忘却の川へ流れ去る諸々をしばしこの岸辺に繋ぎとめて..日記についての日記、もしくは不在の人への手紙。
2010/1/23
久しぶりに深夜TVで放送されていた岩井俊二の『LOVE LETTER』を見る。前に見たのは10年以上も昔のことだけれど、そんな時の隔たりを超えて見るものを瑞々しい気持ちにさせてくれる作品。『サヨナライツカ』の公開にあわせた放送なのだろうけれど、この映画、春になる前の最も寒さが厳しい今頃の季節に見るのが一番いい。見終わるころにはもう春の日差しが窓から差し込んでくるような気持ちになれる。以前もここに書いた のだけれど、また少し書きたくなった。
舞台は神戸と小樽で雪のシーンが多いのだけれど、時々明るい光に画面が覆われる。優しく澄んだその光は恩寵の光でもある。二つの離れた場所からそれぞれ発信された「手紙」は、いつのまにか二つの離れた時を結び合わせる。それは過去のある時と今というただリニアな時間軸上の二点というだけではなく、死線に隔てられたものであるだけに深遠となる。画面はそこそこ明るく映像も美しいので前回見た時はあまり感じなかったのだが、この映画は死の気配に満ちている。
冒頭、雪の中にオフィーリアのように横たわる中山美穂扮する渡辺博子、そのシーンは彼女が死と近しいことを象徴的に示している。最初彼女は息をしていない。そして息を吹き返す。恋人の藤井樹を山で亡くして以来、彼女自身もその死のなかで喪に服していたのだ。
小樽の中山美穂扮する藤井樹も最初はベッドに横たわるシーンから始まり、彼女の口から出る悪い咳はやみそうもない。そして彼女も父親の死の記憶を引き摺りながら生きている。父親の葬式の日に雪道の上を滑っていった先で彼女が見つけた氷に閉ざされたトンボの亡き骸は、彼女自身であり、雪の中の渡辺博子であり、雪山で眠りつづける藤井樹でもあるだろう。
映画は、ひと言でいえば、死線をさまようこの二人の救済の物語となる。二人を救ってくれるものが手紙=Love Letterである。それは本来の宛先ではないところに届けられたものなのだけれど、宛先が違っていたからこそ、それは本来以上の役割を担うこととなる。手紙はそこでは恩寵となる。でも「手紙」というものはそもそも間違って届けられるものではなかったろうか。そのような「郵便的不安」の世界の寓話としてもこの映画は受け取れるだろう。
決して出会わない二人が決して出会えない一人を介して「手紙」という形式で対話を行う。二人は不在の一人の記憶や思い出を共有するというのではない。一人の不在が第三の審級、レヴィナスの「第三者」となって他人である二人の対話と交換を促すのだ。
そして最後に、不在の一人からの「手紙」が一番遅れて到達するだろう。それは、渡辺博子が夜明けの雪山で呼びかけというかたちで彼へ届けた「手紙」を受けてのものとならなければならない。「お元気ですか、私は元気です」と、彼女が息を吹き返した後で。同時に藤井樹も病院のベッドで息を吹き返すことになるだろう。
最後に藤井樹が手にするのは死線を越えて彼岸から届けられた手紙であり、恩寵そのものである。身近にいた間、彼はいつも間違った方法で手紙を届けようとして、とうとうきっかけを失ってしまい長い間封印されてきた手紙が、「第三者」を介していまようやく本来の宛先に届けられる。それを受け取った藤井樹はようやく今、本来のメッセージを受け取る。泣いていいのか笑っていいのかわからず、ただ高鳴る胸とともに命の蘇生のような息づかいの中で、長い冬から醒めた彼女の心の雪解けが今始まる。春はもうすぐだ。
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2009/7/18
『埋もれ木』を見て後、小栗康平の本を読む。
小栗康平の本(単著)はこれまで4冊出ている。
@『哀切と痛切』 1996.10.15 平凡社ライブラリー
A『見ること、在ること』 1996.11.18 平凡社
B『映画を見る眼』 2005. 6.25 NHK出版
C『時間をほどく』 2006. 7.30 朝日新聞社
