2009/5/9
あなたのこと 思い出すたび
夜空の星が 近くに見える
遠い町に 離れていても
僕らの夢は 今夜も一つ
ああ 君の声が 風の中に 混じっている
そんな夜さ そんな夜さ いつまでも
暗い夜さ 暗い夜さ いつだって
わたしのこと 思い出してね
夜空の星よ 届けて欲しい
ああ 遠い声が 風の中に 混じっている
そんな夜さ そんな夜さ 今夜も
ああ 遠い声が 風の中に 混じっている
そんな夜さ、そんな夜さ いつだって
暗い夜さ 暗い夜さ いつまでも
暗い夜さ 暗い夜さ いつまでも
暗い夜さ 暗い夜さ いつまでも

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2007/5/29
「私たちの人生にはたくさんの困難がある。
お金とか服とか車とか、形あるものに心のよりどころを求めようとするが、
そういうものが満たしてくれるのは、ほんの一部。
目に見えないもの――誰かの思いとか、光とか風とか、
亡くなった人の面影とか――
私たちはそういうものに心の支えを見つけたときに、
たった一人でも立っていられる、
そんな生き物なのだと思います。」
河瀬直美

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2007/1/21
間章と書いてアイダアキラ、32歳で夭折した音楽批評家。その文章はジャズとロックを縦横無尽に横断し、鋭利な観念で切り裂く。
なんと、去年の12月12日、彼の死後28年目にしての追悼本が出版されていた。
『間章クロニクル』
これは、ひとつの驚きである。仕掛人が、映画『ユリイカ』の青山真治だというも驚きだ。まあ、彼の場合、映画にアルバート・アイラーを使ったり、クリス・カトラーのドキュメンタリーを撮ったりしているくらいだから、なんとなくわかるような気もする。
この本、彼が撮った『AA』という6時間半にも及ぶ間章のドキュメンタリー映画のテクスト版の記録のような体裁をとっているが、間章の単行本未収録のテクストが読めるのが嬉しい。
なかでも、インパクトの強い文章が、これも間と同じ年の9月に29歳の若さで夭折した天才アルト・サックス奏者阿部薫の死に際しての追悼文、「〈なしくずしの死〉への後書」だ。出会うべくして出合ったこの二人の結びつきについては、その死のずっと後に彼らのことを知った身としては、想像の域を出ないのだが、あの時代の空気の中で彼らは邂逅し、それぞれが放つ言葉や音によって火花を散らせながら、その存在は一瞬の強烈な光芒を放ちつつ、彗星のようにこの世界から光速で飛び去っていったといったところだろうか。
それにしても、またしてもここにブランショの影がある。
〈垂直に立ちつくし〉〈無残な孤独〉を背負いながら、極限のパフォーマンスに身を投じ続けた孤高のプレーヤー阿部を想起するなかで引き寄せられるのが、ブランショの〈友愛〉である。ブランショの『友愛のために』は、間が74年にパリに住んでいた頃、書店で見つけて感銘を受けた書物だという。闘う者には世俗の友情はない、もしあるとするなら「闘う者同士、眼差しを維持し会うお互いの永遠の距離と彼方の吃水線においてお互いの在りかを敬愛するという意味での「友愛」しかありえない」と間は書いている。
手元にある間章の本は『非時と廃墟そして鏡』一冊だけなのだが、『時代の未明から来るべきものへ』も是非読んでみたいところだ。そして、久しぶりに阿部薫の音を聞いている。『彗星パルティータ』、この音は冬の荒野にこそ似つかわしい。
それにしても、宮川淳といい、間章といい、死後30年ほども経ったという今この時に、まるで亡霊のようにわたしたちの前にその存在を現すというのは。これは一体どうしたことなのだろうか。


