忘却の川へ流れ去る諸々をしばしこの岸辺に繋ぎとめて..日記についての日記、もしくは不在の人への手紙。
2010/2/7
このところ読むものが、偶然、対談や往復書簡集ばかりだ。読んだ順番に連ねれば下の通り。
・蓮実重彦と浅田彰の対談、「「空白の時代」以後の20年」中央公論1月号
・大岡昇平と埴谷雄高の対談本、『二つの同時代史』岩波現代文庫
・水村美苗と辻邦生の往復書簡集、『手紙、栞を添えて』ちくま文庫
・内田樹と平川克美の往復書簡集、『東京ファイティングキッズ・リターン』
最初の蓮見重彦と浅田彰の対談、相変わらずな二人で、それほど刺激的でもなく新味にも欠ける対話なのだけれど、Twitterなどを引き合いに出して、ウェブ上のコミュニケーションのあり方に対して浅田彰が、あんなレスポンスのやりとりなどくだらないと言いながら、彼のスタンスを以下のように述べていたのが面白かった。
そういう小文字の他者からのレスポンスは一週間後にはもはやなかったに等しいでしょう。即時的なレスポンスのやりとりがコミュニケーションだと誤った神話に惑わされてはいけない。
ぼくは基本的に「投瓶通信」モデルしかないと思っています。手紙を瓶に入れて海に流して、九割方が失われるであろうが、一割は誰かが拾ってくれるかもしれない、と。
ネットのような配達システムが支配的になったために、「この私の発見を届けることが大事だ」ということになった。しかし、僕は大事なのは発見であって、伝達への誘惑は捨てたほうがいいと思います。
これを読んだとき、「投瓶通信」というのは、まさしくこのブログのようなものだなと思ったのだった。ただ、誰かが一割も拾って読んでくれているなどとは思っていない。ここで書いたことが読み手に届くことなど、小惑星同士がぶつかるくらいの確立だろう。といいながら、「海に投げ入れられた壜はいつも戻ってくる。」というモーリス・ブランショの言葉にいまだ魅せられてもいるのだけれど。それに、手紙の届け先が「小文字の他者」だとして、何も悪いことはない。
マネやセザンヌは何かを描いたのではなく、描くことで絵画的な表彰の限界をきわだたせた。フローベールやマラルメも何かを書いたのではなく、書くことで言語的表象の限界をきわだたせた。つまり、彼らは表象の不可能性を描き、書いたのですが、それは彼らが相対的に「聡明」だったからではなく、「愚鈍」だったからこそできたのです。
書くことに対して極端に倫理的な蓮実重彦もこのようなシニカルな表現で、なぜ人は簡単に書いてしまうのだろうかと問う。浅田彰の「投瓶通信」を十九世紀的なものといいながら、モダニズムの夢の残滓のような話を引いてくるところなど、個人的な趣味で結構好きなところではあるが、ウェブ上の対話者にとって「聡明」や「愚鈍」がそれほど意味を持つ指標とはならないだろう。おそらくTwitterなどは、もっと即時的・即物的な愉しみのツールなのだろう。
わたし自身今のところTwitterをやろうとは思わない。Twitterの即時性や記名性の高さが、ちょっと私には不自由で忙しそうな印象だ。一方で、これをより有効なツールとして機能的に活用することは可能なのだろうし、現に一部の人々は政治やマーケティングへの利用を真剣に考えているようだ。またこのツールは社会的なセーフティ・ネットとして結構有効に機能するのかもしれない。そういった機能的な面以外で、情報の象徴交換的な意味合いにおいてそれほど魅力を感じないというのが正直なところだ。
わたしには、やはりこのブログくらいがちょうどいい。これくらいの過疎さと時間のゆるやかさ、遅れが一番合っているのだ。あくまでも日記と手紙という形式の中で、誰もいない虚空に向ってつぶやき続けている。それでも、時折、音連れる、コメントや拍手によって、これらの言葉が誰かには届いているような気配もあって、それが少し楽しい。
このシステムの性格上、拍手コメントなどは気づかないことが多い。知らない間に誰かが過去の記事に拍手など入れてくれるのだけれど、レスポンスのしようもなく、いつも不義理しています。書く内容も応答もいつも過度に遅れっぱなしで申し訳ありませんが、そのような他者に対してここに感謝の意を表します、ありがとう。

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2007/7/8