それぞれ、所収のエッセイは彼の映画作品の発表時期と以下のように対応している。@は第一作『泥の河』から『伽耶子のために』までの時期に書かれたエッセイで元は1986年頃に径書房という出版社から出ていたもの、Aは第三作『死の棘』から『眠る男』までの10年に書かれたエッセイ、Cは最新作『埋もれ木』までに書かれたエッセイ、Bはこれまでの5作の映画づくりを通じて監督自らがまとめた映画論である。ちなみに、小栗康平は映画をこれまでの30年間で5本つくっている。
@『泥の河』 1981年
A『伽耶子のために』 1984年
B『死の棘』 1990年
C『眠る男』 1996年
D『埋もれ木』 2005年
このように、小栗康平は映画も著作も寡作である。このことは、当然ながら彼の撮るものや書くものの性格と無縁ではないだろう。よく言えば、マイペースで時代に流されることなく、じっくりと対象に取り組む表現者、悪く言えば、変化とスピードに乏しく、受け取る側によってはいささか退屈な表現者となる。しかし、この30年間の作り手としての彼の姿勢には一貫したものが感じられるとともに、その作風とあわせみれば、それがいかにも小栗康平らしいと思わせられる所以である。
彼の著した書物の中から切り取ったテクストの断片によっても、彼がこれまで映画で何を表現しようとしてきたのかが窺えるだろう。4冊の本の中から、眼に留まったテクストを取り出して、幾つかの主題のもとにアフォリズム的テクストのコラージュとして再構成してみたものが以下である。これらは映画の表現論や手法論といったものを超えて、映像に宿る「生」の存在論というにふさわしい哲学的な言辞となっている。
(主題1)「見ること」の距離、「見られるもの」との関係。
「見ること」はただ対象に近づくことでもなく、一義的に意味を捉えることでもない・・・
ただ生きられた「在ること」として受容すること。
大事なセリフがあったらそれを引きで撮れるようになれ・・・引きというのは、スローズ・アップの反対で全部が写っているものだ。個々が大事なんですとばかり、寄っていっては駄目なのだ。本当に大事なことは相互の位置関係が見えるところで語れという思想だ。
見ることは内と外とが画然と分かれた世界ではない。
ものごとを「みる」以前に、ものごとのほうが私たちに映っている。・・・意味などに結びつかないままとにかくそこにあって、それが生としてのやさしさだと実感しているふしがある。いかにも一つひとつを識別しているかにみえて、じっさいはただあるということを受け入れているのが「みる」ことの大半で、むしろそのことで幸福というか、平安なのだといいたい気がどこかにある。
私たちは言葉によって考え、言葉によってイメージをつくる。この関係はどこまでいっても逃れられないが、映画の「みる」という行為は、この言葉をもつ人間をやさしくつつむものだ・・・
「見る」ことと「在る」ことは同義・・・映画は、その見るよろこびによって成立している。いいかえれば、在ることのよろこびを写している。
(主題2)「言葉」の背後、「言葉」の行間にあるものを捉えること。
「言葉」はその意味や情報に還元できるものではなく、その背景とともにある。
それはある種の弱さ(ヴォルネラビリティ)の中で生きることの豊かなニュアンスを含んでいる。
生きた人間が口にする言葉は文字ではない。言葉はその人の表情や沈黙とかかわっていて、その相対の中にしかない。
自分が言葉を呑んだり折ったり、ためらったりしているのは・・・本来、言葉というものは人それぞれでつまずいたものなのではないかという思い。整理されたものが言葉なのではなく、つまずきそれ自体がその人の言葉なのではないか・・・
「私」は、もとより確固とした「私」ではない。うろたえ、図りかねて、言葉を探しているのがつねである。行間、あるいは言葉の間合いとは、そうした私たちの、弱さといえば弱さの、溜まる場所でもある。
(主題3)内(わたし)と外(たとえば自然、あるいはあなた)、その境界の様相。
両者を隔てるものは柔らかく、両者は相互浸潤しているものである。
そこにおいて象徴的な隠喩としての水際のイメージが召喚される。
植物を仲だちとした、海と陸とのやわらかな交じわりは、人間が生きていくうえで信じるに足りない営みなのか。固いものが必ずしも強いとは限らない。
人間とその場所との関係は、葦や真菰が生えている湿地のようなもので、コンクリートのように、言葉によってくっきりと線引きされていないから、映画は面白いはずなのに・・・