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2007/1/13
先日、本屋で『水声通信』という詩評誌のバックナンバーが眼についたので眺めていたら、去年の10月号が「宮川淳、三十年の後に」と題され、宮川淳の特集が組まれていた。そうか、宮川淳が亡くなってもはや30年も経つのかと、信じられない気持ちになる。僕が彼の文章に初めて出会ったとき、彼はすでにいなかった。それからも20年は経つだろう。でも、たまに彼の書物を取り出してはイマージュの世界に下りていく。そのときの甘美さは今も変わらない。彼の言葉は今も、その世界の中の鏡の表面で煌きと静謐さを湛えながら現前しているではないか。
水声社という出版社、今も宮川淳の単行本のほとんどを出版し続けている奇特な出版社だなと思ったら、元の書肆風の薔薇だったのですね。『鏡・空間・イマージュ』なんて1967年の出版だから、かれこれ40年だ。それが、かわらず本屋にあるというのは、ひょっとして奇跡的なことかもしれない。豊崎光一の本も同じシリーズで何冊か出ている。
特集記事で何が良かったかといえば、映画監督の吉田喜重のインタビュー、「宮川淳の思い出」でした。彼が宮川淳と仏文の同級生で学生時代に同じ文学を志していたとは知りませんでした。このインタビューでの吉田喜重の語り口が何とも雰囲気がよくて、この人文章も上手なんだろうなと思う。
(宮川淳の)早熟な知が可能であったのは、宮川氏が触れたカノン、規範、公理に沿って処理し、それ以外のものを徹底的に排除したからでしょう。そこにはイデーだけが露に示され、それが限りなく反復されながら、あたかも詩のように歌われる。だが、カノンの悲しみもあるのです。収斂してゆく先の公理があらかじめわかってしまえば、いま生きている自分は何か、それもわかってしまう以上、それは自らの死を意味している。
宮川淳という詩人=批評家は、余計な文章をどんどんそぎ落とし、果ては、言葉が純粋なイマージュのきらめきに結晶化してしまったかのような言葉を紡ぐひとだった。彼はブランショに大きな影響を受けていた。またしてもブランショなのだ。作家の死。紡がれたテクストにあらかじめ刻印された不在の存在...そのような宮川淳の批評家としてのあり方に寄り添うように、吉田喜重も自らの映画人としてのあり方を語るだろう。
映画監督を志望する人の多くは、自分につくりたい映画があるからでしょう。そうした夢の映画は、幼い頃に見た映画、あるいは学生時代に影響を受けたフィルムだったりするでしょうが、それが私にはなかった。こういう映画をつくりたいという、夢の映画がはじめから欠如していた。このはじめから隠されている映画、×印の付けられたフィルムの、その×印をいかに取り除くか、それがわたしの映画論にあるのでしょうが、宮川氏の美術評論にも、同様な×印がマークされており、それをいかに消し去るかだったように思われてならない。
×印を取り除くこと、それは、「不在そのものの現前」、「存在しないことの不可能性」に向き合うことにほかならないだろう。
それは〈ない〉という不在そのものの現前である。芸術は、もはや可能性としては成立しえない。しかも、それは芸術の終末を意味しないのだ。逆に芸術は、いよいよその影をあらわす。
影――もはや存在することの可能性ではなく、存在しないことの不可能性。
『鏡・空間・イマージュ』
芸術のところには、他のあらゆる事象があてはまるだろう。世界、書物、作品、愛、そしてあなたとわたし...
以前、 この場所で、宮川淳と清岡卓行のことを書いてから、もう2年以上になる。そういえば、清岡卓行も去年亡くなったのだった。今は鏡の向こう側で宮川淳と語らっているのだろうか。

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2006/9/25
21世紀になって少し経って、日本ではこのところ、皇室に子どもが生まれ、首相も新しくなって、巷では景気が良くなっているなどと言われ、皆さんようやく90年代のバブル以降の経済の低迷を脱したかのような気分のようだけれど、こちらの生活はいっこうに良くなる兆しもなく、将来に対しては不安要因ばかりで、ことわたしのまわりだけがそうなのか、なにもいいことはありません。小泉改革の行く末に聞こえてくるのは、格差社会だとか社会の階層化だとかいった言葉で、新しい首相は「美しい日本」などとおっしゃっているようですが、いったいこの社会はどんな方向に進んでいくのでしょうか。わたしとしては「美しい日本のわたし」というよりは「どこまでも曖昧な日本のわたし」といったところです。
先頃、といってももう2ヶ月くらい前になりますが、社会学者の鶴見和子さんがお亡くなりになりました。88歳ということで相当なお歳だったのですが、この10年ほどは病との闘いのなかでの執筆活動が主でしたから、研究活動としてはまだまだやりたいことがおありだったでしょう。彼女の著作はほんの数冊しか読んではいませんが、彼女のおかげで南方熊楠の偉大さを知ることもできましたし、彼女の柳田民俗学の読み解きも刺激的でした。また、近代文明へのクリティカルな視座からの水俣やアジアの文化への眼差しやエコロジカルな社会論は、日本人であるわたしたちにはこれからも必ず必要なものと思われ、今後の議論の豊富化が待たれるところでした。また、彼女はで歌人でもあり、女性であり、単独者でした。結婚もしなければ子どもも生みはしなかったと思いますが、自分がひとりの女性であるということに常に自覚的であったように感じます。
以前このブログにも、わたしは彼女の共生の概念を書いたことがありました。それはうろ覚えで書いたものだったので、正確ではありませんでした。今日、彼女の著作をぱらぱらとめくっていると、ちょうどそのテクストにぶつかったので、もう一度書き記しておきたいと思います。
1996年の出版というとちょうど今から10年前になりますが、『内発的発展論の展開』という書物のあとがきにそれは見つかりました。そこで彼女は、この本の到達点として『アニミズムの倫理と内発的発展論』を展開したいのだと書いています。ここでいうアニミズムの倫理というのが、平たくいえば環境倫理なのですが、それは「価値としての共生」であり、生きとし生けるものの「相互共生」であって、それは次の4つの柱からなると書いたのでした。
相互の利益となるような緊密で恒久的な関係としての
1 女と男の共生(家族)
2 人間と人間以外の自然のものとの共生
3 異なる文化を持った人々の国境内、国境を越えての共生
4 今生きているもの、死んだもの、これから生まれてくるもの、世代間共生
とにかく、彼女はわたしにとっては、戦後日本のリベラリズムの最良の部分を象徴する女性でした。合掌。

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