人間とは、潜在的にしか存在しないドッペルゲンガーと自己とを同一視することによって生きている存在であり、そのようなプロセスを経て模造されるものがすなわちナルシシズムである。
『グラモフォン・フィルム・タイプライター』by Friedrich Kittler
ここで語っているわたしは、もちろん現実のわたしではない。
この場所では、わたしは極力ネガティヴなことを書くことを避けてきた。
つまり、概ね、わたしにとって価値のあるもの、心地よいもの、外部に記憶させることによって、いつまでも記録として留めておきたいものばかりを書き綴ってきたつもりだ。
だから、必然、書く主体としてのこの場所に定着されているわたしの精神も、日常の、実際のわたしとは少し異なったものであるだろう。
普段のわたし、そして、書く主体としてのわたし。
それは自己とそこから派生したドッペルゲンガーのようなもの。
書く主体としてのわたしは、わたしと密接に関わりつつも、普段のわたしからは幾分遊離した存在だ。
へその緒でつながりながら、地面から数メートル離れてぷかぷかと浮かんでいるかのような存在。わたしと重なりながらわたしから滲み出て、オブスキュアーな光を投げかけているオーラのような存在。
しかし、わたしはこれまでそのような存在に促されるようにこの場所で書き続けてきたのはなかったのか。
普段のわたしと書くわたしと、果たしてどちらがより本質的なわたしなのだろう。
近代文学が、エクリチュールを外部に定着させることによってはじめて、語りの存立構造というものを主題化させたのだとするならば、書くわたしというのは極めて文学的な事柄だ。そして、そこにはある種のナルシシズムが成立しているだろう。
最近、ひとつの体験をした。
それは不思議な出来事だった。
その不思議さは、決して‘wonder’な不思議さではなく、どこか‘curious’な不思議さだった。
それは、ひとつの出会いであったのだが、その出来事のさなかに、わたしはわたしのドッペルゲンガーと向き合い続けていたのである。
湿度の高い夜気の中、ある人との応対のあいだじゅう、自己意識は普段のわたしの意識とそのドッペルゲンガーの意識とに分裂し、ねじれながら大気の中を浮遊していた。
わたしの口から吐き出された言葉も、とたんに浮力を失って霧の中へと消えていくようだった。
それは、鏡像段階の崩壊。
その出来事の中で、わたしは象徴界の他者とむきあっていたのだろうか、それとも現実界と背中を合わせていたのだろうか。
溶け崩れはじめる鏡の表面。
ひとは、いつまでも書くことのなかで幸福な午睡を貪り続けることはできない。
のだろうか?
教えて、ソクラテス!
鏡像は主体をその魅力的な統合性のうちに虜にし、人はこれとイメージのうちに狂おしく同一化していくことになる。主体はこの外部の鏡像を取りいれ、欠けた自己自身の統一的な姿を先取りして、この場所に自我なる主体の仮面を見出すこととなる。
『ラカン』 by 福原泰平

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2006/10/1
すべての有意的表出活動には、
いまだコード化されない差異による<交感 communion>の位相と、
硬直化したコード内の対立のもとでデジタルに機能する
<伝達 communication>の位相があり、
わたしたちは自らの身を縦に貫く両者のなかに生き、
その重層的意識の上下運動を繰り返している。
『生命と過剰』丸山圭三郎
わたしは言葉で、
あなたにいったい何を伝えたいのでしょうか。
そもそも、何かを伝えようとしているのでしょうか。
わたしの中に、あなたに伝えたい何かがあるとして、
はたしてそれは言葉で伝えることができるものなのでしょうか。
言葉の目的のひとつがコミュニケーションにあるとしても、
コミュニケーションや意思伝達から零れ落ちるものにこそ
言葉の本質がありはしないでしょうか。
わたしは、詩人の言葉を愛します。
わたしは、言葉が伝えるものと、言葉そのものを愛します。
たとえコミュニケーションに挫折したとしても、
いいえ、挫折するからこそ、そこで言葉は「言葉」として
