忘却の川へ流れ去る諸々をしばしこの岸辺に繋ぎとめて..日記についての日記、もしくは不在の人への手紙。
2009/8/1
それが人の心を動かすのは、つまるところ、その芸がまったく何の役にも立たないからだ。
我々みんなの心の底にひそむ、美に憧れる衝動を、これほどはっきりと浮かび上がらせる芸術はほかにないように思う。綱の上で歩く男を見るとき、我々の一部も彼とともに空中にあるのだ。
ほかの芸術の演技とは違って、綱渡りの体験は見る者にじかに伝わってくる。何ものにも媒介されず、簡潔で、説明はまったく不要。それ自体が芸術なのだ。それはひとつの生命を、この上なくむき出しに描きだす。ここに何か美しさがあるとすれば、それは、我々が自分たちの裡に感じる美ゆえだ。
「On the High Wire/綱の上で」 ポール・オースター 1982
ポール・オースターもオマージュを捧げた綱渡りの大道芸人、フィリップ・プティのドキュメンタリー映画が公開されることを数週間前の新聞記事で知って、これは見たいと思っていた「マン・オン・ワイアー」を今日見ることができた。
1974年8月7日、ニューヨークのワールド・トレード・センタービルのツイン・タワーの屋上に綱を張って地上411メートルの空中で綱渡りを演じた男、フィリップ・プティ。彼の証言とプロジェクトに協力した友人たちの証言や当時の記録、再現フィルムも加えて、彼のこの一世一代のパフォーマンス=違法行為が、まるで犯罪サスペンスのようなフィルムになった。
目的は、空中を歩く単なる綱渡り、しかし、それがノートル・ダムの尖塔の間やシドニーのハーバー・ブリッジの橋脚の間、WTCのツイン・タワーの間となれば、無謀ともいえる困難なトライアルであるゆえその行為は聖性を帯びたものとなる。その瞬間、ひとつの芸が何か神々しいものに昇華されるのだ。それはポール・オースターも書くように、むき出しの美というものなのかも知れない。
しかし、大きなプロジェクトを成し遂げるには不屈の精神と周到な準備、そして友情で結ばれた協力者同志の緊密なチームワークが欠かせない。そのアートは友情にも支えられていたのだ。映画では彼の協力者となった友人たちへの丹念なインタビューが行われていて、そのプロジェクトを巡る人々の心理劇の側面も浮き彫りにされている。
いまから未知の領域に踏み出すという高揚、いまその渦中にあることの忘我、何ともいえない浮遊感、地上411mの一本の綱の上で、彼は微笑み、かもめと会話を交わし、神に祈りを奉げる。映画はただスティル写真による場面のシークエンスを映し出し、バックにはサティの静かな音楽が流れる。涙が出そうなほどの美しい光景はただ呆然と眺めるしかない。
この綱渡りは裁判沙汰となるが結局はニューヨーク市民に熱狂的に受け入れられた。しかし、あまりにも大きな行為の達成は、達成感とともに深い喪失感を伴うものなのだろう。その後もニューヨークに留まることになるフィリップには、ともに命をかけた親友や恋人との離別が待っていた。ひとつの物語が終わり、彼らの各々の心の底でも何かが変ってしまった。映画の最後のほう、恋人だったアニーや彼の一番の理解者であり協力者だった幼馴染のジャン=ルイへのインタビューが涙をさそう。
この映画は、あえて9.11には触れていない。しかしこの映画を見る誰もがそれを意識せざるをえないだろう。ポール・オースターは2001年9月11日の覚書でWTCの敷地から立ち上る煙を眺めながらフィリップ・プティのことを考えていたという。わたしたちはこの映画を見ながら9.11のWTCがつねに意識に浮かび上がってくるだろう。それをどう結びつけるか、また結び付けないかは私たち次第だ。私にはこの映画が今は亡きWTCへの最良のレクイエムになっていると思えるのだが。

0
2009/7/11
ショーン・ペン監督・脚本の『イントゥ・ザ・ワイルド』をDVDで見る。
この映画が封切られたとき、原作のドキュメンタリーは随分前に翻訳されたときに読んでいたので、わたしが気になったことは、どうしてこの出来事をショーン・ペンが今頃映画にしようと思ったのかということ、そして、事実の映画化に際して何が付け加えられ、何が削られているのか、またそのことによってどのような物語になったのかの2点だった。