ひとと他(自然)との距離は固定したものではない。ゼロから無限大まで同時に私たちの中にある。
自然は私の外にあり、客体なのか。私はそれらが交じりあって私である。
(主題4)川の流れのように時は流れるのではなく、時は記憶のように積み重なる。
私たちはそうした多くの積み重なった、複数の時のなかで生きている。
映像は、言葉になりにくいそのような時をほどく。
映画の時間は、夢がそうであるのと同じように、一方向へだけ流れるものだとは思えない。映画は現実時間の流れを断ち、方向づけられた時間をほどく。
時間が流れる、そう考えることも違うのかもしれない。流れて過ぎ去っていくものではなく、時間はそこに在るもので、だとすればその在り方を豊かにする。
私たちはじつにたくさんの異なった時間を生きている・・・「私」の中をそれらが出入りしている。
私たちの「時間」は、重なり合って堆積しているのがつねだから。
変化の中で生きる私たちは、当然ながらつまずき、くぐもりをもって生きる。変化にもちこたえられないものが、私たち一人ひとりに堆積している。いちど言葉で名づけられ、そののち捨てられたものは、言葉にしにくいに違いない。その言葉にしにくいものをどのように開いていくのか、映画の役割もそこにある・・・
(主題5)個人的なエピソード記憶から、集合的無意識の物語へ。
夢の映画の中で、わたしたちはホーリスティックな物語へ、より大きな夢のなかへ抱かれる。
私たちは誰でも、忘れることでなにかを省き、なにかを残して生きている。そうすることで、はじめて全体につらなる。
私たちは映画を見ていて、なにものにも意味づけられない豊かな時をしばしば経験する。ちょうど夢がそれ自体で不思議であるように。
物語とは・・・私たちの断片ではない「生」を、なんらかのまとまりのあるものとして叙述したいという願い・・・
映画を、自然の、ある全体と感応していけるようなところで出したいのだが・・・イェイツがいうところの「大きな記憶、つまり、自然そのものに具わる記憶」にまで・・・
私たちの心は・・・多数の心がいわば流入しあって・・・私たちの持つ個々の記憶は一つの大きな記憶・・・自然そのものに具わる記憶の一部であり・・・その「大きな記憶」を・・・象徴によって喚起することができる・・・
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2009/1/22
アメリカの大統領就任セレモニーというものをはじめてじっくりと見る。
ワシントンDCの都市軸を形成する広大な緑地に200万人の人々がひしめき合っている。すごい光景だ。ウッドストックやワイト島ライヴをはるかにこえた群集の凄まじい光景。歴代の大統領が仲良く居並んでいるのも不思議な感じがする。さすがに共和党は元気がない。ブッシュは潔い敗北の表情を表し、パパ・ブッシュは杖をついて足取りがおぼつかない。強面のチェイニーも何があったのか車椅子の上で老け込んでいる。民主党のカーターもすっかり好々爺になっている。
最後にオバマが登場し壇上を降りてくる。このとき彼は一体どのような気持ちだったのだろう。オバマの視線は、群集の波の遥か向うリンカーン記念堂を見据えていただろうか。
アメリカらしくフォーマルなセレモニーとしてはフランクな印象なのだけれど、要所で雰囲気を締めてくれるプログラム構成だった。アレサ・フランクリンの独唱も良かったし、パールマンとヨーヨー・マ、ピアニスト、クラリネット奏者による超絶アンサンブルには釘付けになった。なのに、NHKときたらコメンテーターの声を無神経にかぶせるときたもんだ。後で調べてみたら、作曲・指揮はジョン・ウイリアムスだった。題は'Air and Simple Gifts'、この日のためのオリジナル曲だそうな。
オバマの就任演説は、聴衆を鼓舞しアジテートするようなものではなく、どちらかといえば淡々としていた。アメリカのこれまでの苦難の歴史や自分の父親をはじめとする先人の努力と犠牲を振り返りつつ、この危機的な状況にあって、今一度建国の精神に立ち返りながら共に希望と美徳を携えて未来に挑戦しよう、この国の意思と遺産を子供たちの子供たちに継承していこう、というものだった。ところどころで具体的な情景をはさみこみながら物語るようなオバマの語り口には好感が持てた。アメリカの人々はどのように受け取ったことだろう。
