少女や駅前の喫茶店で待ち続けた彼女、駅で3年ぶりに出会った彼女、どしゃぶりの雨の中高原の町までドライブした彼女、よその男から寝取った彼女、そして最後に昼の公園で話している彼女。こうして何人もの(無数の)彼女について小説家の「ぼく」は書きつづけるだろう。そこでは、彼女の数ほど「ぼく」も存在するだろう。しかし、こうして書くことを遅延し続ける彼の書くことのはじまりの「はじまり」に〈原初の彼女〉が彼方の消失点として存在している。いずれにせよ、その中心の不在と複数の存在によって構成された星座の配置が当時の作家にとってなにか好ましいものではなかったために、このような変更が行われたのであろう。

0
1 | 《前のページ | 次のページ》