最初の点については、原作が出版されて読んで深く感銘を受けたショーン・ペンがずっと映画化権を獲得しようとしていて、それに10年かかったということだ。2点目については、やはりショーン・ペンだけあって、映画作品としては素晴らしい出来だった。しかし、事実を題材とした作品の例に漏れず、この作品世界のなかへ全面的には感情移入できなかったことも確かである。事実としてのリアルな重みと映画作品としての説得力というのはまた違う話だからだ。とはいっても、この映画はいいところまで迫っていると思う。
主人公やそれをとりまく人物の造形が良いので、この映画が魅力的なものになっていることは確かだろう。とくに主人公クリスについてはできるだけ事実に忠実に、そのうえでより魅力的に描こうとしたショーン・ペンの気持ちが汲み取れる。そして、実際、クリスは十分に魅力的な青年だったことが、今回映画を見た上で再び原作のドキュメンタリーを読んでみて再認識された。彼が人並み以上の能力や魅力を持っていたことは確かで、放浪の先々で逢った者それぞれに強い印象を残していたのである。
ショーン・ペンも22歳で荒野の真っ只中で死んでいったこの少年に対して少なからぬ魅力を感じ、他人事で済まされないものを感じたのではなかったか。それは原作者のジョン・クラカワーも同じだった。登山家である作者も、この青年の記述に際しては単に客観的であることはできなかったという。クリスという存在に迫ることは、自身の心の内を見つめることにもなっただろう。どうして彼はあちら側に逝ってしまったのか、どうして自分はこちら側に踏みとどまることができたのか。
おそらく、両者を隔てるものは、その折々でのたまたまの幸運や不運、つまりは偶然というものなのかも知れない。ただ、自分の生活圏から遠く離れれば離れるほど、それらの偶然は取り返しのつかない必然になる。大学では歴史学や人類学などを学び、優秀な成績を納め、エマソンやソローの哲学や自然学、大自然でのサヴァイヴァルへの探求も彼はおそらく怠りなかっただろう。しかし、家族を含む人間社会からの離脱や極端な単独行にラディカルに突き進んだあまり、結局そのところで足下をすくわれた結果となってしまったことが返すがえすも残念である。
お金や身分証などの社会財を含めて彼が必要と思う以外の道具を全て捨て去り、大自然に分け入っていった彼自身の心境は、中世の修道僧のごとく宗教的な求道者のようなものだったのかもしれない。極限状態でおのれをとことん突き詰め、究極の真理とその先の越えられない一線を確かめた上で、彼はこちら側に戻って来るつもりだったのだろう。
そのような極限状態で知りえた真実、それは映画では“幸福が真実になるのはそれを分かち合ったときだけである”という彼の一文で伝えられる。それは彼自身がまさにその時拠りどころとしていた書物のなかの一冊、レフ・トルストイの『家庭の幸福』から掬い上げた観念であり、その書物の余白に書き込まれた一文だった。そして、彼は再び人々と分かち合うためにこちら側に戻ってこようとした。しかし、すでに退路は絶たれていた。大いなる自然が彼に罠を仕掛けたのだ。
大いなる自然の罠といっても、現地についてある程度正確な知識や情報を事前に得ていたならば、それは適切に回避できる類のものであったと原作の作者は書いている。現地のもう少し詳細な地図を持っていれば、彼の行く先を阻んだ川の少し上流には、河川管理用の川を渡るゴンドラがあったし、彼のいたバスの南5kmの地点には国立公園の管理小屋もあったから、なんとか彼はこちら側にもどってこれたろうと。つまり、彼は、自然の罠にかかったというよりは、社会に対する彼自身の観念の罠に足下をすくわれたというほうが正確だ。人や社会に頼らず単独で、という観念の罠に。人によってはそれを、単なる若気の至りといって切り捨てることも可能だろう。彼の事故の発覚後、新聞記事には彼に対する賛否両論が渦巻いたし、映画への評価においても、それは多少あるかも知れない。