大統領就任の日、アメリカ国民にとって希望の始まる日、それでもニューヨークの株価は下落した。現在の状況が大統領就任くらいで楽観できるようなものではないことを市場は示した。一時的な熱狂が過ぎ去った後には厳しさに耐えなければいけない日々が待っている。オバマの演説はそれを見越したものだっただろう。人々の気持ちが倦んでくるとき、彼の地位もまた脅かされることになるのかもしれない。
下の写真は去年の夏にファミリー・オークションでアメリカ人の遠戚から手に入れたオバマTシャツ。そのころすでにオバマは熱狂の渦中にあった。変革を叫ぶ彼の姿はキング牧師やマルコムXを連想させたということか。オバマの大統領就任にむけてのマイナス要因としては暗殺リスクという事柄も指摘されていたという。それを考えるとこのTシャツにも何やら不穏な影が差しはじめる。
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2008/3/20
今晩は『鹿男あおによし』の最終回。
最近テレビをつけるとタイミングよくこれが放映されていることが多く、見るとはなしに見ていたドラマ。玉木宏の顔が回を重ねるごとに鹿に見えてきてしようがない。今日は堀田ちゃんがかわいかったし、佐々木蔵之助は相変わらず最後までとぼけた味を出していた。
ストーリーはよく把握できなかったのだけれど、背景に馴染みの風景が出てくるのは面白い。今夜の若草山の頂上のシーンでは背後の遠景のほうに見入ってしまった。また、ドラマの編集上その風景が思いもよらない継ぎ接ぎをほどこされているから、登場人物たちがこの場所からあの場所へと空間をスリップするような感じで、奈良を知らない人が見ているのとはまた違った見方になってしまう。
今晩の最終話も、主人公の玉木宏が綾瀬はるかに見送られて一緒に歩くシーンなんかで、全然別の場所と場所が飛び石伝いのようにつなげられていて、ちょっとしたトリップ感を味わえた。あの地上駅の奈良はいったいどこの駅なのだろうか。そして、主人公が奈良を離れるとか、京都へ向うときの近鉄電車の向う方向が実際とは逆なので、なんだか変な気分になるのだった。そんなことは、まあ、きっと地元の中高生たちの間でもしきりと話題にされているのだろう。
『鹿男あおによし』の原作者、万城目学氏は大阪生まれだが、親戚が奈良にいて子供のころは毎年奈良を訪れていたそうだ。奈良は京都と違って小説にはしにくい場所で、歴史的な切り口に想像をからませることで物語として展開できたのです、というようなことをどこかで書いていたっけ。
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2007/12/15
スクリーンではじめて青山真治の『helpless』を見る。
場所はといえば、大阪キタは天六に近い中崎町。
なんと青山真治のレトロスペクティヴが開催、あの『AA:間章』まで一挙上映。
いま、ここはすごいことになっている。
少し前に、香椎由宇ちゃんが散歩に来たころから、メジャーになった。
もはや、船場や堀江ではない。時代は中崎町のようである。
おとといの夜は、古い町屋の喫茶店に洞口依子さんが降臨されて、
『子宮会議』のリーディング・セッション が行われた。
その声と立ち居振る舞いに、心底感動する。
彼女はまさに女優だった。存在自体が全くの異空間をつくりだす。
それはまごうことなきハレの場の生成。
きわめて良質のエネルギー・波動にあてられて、
ほんと、心身ともにリフレッシュさせていただきました。感謝。
で、洞口さんもその作品のファンであり、
テレビのプログラムではロケ地まで訪ねている『helpless』である。
今までDVDでしか見ていなかった。
今夜見たのは30席ほどの小さな小屋で、それほど大きくないスクリーンだったが、
これ、やっぱりスクリーンで見るとちがう。
回し過ぎのフィルムが疲労しているせいか、
いつの時代の映画なんだと思うくらい画像も音もブチブチだったが、
スピーカーの音が大きくて、迫力があった。音楽の良さが際立つ。
冒頭の航空機からの俯瞰撮影は有名だけれど、
これ、こんなに無茶な揺れ方してましたっけ?
