2009/9/8
親密で幸福に充ちた幼虫的な愛の世界というものが、かつて、存在した。“無性”ということによってその幸福と蜜の甘美が保証されていた黄金の束の間の至福のときがあった。そのいわば魅惑しつくされた無時間の原野から、どうして、わたしたちは追放されてしまうのだろう。
「夢みられた少女たち」
もちろん、書くことは昔から好きだった。読むことが好きなのと同じように。昔はもっと純粋に書くことだけで満足していた。今よりももっと快活で情熱に溢れ・・・まるで書くことだけで生きていた黄金の幼年期。至福の王国で甘美な白昼夢を生きていたそのころ、いつもぼくはあなたと一緒だった。というより、ぼくはあなたであり、あなたはぼくであり、そんな未分化な幼虫のように、ぼくたちはつがいで生暖かい繭の中ずっとまどろんでいたのだった。
いつのころからだったろう、そんな二人の完結した円のような関係に亀裂が生じたのは。それ以来、ぼくはぼくでありぼくでしかなく、あなたはあなたになった。それがいつのことだったのか、ほんとうはよく憶えている。じりじりと焼けるような太陽の下、あなたは一人っきりで崖に立って海を見ていた。銀青色の光芒に海は包まれ、太陽は世界を覆いながら風を孕んで音をたてる巨大な透明な帆布のように海の上をわたっていた。そのとき、あなたはあなたであるということにはっきりと目覚め、またぼくを理解したんだ。そしてあなたがぼくと同じことも理解した。ぼくの眼を通してあなたは自分自身を見たのだろう。ぼくたちはこれまでのように無邪気で無意識な二人ではいられなくなった。
そのころからだろうか。ぼくにとって書くことが苦痛になったのは。それでもこうして書かずにいられないのだけれど、こんな状態から抜け出せないことは、実際苦痛以外のなにものでもない。昔はちがった。物語は次から次へ湧き出てきた。怪鳥にさらわれる姫を救い出す王子やにやにや笑う猫の話、恐怖の幽霊船や海賊がでてくる冒険物語、それは幼年期の王国の神々の物語。物語をひとつ読んださきからまた別の物語を書きはじめる幸福な日々。それがある日突然そうじゃなくなった。
そんなことは恥ずかしい行為だと、そんな観念にぼくはある日とらわれたんだ。これまでのつくりものの物語ではなく、自分のことについて書きはじめたとき、《ぼく》という一人称を使って書き始めた時、ぼくはおそれと驚きで身体が震えた。《ぼく》と書きはじめること――王国と神々の黄金時代の黄昏がはじまろうとしていた。それ以来、ぼくは物語を書くことをやめ、こうして日記を書いている。あるいは宛先のない手紙を。
一方で、常識ある普通の人々はみな、幻のような幼年期から軽々と脱出し、やがて書くことをやめていく。ぼくの回りの人たちもみなそうだった。みなそれぞれ自分の生活を見つけて、そのなかでときどき旅立つことはあったとしても、いずれはそこへ帰還していった。帰っていく場所があるということが大人の証明なのさ。彼らはみな書くことをやめていった。ノートは閉じられ秘密の部屋には鍵がかけられた。みな一人前の大人だから、書くことにいつまでもかまけてなどいられない。
あなたは特別な人だったけれど、もう子供じゃない。あなたはぼくを置き去りにしたままその一歩を踏み出したんだろう。あなたは大洋に漕ぎ出していく女船乗り。もはやあなたの視線は海の先の水平線が空と交わる辺りを見つめつづけたまま、決して出発の地をふり返ろうとはしない。海の上で、青一色の空虚な世界で、あなたの視線は無限の空間を見つめつづけたあまり、まるで宇宙の星を眺めているように、出発の土地への距離感を失ってしまいます。彼方を注視する視線は、それを支える肉体をすでに持ちません。
こうして帰還のない航海へと旅立っていたあなた。あなたからはもうぼくが見えるはずもない。ぼくができることといえば、こうして書きつづけることだけ。それは日記のようでもあり手紙のようでもあり、何事もない日常の、何事もないがゆえの備忘録のようなもの。何も待つことなどないし、忘れるに足ることなど何もないから、思い出すこともない。わたしという書きつづける生身の肉体があるだけ。そんな単調なやり方で、ぼくもぼくのやり方で海へと、沖のほうへと漕ぎ出したというわけさ。帰航が目的とはならない船出、ただ航海日誌を書くための航海。そうしてずいぶん時間もたって、いったいどれくらいの季節がめぐりめぐったのかわからないほどだ。今はもう、無意味な人生の灰色の煮こごりのような疲れや老いも始まり、やがてくる終わりを待ちながら、重い無様な肉体をかかえて生きているような気分だけど、ぼくは決して書くことをやめたりしないだろう。なぜなら<断片>に終わりがないように、ぼくの航海記にも終わりはないから。かぎりない不快さと苦痛の水平線の彼方に終りは飲みこまれる・・・
twice told tales
われら愛によって生き、われら愛の黄金によって充たされ、天の音楽星に充ち充てり。
星に海によって厳重にその内部の地殻を覆われた水球であり、目路のかぎり海また海。
波打ち寄せる岸辺のない球体の海の天空燃える巨星輝き溶けこみ
果てることなき黄金と永遠が赤道をめぐる
「少年少女のための宇宙論」

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