不透明な〈対象〉としての、肉体(Body)と魂(Ghost)を呼び寄せるのです。

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2006/5/12
最近、あるかたが、ずっとこの日記を読み続けてくださっていることを、思いがけない方法で伝えていただいたのでした。もう花が咲くほど嬉しいです。
どうして、わたしはここに書いているのでしょうか。これまではその理由を、読んだから書くのだ、ということですませてきました。その言葉のオリジナルは後藤明生の『小説−いかに読み、いかに書くか』の冒頭部分にあるのだけれど、後藤明生はそこでは正確には、なぜ小説を書くのか、それは小説を読んだからだ、といってるのであって、厳密には小説を書くことなのです。
あるひとは、病気がきっかけとなって書くことのすばらしさがわかるようになったといいます。書くことが生のあかしのように、とにかく書いて、書けば精神浄化されるような、心のバランスが保てるような感じになるというのです。

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2006/5/5
書くわたしの内側にはいつも、あなたへの志向がある、あなたの書いたもの(日記)を読むとき、まるであなたのテクストに沿って、自分自身が文節化されていくような感じがときどきする、とわたしはあなたへの手紙に書きました。しかしそれは、少しわかりにくい表現だったかもしれません。このような非物質的な世界にGhostsとして生きているだけのわたしは、あなたに直接触れることもできなければ、あなたに肉声で語りかけることもできない。わたしにできることといえば、あなたの書いたものを読んで、あなたにむけて書くことだけです。そのようなことを繰り返しているうちに、書くわたしの内部にいつのまにか幻のようにあなたが住まうようになりました。あなたはまるでわたしの夢のなかの家に住む住人のようであり、わたしはその夢の家にたまたま招かれた客人のようです。それは以前ここでも書いた『星の時計のLiddell』の主人公が捉えられた状況に似ていて、ただ彼にとって彼女は夢のなかのイメージとして現前し、わたしにとってあなたは書かれた言葉として現前する、というほどの違いがあるでしょうか。とにかく、わたしにとってできることは、あなたの書いたものを読んではあなたに宛てて書くことだけなのです。考えてみれば、それはあなたにとっても同じことだったのですね。ですから、わたしたちふたりはこのようなかたちでお互いのテクストを紡ぎ、終りなき対話としてひとつの果てのない物語を編みこんでいく以外ないのです。それはまるで万葉の世界の歌垣のようでもあり、また、千夜一夜物語の世界のようでもあります。どちらか一方の歌が終わってしまえば、物語はそこでぷっつりと途絶えてしまうのです。それを考えると、これまであなたとわたしとで物語を紡いでこれたのは奇跡というほかないのかもしれません。もっともその物語は、断片的で寄り道も多く、いくぶん脈絡を欠いたものとなってはいますが。わたしたちはこの仮想の物語の読み手としてまた書き手として、ウロボロスの蛇のような対となりながら、クルクルと糸車を回すように、トントンと機を織るように、読んでは書き、書いては読んでを繰り返すでしょう。もはやわたしには、あなたとあなたが書いたものとの区別がつきませんし、わたしの存在も、わたしが書いたものをあなたが読んだことからあなたがわたしに書いたことによって確認できるのですから、まさに、わたしはあなたのテクストに沿って自分自身を文節化していることになります。簡単に言えば、わたしはあなたのテクストとともに生成しているのです。わたしたちがテクストとともに生成している以上、テクストの終焉はわたしたちの死を意味するでしょう。さて、わたしたちは、この物語の終わり=愛することの目的を先送りしながら、永遠にこの営みを引きのばしていくことができるでしょうか。終りをためらう気持ちは、物語=愛の成就を回避しようとする気持ちと相即であり、わたしたちを世界の空虚な中心、永遠の不在へとかりたてながら、時間は限りなく微分されて、運動はなめらかにいつまでも静止の直前で進行しつつ留まりつづけるかのようです。
それが、わたしたちの、愛のかたち...