それに引き続いての、バイクに乗る浅野忠信を追っかけるカメラだけで
満足している自分がいた。トンネルのシーンもなにげにすごい。
それにしても1989年9月の北九州である。昭和の終焉である。
お父上はもういない。
病院と廃工場に峠のレストラン、映し出される風景が、どれもいい味を出している。
また、演技がいいのか、演出がいいのか、
出てくる登場人物全てのキャラが際立っている。
いろいろ書き出せばきりがないので、個人的な符牒について一つ。
最近、林檎ねえさん(関西でこういうとハイヒール・リンゴになってしまう)
の『ギブス』がiPodのヘビー・ローテーションでした。
「だってカートみたいだから〜 あたしがコートニーじゃない〜」
なんて鼻唄うたってたら、NIRVANAの『Nevermind』の紙ジャケが出て、
懐かしくなって買ってしまった。カート・コバーンのポスターも付いてきた。
そしたら、今日見た『helpless』の中で浅野君が
『Nevermind』のジャケットをでかくプリントしたTシャツを着ているではないか。
ちょっとした偶然が、ちょっと嬉しい。
でも、NIRVANAの『Nevermind』のリリースは1991年だから、
映画の設定とは辻褄が合わないんだけれどね。
これも通なひとの間では有名な話なのだろうか。
3連チケット買ったので、明日は『ユリイカ』。
で、来週は『サッド・ヴァケイション』を見ようと思います。
北九州サーガ3部作だそうです。まるで中上の世界です。
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2007/12/2
黒沢清の「LOFT」に続く新作「叫(さけび)」をDVDで見る。相変わらずの黒沢節で、今回もホラーだがその映像にわくわく気分で魅入ってしまった。「LOFT」の山奥の二軒屋という自然の中の密室劇から今回は東京湾岸に舞台を移し、エンディングの辺りでは都市的なカタストロフ劇の予兆をも垣間見せる設定となっており、ある意味で「LOFT」でもあり「回路」でもあり「cure」や「カリスマ」の雰囲気を漂わせ、一部で集大成といった声も聞かれるが、それほどではないだろうけれど十分楽しめる内容だった。
今回、湾岸という海と陸の間という舞台立て(それはすなわち異界へと開かれた境界の場所である)により、物語と映像を貫く一本の張弦が立ったことで、相変わらす荒唐無稽な筋立てながら映画的な説得性の高い(どういうことか書いている自分もわからないのだけれど)作品に仕上がっているような印象だ。
この作品でも徹底して動員されるのが鏡面上の光の反射や反映だ。鏡を覗き込む人の視線、鏡に映り込むあちらの世界、鏡の向こう側で移ろいゆくものをカメラは執拗に追い続ける。鏡面を体現するものは姿見であったり車のフロントガラスであったり、廃墟にころがる金属の表面であったり、埋立地の水溜りであったりするのだが、それらが映し出す不吉な光が物語を動かす。とともに、今回、映画にダイナミックな物質性を与えているのが「叫」という題名にも示唆されているところの様々な「振動」である。
わたしがこの映画で一番怖かったのは実は地震の音。不吉な地震が別の恐怖の予兆となっている。その他にも様々な震えがこの映画には散りばめられる。水溜りの水面の震えやビニールカーテンの波立ち、鳥の羽ばたき、叫びに震え逆立つ黒髪、工場のようなロフト感覚あふれる警察署の内部の吊り下げランプも右に左に揺れ続ける。世界はそういったすぐに液状化する不安定な基盤の上にかろうじて保たれているのであり、人はいつそこから足を踏み外すかもしれないし、向こう側の存在も簡単にこちらに手を伸ばしてくるだろう。
舞台の性格上、廃墟萌えや工場萌えといった人の感覚にもこの映画は訴えかけるものがあるだろう。それらは見捨てられ、長い年月のうちに朽ち果て、そのように朽ち果ててあることも忘れ去られている。しかし、そんな場所にあえてスポットをあてることにより、幻想やノスタルジーといった余剰な感情を抱くのもまた人の性だ。
この映画は、そういった忘れられた場所や存在が私たちに復讐しにやってくるというお話だ。私たちははるか昔に渡船の上で揺られながら遠い距離で少しばかり視線を交わした相手のことなどもちろん忘却しているだろう。しかし、忘却されたものたちは、その忘却こそが罪なのだと私たちを問い詰める。あなたには、何かできることがあったはずではないのかと。そのような問いかけは理不尽なものであるにもかかわらず、わたしたちはある種のうしろめたさのようなものを感じざるをえない。
一方の忘れることともう一方の思い続けることの齟齬から、ときに恐ろしい物語が生まれる。わたしたちがその物語に無縁であるという保証はない。そんなリアルな恐怖を、単に幽霊に語らせるのではなく、揺らめく鏡面や震える水面の様態によって詩的に描き出しているというところに黒沢的な美学が感じられる。それはきわめて映画的な戯れのエクリチュールだ。
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2007/8/14
