2010/1/23
久しぶりに深夜TVで放送されていた岩井俊二の『LOVE LETTER』を見る。前に見たのは10年以上も昔のことだけれど、そんな時の隔たりを超えて見るものを瑞々しい気持ちにさせてくれる作品。『サヨナライツカ』の公開にあわせた放送なのだろうけれど、この映画、春になる前の最も寒さが厳しい今頃の季節に見るのが一番いい。見終わるころにはもう春の日差しが窓から差し込んでくるような気持ちになれる。以前もここに書いたのだけれど、また少し書きたくなった。

舞台は神戸と小樽で雪のシーンが多いのだけれど、時々明るい光に画面が覆われる。優しく澄んだその光は恩寵の光でもある。二つの離れた場所からそれぞれ発信された「手紙」は、いつのまにか二つの離れた時を結び合わせる。それは過去のある時と今というただリニアな時間軸上の二点というだけではなく、死線に隔てられたものであるだけに深遠となる。画面はそこそこ明るく映像も美しいので前回見た時はあまり感じなかったのだが、この映画は死の気配に満ちている。
冒頭、雪の中にオフィーリアのように横たわる中山美穂扮する渡辺博子、そのシーンは彼女が死と近しいことを象徴的に示している。最初彼女は息をしていない。そして息を吹き返す。恋人の藤井樹を山で亡くして以来、彼女自身もその死のなかで喪に服していたのだ。
小樽の中山美穂扮する藤井樹も最初はベッドに横たわるシーンから始まり、彼女の口から出る悪い咳はやみそうもない。そして彼女も父親の死の記憶を引き摺りながら生きている。父親の葬式の日に雪道の上を滑っていった先で彼女が見つけた氷に閉ざされたトンボの亡き骸は、彼女自身であり、雪の中の渡辺博子であり、雪山で眠りつづける藤井樹でもあるだろう。
映画は、ひと言でいえば、死線をさまようこの二人の救済の物語となる。二人を救ってくれるものが手紙=Love Letterである。それは本来の宛先ではないところに届けられたものなのだけれど、宛先が違っていたからこそ、それは本来以上の役割を担うこととなる。手紙はそこでは恩寵となる。でも「手紙」というものはそもそも間違って届けられるものではなかったろうか。そのような「郵便的不安」の世界の寓話としてもこの映画は受け取れるだろう。
決して出会わない二人が決して出会えない一人を介して「手紙」という形式で対話を行う。二人は不在の一人の記憶や思い出を共有するというのではない。一人の不在が第三の審級、レヴィナスの「第三者」となって他人である二人の対話と交換を促すのだ。
そして最後に、不在の一人からの「手紙」が一番遅れて到達するだろう。それは、渡辺博子が夜明けの雪山で呼びかけというかたちで彼へ届けた「手紙」を受けてのものとならなければならない。「お元気ですか、私は元気です」と、彼女が息を吹き返した後で。同時に藤井樹も病院のベッドで息を吹き返すことになるだろう。
最後に藤井樹が手にするのは死線を越えて彼岸から届けられた手紙であり、恩寵そのものである。身近にいた間、彼はいつも間違った方法で手紙を届けようとして、とうとうきっかけを失ってしまい長い間封印されてきた手紙が、「第三者」を介していまようやく本来の宛先に届けられる。それを受け取った藤井樹はようやく今、本来のメッセージを受け取る。泣いていいのか笑っていいのかわからず、ただ高鳴る胸とともに命の蘇生のような息づかいの中で、長い冬から醒めた彼女の心の雪解けが今始まる。春はもうすぐだ。