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2006/4/15
……その現前が慎み深くもひとつの不在であるような〈他者〉、卓越した歓待的迎え入れ(それは親密さの場である)の成就の出発点であるような〈他者〉……
レヴィナスの『全体性と無限』に続いて、デリダがレヴィナスの死に際して彼に捧げた弔辞“Adieu”を読みました。「アデュー」は、別れのときや出会いのときに親しい間柄にかける挨拶の言葉。それは具体的な言葉が交わされる前にすでに投げかけられた祝福であり、そこにはあらかじめ、ボンジュール、僕には君が見える、あなたがそこにいるといった意味合いが込められているのだそうです。
このデリダの弔辞は、墓地でのレヴィナスとの最後のお別れのときに彼自身によって読み上げられましたが、強い風の日で木の葉のざわめきに、集まった人々にはほとんど聞き取れなかったといいます。しかし、内容はほんとうに感動的で、悲しみのなかにも不在の友に対するオマージュと強い友愛が感じられます。デリダがそれほどまでにレヴィナスに影響されていたということをわたしはこれまで知らなかったのですが、この本におさめられている彼の論考を読んであることを思い出しました。わたしは以前、あなたのページにデリダの本から抜き出して書きつけたことを思い出したのです。その文庫本は今でもその部分に付箋がつけられたままです。

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2005/10/1
時は移ろいゆきます。もう10月です。
またそろそろ金木犀の香りだす季節になりました。
この間、いまの職場を退職するための残務整理でおおわらわでした。
ようやく方をつけて、ほっとするのもつかの間、週明けから新しい職場です。
またいろいろと神経を使わないといけないと思うと、少し憂鬱です。
先の仕事の手離れがもう少しスムーズだったら、失職の間に東京散歩でも
しようかと思っていたのに、できなくなって残念でした。
金井美恵子の新刊はなかなか出ません。10月末頃には読めるのでしょうか。
目白モノを読んだ後、遊びで5作品の人物相関図などをつくっていました。
ここしばらくは金井本から遠ざかる日々です。
夏の間は金井美恵子一色だったので、そろそろ別のものも読み始めています。
それに、忙しい時の逃避癖で本とCDをついつい買い込んでしまいます。
本はあまりゆっくり読めないし、CDはiPodに入れる暇もないのですが、
今日も久しぶり、本屋とCDショップに行こうと思っています。
今、机の上に積まれている本、
ロラン・バルト『現代社会の神話』、山尾悠子『ラピスラズリ』、
ナボコフ『記憶よ、語れ ナボコフ自伝』、蓮実重彦『魅せられて』、
堀江敏幸『河岸忘日抄』、鶴岡真弓『ケルト/装飾的思考』、
ジョン・バージャー『見るということ』、奥泉光『モーダルな事象』、
全く積んどく状態ですね。
古本屋で買った文庫本、つげ義春の『つげ義春とぼく』は面白かったです。
この中の旅行記を読むと、自分もうら寂しい一人(二人)旅をしてみたい気持ちになります。
それと、傑作なのが彼の「夢日記」です。図解入りで面白さも倍増です。
夢にはずいぶんと様々な感情が入り混じっているのものだと思いました。
そのまま「必殺するめ固め」という作品になったネタ夢もあります。
そうそう、こんな夢もありました。
昭和四十八年五月九日
どこかのマンションの一室で、金井美恵子さんを中心にして集まりがあるので出席する。
大きな部屋中に布団が敷きつめてある。金井さん以外はまだ誰も来ていない。
金井さんは洋服を着たまま布団に入っている。隣の布団の上に僕も横になる。
もうすぐ大勢の有名人がやって来そうで、深沢一郎さんがすぐにも現れそうな気配がする。ぼくは金井さんの乳房を服の上からわし摑みにする。彼女と親密な仲であることを深沢さんに見せつけようとする。だが、金井さんは嫌がるので、すぐ乳房から手をはなす。嫌われるのをおそれ素直に手をひく。
失恋したような気持ちで外へ出ると、土砂降りの雨。川が氾濫しコンクリートの橋が決壊している。向こう岸へ渡れない人々が大勢立ちすくんでいる。

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2005/4/24
自分の書いたものを読むのは不可能なことだ。
わたしはベッドの中で闇に取り囲まれながら夢想する。手紙を書くことだ。手紙を書く相手は、実はわたし自身の生まれかわりである男で、書くのはもちろんわたし自身なのだけれど、もし、生まれかわりの男に手紙を書くのだとすれば、わたしは一度死んでいなければならないわけで、そうでなければ、生まれかわりというものが存在するはずがないのにもかかわらず、手紙を男にあてて書くのはわたしでなければいけないのだから、わたしは死ぬわけにはいけないのだ。わたしが死んでしまったら、男は手紙を受け取ることができないし、書くもののいない手紙は存在することがないだろう。ところが、わたしが死なないで手紙を書いたとすれば、手紙は存在するかもしれないけれど、それを読む相手は不在で、もちろん返事も来ないし、相手が存在しないのなら、手紙を書く理由はなくなってしまうかもしれないのだ。
