2010/2/7
このところ読むものが、偶然、対談や往復書簡集ばかりだ。読んだ順番に連ねれば下の通り。
・蓮実重彦と浅田彰の対談、「「空白の時代」以後の20年」中央公論1月号
・大岡昇平と埴谷雄高の対談本、『二つの同時代史』岩波現代文庫
・水村美苗と辻邦生の往復書簡集、『手紙、栞を添えて』ちくま文庫
・内田樹と平川克美の往復書簡集、『東京ファイティングキッズ・リターン』
最初の蓮見重彦と浅田彰の対談、相変わらずな二人で、それほど刺激的でもなく新味にも欠ける対話なのだけれど、Twitterなどを引き合いに出して、ウェブ上のコミュニケーションのあり方に対して浅田彰が、あんなレスポンスのやりとりなどくだらないと言いながら、彼のスタンスを以下のように述べていたのが面白かった。
そういう小文字の他者からのレスポンスは一週間後にはもはやなかったに等しいでしょう。即時的なレスポンスのやりとりがコミュニケーションだと誤った神話に惑わされてはいけない。
ぼくは基本的に「投瓶通信」モデルしかないと思っています。手紙を瓶に入れて海に流して、九割方が失われるであろうが、一割は誰かが拾ってくれるかもしれない、と。
ネットのような配達システムが支配的になったために、「この私の発見を届けることが大事だ」ということになった。しかし、僕は大事なのは発見であって、伝達への誘惑は捨てたほうがいいと思います。
これを読んだとき、「投瓶通信」というのは、まさしくこのブログのようなものだなと思ったのだった。ただ、誰かが一割も拾って読んでくれているなどとは思っていない。ここで書いたことが読み手に届くことなど、小惑星同士がぶつかるくらいの確立だろう。といいながら、「海に投げ入れられた壜はいつも戻ってくる。」というモーリス・ブランショの言葉にいまだ魅せられてもいるのだけれど。それに、手紙の届け先が「小文字の他者」だとして、何も悪いことはない。
マネやセザンヌは何かを描いたのではなく、描くことで絵画的な表彰の限界をきわだたせた。フローベールやマラルメも何かを書いたのではなく、書くことで言語的表象の限界をきわだたせた。つまり、彼らは表象の不可能性を描き、書いたのですが、それは彼らが相対的に「聡明」だったからではなく、「愚鈍」だったからこそできたのです。
書くことに対して極端に倫理的な蓮実重彦もこのようなシニカルな表現で、なぜ人は簡単に書いてしまうのだろうかと問う。浅田彰の「投瓶通信」を十九世紀的なものといいながら、モダニズムの夢の残滓のような話を引いてくるところなど、個人的な趣味で結構好きなところではあるが、ウェブ上の対話者にとって「聡明」や「愚鈍」がそれほど意味を持つ指標とはならないだろう。おそらくTwitterなどは、もっと即時的・即物的な愉しみのツールなのだろう。
わたし自身今のところTwitterをやろうとは思わない。Twitterの即時性や記名性の高さが、ちょっと私には不自由で忙しそうな印象だ。一方で、これをより有効なツールとして機能的に活用することは可能なのだろうし、現に一部の人々は政治やマーケティングへの利用を真剣に考えているようだ。またこのツールは社会的なセーフティ・ネットとして結構有効に機能するのかもしれない。そういった機能的な面以外で、情報の象徴交換的な意味合いにおいてそれほど魅力を感じないというのが正直なところだ。
わたしには、やはりこのブログくらいがちょうどいい。これくらいの過疎さと時間のゆるやかさ、遅れが一番合っているのだ。あくまでも日記と手紙という形式の中で、誰もいない虚空に向ってつぶやき続けている。それでも、時折、音連れる、コメントや拍手によって、これらの言葉が誰かには届いているような気配もあって、それが少し楽しい。
このシステムの性格上、拍手コメントなどは気づかないことが多い。知らない間に誰かが過去の記事に拍手など入れてくれるのだけれど、レスポンスのしようもなく、いつも不義理しています。書く内容も応答もいつも過度に遅れっぱなしで申し訳ありませんが、そのような他者に対してここに感謝の意を表します、ありがとう。

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