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2010/1/16
部屋が新しくなったことと直接関係はないのだが、年末にオーディオ・アンプを購入した。
それまでのアンプはYAMAHAのA-3という型で、買ったのは中学生の頃だから、もうかれこれ30年以上も鳴らし続けてきたことになるが、このところどうもヴォリューム周辺の具合がよくなく近々買い換えたいと思っていた。それ以外、スピーカーはDIATONEのDS-35B、レコード・プレイヤーはもうほとんど使うことがなくなったがDENONのDP-1200で、この二つを買ったのもアンプと同時期だけれどまだ健在だ。CDプレイヤーは10年以上も前に壊れて買い替えはしておらず、以来、CDを聴くときはPanasonicのポータブルCDプレイヤーをラインでアンプにつないで聴いていた。しかし、iPodユーザーになったこの5年間は、CDで音楽を聴くことも少なくなっていた。
そして、このたび購入したのがONKYOのレシーバーCR-D2。人気のCRシリーズの型落ちで値頃感もよく、デジタル・オーディオ・アンプにCDとチューナーが付いていてコンパクトにまとまっている。さらに、iPod用のドックも購入して部屋の音響システムが大きく入れ替わった。
実際に新しいシステムでCDを鳴らしてみれば、その音が格段に良くなって驚いた。まるでスピーカーを覆っていた埃まみれの布をとっぱらったように、音の解像度が高まってひとつひとつの音が鮮やかになり高音が澄んでいる。30年前のご老体のスピーカーが瑞々しく若返ったようで、逆に本来持っていたスピーカーの能力をこれまではずっと眠らせていたことに気づいた次第。
アンプの性格上、少し温かみにかける音ではあるが、冬の今の時期、冷涼な空気と透明感のある陽光の中で聴く音としては悪くない。ECM系のジャズやクラウス・シュルツェなどの電子音楽を鳴らせば、どこまでも透みわたった音の風景が広がる。
まずは、手持ちのCD音源をこのシステムでもう一度聴きなおすのが非常に楽しみ。クラシックもこのシステムだと結構いけるのではないかと思うと、未知の領域にも手を出したくなってくる。ドックを介してのiPodの音もMP3音源としてはこれで十分と思えるくらいで問題ない。
休日、部屋にいるときには必ずバックに音楽が鳴っているという性格上、この音響システムの変更に関しては、部屋替えによる環境変化と相俟って、暮らしの質がちょっとグレードアップした感じで予想以上に満足度が高い結果となった。新鮮な空気と優しい自然光に加えて豊かな音に包まれて過ごすひとときがこれからいっそう密かな愉しみとなるだろう。


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2010/1/2
昨日、ささやかな出来事として、部屋を引っ越したことについて書いたが、実際、環境が変わり、日々の生活スタイルに変化が生じるということの心身へのインパクトは大きなものだ。
そもそも、部屋を動かすことになった背景には、家族のライフスタイルと家屋構造との間にギャップが生じたということがあるだろう。それが一つの出来事をきっかけに今回の移動となったのだが、少し大げさな言い方になるが、それは家族のライフステージの転換を示す出来事だ。
昨年暮れに、母校の新装なった研究室の卒論の公開指導を覘く機会があり、そこでも何人かの学生が、家族の成長の各段階における住まい方とコミュニケーションとの関係、ライフステージとその器となる住居との関係について論じていて、今もこうしたテーマに関心を持つ学生がいるんだと思ったのだけれど、家族や社会のコミュニケーション装置としての住居のあり方というのは永遠のテーマなのかもしれない。
生命体というものは、外界のものを取り入れ、余分なものを吐き出し、成長とともに衰退しながら日々新陳代謝を繰り返していくものである。それは、家族や会社、地域やサークルなどの社会組織などにもあてはまる事柄だ。したがって、そのような組織が内外からの大きな変動にみまわれたときに、現在の殻を脱皮するようにこれまでの器やシステムを変更しながら新しいステージに対応していくことが要求される。しかし、これはなかなか難しいことでもあり、それがうまくいかなかった場合、組織や個体は失調をきたし、崩壊に至ることにもなるだろう。
少し前から、このようなことが、ささいなことからマクロな大状況にいたるまで、身の回りから地球スケールのあらゆるレベルで起きているような感覚にとらわれている。家族しかり、職場しかり、地域や学校しかり、自治体や国、世界経済においても、何か大きなパラダイム・シフトの過程にあるような印象がぬぐえない。
それは、個人の死であるとか、引退だとか、政権交代だとか、リストラだとか、合併・分割だとか、閉鎖されたWEBだとか、そういった様々な局面に遭遇することが多かったからでもあるだろう。とはいっても、生活環境がドラスティックに変るわけではなく、着実な変革というよりはなし崩し的にだめなものはだめになっていくという感じである。
ともかく身の回りのシステムの一部が変換されたこと、そのようなことがらの一つの象徴として、今の新しい部屋にいるという感覚にとらわれながら、自分のことは一年後さえどうなっているのかわからないのだけれど、さて、新しく始まるこの年をどのようなものにしていけばよいのだろうかと思案している。

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2010/1/1
この場所に言葉をおくことも久しぶりに、年明けを迎えた。
少し前に、昨年は政権交代や何だかんだと入れ替り“change”の年で、
自分の身辺も様々に入れ替わっていると書いた。
ささやかだけれど一番大きな出来事としては、家の中で部屋が入れ替わったことだろうか。
もといた部屋を息子に譲り、こちらは新しく増築した部屋に移った。
以前より平面は狭くなったが、小さなロフトも付いて天井が高くなった。
北と南に開口部があり昼間は非常に明るく、朝方はロフトからの朝陽で天井が眩しい。
夜はロフトの開口から家のフラットルーフの屋上に出られるので、
空気の澄んだ今の季節は星空が美しい。
北側は団地のオープンスペースに面していて、窓から見える緑が多く、風もよく通る。
この窓の外の緑に一年の季節の移り変わりを感じながら、
少しでも多くこの場所に言葉を留めおくことができればと思う、そんな年の始まり。


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