ショーン・ペンとしては、そういったこともふまえたうえで、それでも映画にしたかったということなのだろう。事実関係でいえば、映画は意外と原作のドキュメンタリーに忠実だった。ただ、彼の直接の致命傷となった毒草を彼がどうして間違って食べてしまったのかについて、映画的に説明しやすい理由になっていることが原作と違う点である。彼が毒草を食べたことは想像の域を出ないし、間違った理由も原作者の仮説にすぎないのだが、後者であれば彼が間違いを回避することは非常に難しかったということになる。
彼が放浪の過程や最後の旅で何を見たのかをリ・プレゼンテートすること、彼の見たものを映画としていかに映像に視覚化するのかもショーン・ペンにとっては重要なテーマだっただろう。この映画で描かれている自然は確かに美しく雄大である。彼自身を点景として周囲の自然がスケール大きく描かれている。しかし、それが実際に彼が見ていたものか、彼が実際に何を見たのかは誰にもわからない。今際の際に映画が彼に語らせている言葉、「見てくれるだろうか、今僕が見ているものを」という言葉は、この映画を見るもの全てに語りかけている。彼の見たものを見ようとするかどうか、彼の眼差しに近づこうとするかどうか、こちらの心のあり方次第でこの映画の受け止め方も違ってくるだろう。

0
2008/10/13
週末のレイトショーで黒沢清の『トウキョウソナタ』を観ました。
映画館で見るのは『LOFT』以来です。
結論からいえば、たいへんいい作品に仕上がっています。
あいかわらずの黒沢節でエキセントリックなところも多々ありますが、
物語の締めの部分は、ここ数年の作品では今作が最もいいのでは。
万人受けするというか、多くの人に遍くわかりやすいエンディングです。
幸福な音と柔らかく静謐な情景に包まれながら
感情的にはグッと盛り上がるものもあり
そして、静かに余韻を残しながらの幕引きとなります。
キャスティングも良かったですね。
父親役の香川照之は相変わらず上手いですし、
母親役の小泉今日子も、その眼差しはとても印象深いものでした。
そして子役の井之脇海君も良かった。クレバーな印象でピアノも弾けて
多感な年頃を演じる少年役としてはちょうどいい感じでした。
脇を固める登場人物も、泥棒役の役所広司をはじめとして
ちょっと極端な人たちばかりなのですが、
それはないだろうというようなところも含めて楽しめました。
シリアスな展開の中にコミカルな要素やホラーなシーンも
多々挟み込まれて、わたしとしては厭きない演出でした。
この映画の物語のシリアスなところは、結構身につまされるものがあります。
世間的には、この1ヶ月間ほどの状況は、この映画を
笑い話にできないようなところにまできているのではないでしょうか。
監督もどこかで、東京という一つの場所の小さな一家族の問題が
グローバルな世界につながっているんだということを言ってましたが、
そういう意味では、限られた場所に走る亀裂が世界の終わりを予兆するという
極めて黒沢的な黙示録的崩壊感覚をこの映画も体現しているといえるでしょう。
しかし、この映画には黒沢作品には珍しい救済の感覚があります。
それがはっきりと提示されるのが、エンディングの部分なのですが、
それ以前にも、それは恩寵のような光として人物を照らし出します。
黒沢作品ではいつもは不気味に変化するストレンジな光が、
本作ではある種の神々しさを有するものとして到来します。
はじめは、次男が通うピアノ教室で、
そして、母親が一夜を明かした海辺の夜明けで、
最後に、エンディングの試験会場のシーンで。
そこには柔らかな風も吹いていたような気もします。
広い床に置かれたピアノが静かに音を紡ぎ出すと、
奥の窓の白いレースのカーテンが光を受けてゆらめきます。
そして音楽の進行とともに、部屋には光が満ち溢れ
多くの人々が集まる場所が、まるで小さな家族のためだけに存在するような
そんな親密な光の空間に変容していくのでした。
少し前に見たからでしょうか、私にはそれが、
フェルメールやハンマースホイの光の空間のように感じられました。


0
1 | 《前のページ | 次のページ》