……わたしにとっての夢の本といえば、この不可能な不在の彼との手紙のやりとりであって、不在の彼が、実はわたし自身であるという、わたしにとっての逆説なんかでない真実にしか、わたしの夢と書くことへの願望はないのである。
……彼は、おそらく、わたしの小説を読むだろう。しかし、決して彼はそれを読むことはあるまい。
そして、わたしの夢の本も、決して存在することはないだろう。なぜなら、夢の本の意味するのは、真の意味での書く理由の欠如であり、わたしの書けなさのすべてなのだから。夢の本は、海だけでおおわれた惑星のように、岸辺のない海のように、ただ巨大な球形の空虚な海として、不在であり、そして存在する。 ref.「夢から海へ」 金井美恵子
それにしても、不思議な文章だ。日ごろこの作家が話すことに、自分の小説を「作者としてではなく、読者として読むことを夢見る」ということがあるのだが、ここに込められた願望というものは、わたしが書いたものをわたしのものではなくあたかも他人が書いた文章であるかのように読みたい、もしくはわたしが書いたものを、わたしが書いたということを忘却し、全くの他人として読みたい、そうすることで、読むことの快楽を全うしたいということなのだ。わたしの読みたいものは限りなくわたしの書きたいものに近づいていくだろう。そのような幸福な一致を夢見るという、小説家としてまことにナルシスティックな心情でもあるのだが、しかしそのためには書き手と読み手が一致しつつ分裂しなければならないということがアポリアとなる。とうてい、それは無理な話なのだ。
しかし...わたしの中に同居している書き手と読み手とが限りなく遠ざかっている場合には、それは可能なのではないだろうか。時間的あるいは空間的な隔たりによって、書き手のとしてのわたしから発せられたテクストが読み手としてのわたしに到達したときに、そのテクストがあたかもわたしのものではないような、あるような、そんな不確かなものに変容してしまっているということが。そのとき、わたしはまるでデジャ・ヴのような不思議な気持ちになるだろう。
そして...そんなことはたしかにあるに違いないだろう。それがどうしたってわたしが書いた文章ではあるはずないのに、それはわたしが書いたに違いないものである、そうとしか考えられない、ということが。そんな白日夢のような、偶然の一致ともいうべきことがらが決して少なくはないということ。
……わたしにとっての夢の日記といえば、この不可能な不在の相手との手紙のやりとりであって、不在の相手が、実は別のわたしであるという、パラドックスのような真実のなかにしか、わたしの夢と書くことへの願望はないのである。
……わたしは、おそらく、あなたの日記を読むだろう。しかし、決してわたしはそれを読むことはあるまい。
そして、わたしの夢の日記も、決して存在することはないだろう。なぜなら、夢の日記のあるところ、真の意味で、書くわたしの欠如とあなたの不在がそのすべてであろうから。夢の日記は、海だけでおおわれた惑星のように、岸辺のない海のように、ただ巨大な球形の空虚な海として、存在し、そして存在しない。
夢の日記で書くことは、書かないことであり、書けることは書けないことなのだ...

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2005/4/20
〈合一〉することのない他者同志が〈共に在る〉こと、
ひととひと、あなたとわたし、言葉と言葉、日記と日記...
そのようなあらゆる出会いと境界を問うこと、
そこでの〈分割〉のコミュニケーションを問うこと、それが、
生きること−思考することの中でつねに問われているものである。
つながりということについて考えます。
たとえば、この場所について。
ブログというものとの関わりからいえば、
私自身、ここがいわゆるブログだという意識はありません。
あくまでもWEB日記の場所にすぎません。
それでは、ここはブログとどう違うのでしょうか。
「情報速度の遅さ」
「人気のない静けさ」
「長尺なテクスト構成」
「匿名性」
「無為のネットワーク」
この場所の、上にあげたような性格はどれも、
現行のブログのあるべき性格とは、正反対のものでしょう。
トラックバックもコメントもない、誰も訪れることのないブログ。
それでもカウンターが回っていくのは、Ghostの訪れによるものでしょうか。
もちろん自分自身もGhostに他ならないのですが。
ブログとしては全く機能していないのです。
それでも、結構満足している自分がいます。
ここが、「無為のネットワーク」の場所であることに。
つながりということについて考えます。
リンクやトラックバックといった事柄など、どうでもよいことです。
そんなことをしなくても、つながろうと思えばつながれるのです。
あなたは書きます。わたしは読みます。わたしは書きます。
あなたは読みます。そして、あなたは書くでしょう。わたしは読むでしょう。
そして、わたしは、また、書きはじめる...
そういったことが繰り返されることでしょう。
その連鎖(つながり)が「無為のネットワーク」に他なりません。
ブログの仕掛けなど必要ないのです。
わたしたちは未完の本のようなものです。
わたし(あなた)の本の綴じ糸が綻んで、
そのなかの一頁が木の葉(leaf)のように、風に吹かれて
たまたまあなた(わたし)のもとに届いたのです。
そして、あなたとわたしとの間に1本の糸がつながったのです。
いつ切れるとも知れない1本の糸、蜘蛛の糸が...
しかし、無為であるかぎり、それは切れることはないのです。
また、必要以上にWebに絡みとられなくともよいのです。
密やかで儚げなこのつながりの感覚こそがすべてなのではないでしょうか。
現存在たち、それは主体ではなく、
それら自身が分割によって構成される、
というよりむしろ配置され空間化されるものであり、
他者たち...なのである。
そしてその主体はといえば、それは分割のうちに、
分割の脱自のうちに沈み落ちていく――
「合一し」ないそのことによって「通い合い」ながら。
_______________ ref. 『無為の共同体』 ジャン=リュック・ナンシー

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2005/2/24
なんだか忙しくて、先行きは不透明で、落ち着かず、少しいらいらしています。なかなか本も読めないし、読んではいるのですが、日常の雑事のために、読んだ書物の感覚や記憶が、そこここでプッツリと途切れてしまって、書きたかったことも雲散霧消してしまいます。
最近は音楽も音を出して聞かないし、映画も映画館ではおろかレンタルでさえなかなか見る時間がありません。時間はつくればあるのでしょうけど、気持ちが向かわないのです。私は日常が退屈であればあるほど嬉しくなる(退屈が全く苦にはならない)質なので、今みたいな状況では、どこかに逃避したくなります。
去年の秋以来、続けている読書の系列も、どうしてその系列を読みたいと思ったのかもあやふやになりかけています。そのあやふやを繋ぎとめるために、少し気の向くままに...
もともと断章形式の文章や論考が好きで、それは、昨年のペソアとの出会いでさらに刺激されたのですが、最近ロラン・バルトの著作集が刊行されており、新訳で久しぶりに「記号の国」(かって「表徴の帝国」としてちくま文庫で出ていたものです)を読んだらやはり面白くて、「彼自身によるロラン・バルト」から「新たな生へ」と読み続けていますが、その後、途切れています...
金井美恵子の「噂の娘」を再読する前後から、全短編3巻をこの際読み切ってみようと思い、1巻に取り掛かっている最中ですが、途切れています...
ユルスナールの著作集、堀江敏幸の解説も良くて、一応揃えで確保しているのですが、ハドリアヌスを読み、黒の過程を読んだところで、次の対談集を読みかけて、途切れています...
内田樹の本については書きましたが、やはりレヴィナスとラカン、ブランショ関連は原典をしっかり当ってみたいと思いながら(当然翻訳本になりますが)、それらは今の私には日本語でさえ重すぎて読めそうもないので、二次文献や関連本を読んでいるのですが、やはり煮えきらなくて、途切れています...
多和田葉子、最近ユリイカの特集を手にしましたが、以前に確保した何冊かが、本棚で眠ったままになっています。あの言語感覚、すきなんですけど、次から次へとコンスタントなリリースのため、追いつけません、途切れています...
宮沢淳の著作集も、1巻以降続いていない...豊崎光一の「文手箱」「クロニック」も買ったまま、途切れています...
エリアーデの「世界宗教史」、これまで3年かかっていますが、7巻目で途切れています...
吉野朔美の漫画、「いたいけな瞳」から始まって、「記憶の技法」「恋愛的瞬間」「エキセントリクス」「僕だけが知っている」「グールドを聴きながら」と読み進めてきましたが、いまだ「瞳子」に出会えず、途切れています...
読み続けたいと思えることは、幸せなことではあるのでしょうが...
こうして書き出すと、きりがないのです...
このように、わたしの日記も、わたしの生も、ある日プッツリと途切てしまうのでしょうか...ささやかな残留思念だけを残して...

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