そして、『マルホランド・ドライヴ』以来、リンチ久しぶりの新作『インランド・エンパイア』である。この3時間の長編にこれまでのリンチ映画の全ての要素が詰まっている。全編ハンディカムで監督自身が手軽に撮りたい映像を撮りたいように撮って、後で繋ぎ合わせたというプロダクション・プロセスだから、緻密で計算されたシナリオに基いた作品という性格のものではなく、自由にイマジネーションやアイデアを展開し映像化した作品となっている。
細部の因果関係や物語の伏線などの裏をとろうとしても徒労に終わってしまいそうな感じで、ここはトリッキーな映像や不穏な雰囲気を醸し出す音楽、リンチ特有の意表をつく物語展開やお遊びな挿話に身を委ねるしかないだろう。しかし、この作品、思う存分やりましたといった感じで、その意味で壮快。恐怖映画で映像的に楽しみながらアイデアを詰め込んだという点では、結構、黒沢清あたりが嫉妬しそうな出来具合ではなかろうか、彼の評を聞いてみたい。
本作のテーマは“A Woman in Trouble”ということで、まあそれは、『ブルー・ベルベット』以来のリンチお馴染みのテーマではなかろうか。また、この作品にもリンチ映画に欠かせない要素としてのドッペルゲンガーがある。今回の作品でもハリウッドの女優ニッキーと彼女が演じる映画内映画の主人公スーザンのローラ・ダーン演じるダブル・ロールを巡り作品は展開し、この映画内映画のオリジナル作品が実は別のポーランド映画なのだという設定で、パラレルに虚実ないまぜのポーランドを舞台としたロスト・ウーマンなる謎の女性を軸とした物語も捩れた形で絡み合う。
『ロスト・ハイウェイ』では、ジャズ・サックス奏者のフレッドと自動車整備工のビートが謎のファム・ファタル、レネエとアリス(映画ではパトリシア・アークェットの二役)を蝶番として主体を相互に転移させた。また『マルホランド・ドライブ』では、謎の記憶喪失の女リタを巡り、ハリウッド女優の卵のベティといつまでも日の目を見ない女優志願のダイアン(映画ではナオミ・ワッツの二役)が歪んだ鏡の世界に彷徨い込むように入れ替わってしまう。
『インランド・エンパイア』はこれら先行する映画の構造をより複雑にし、時空間や記憶、存在の光と闇を交差させ縒り合わせることで悪夢のごとくイマジネールな光景を次から次へとわたしたちの眼前に映し出すのだが、それがなんとも快感なのだ(もちろん不快だという人もたくさんいるだろう)。
誰かがデヴィッド・リンチのことを「アメリカン・シュールレアリスト」と呼んでいたということをどこかで読んだが、そう言われて初めてリンチはアメリカ人だったのだなと気がついたり、確かにいまだにシュールレアリストなんだなと感心してしまう。シュールレアリズムだからオートマチックに夢や潜在意識にアドホックにつながってしまうのだし、そこには多少ダダイズムの要素もあるから、支離滅裂なところもあって笑いの要素も味付けされる。音楽もノイジーでダダっぽい。
“A Woman in Love and Trouble”だからというわけでもないが、この映画では結構泣けた。前作のマルホも同じような主題で、ちょっと泣ける映画だった。しかし、この作品はもっと強力だ。それはローラ・ダーンの迫真の演技に負うところが大きい。単に顔がすごいということもある。一番泣けたのは、NAE達が出てきておしゃべりしているうちに、スーザンが息絶えるところ。そこから画面が引きながら他のキャストが舞台を退き死んだローラ・ダーンが一人ぽつんと残されるのだが、カメラが上方にパンすると別の撮影用のカメラがフレーム・インし、これは何?神の視線の具現化なのか、まるで『ダンサー・イン・ザ・ダーク』かと思いきや、ローラ・ダーンが再び別人のように生き返りふらふらと歩き出すところがなんとも悲しくも恐ろしかったのだった。これを見つめるロスト・ウーマンの涙は正真正銘の涙だったに違いない。
と、わけのわからないことを書き綴ってきたのだけれど、女性が見たらこの映画はどんな感じなのだろうか。単なる荒唐無稽なイメージの連鎖に過ぎないのか、それとも無意識と記憶に深く訴えかけるところがあるのだろうか。“A Woman in Love and Trouble”という主題は、ある意味で映画の王道ともいえるわけだけれども、それがここまで風変わりなものになった場合の受容のされ方というのが興味深いところ。
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2007/5/3
4月は結局1回しか更新できませんでした。ようやく連休モードに入り、少しほっとしています。この間、いろいろと書きたいこともあったのですが、なかなか落ち着かなくて書けずにいました。さて、なにから書き始めよう。やはり、前回に引き続き・・・ということで、上野洋子さんのDVDです。
今回、当のライヴを映像で見るにつけ、最強のメンバーによる最高のバンド・アンサンブルだった、それに全く引けをとらない上野洋子の強靭なヴォーカルだった、それを目の当たりにできたわたしは全く幸せだった、というようなことを再確認した次第です。
映像で見ると皆さんほんとにいろいろな楽器を持ち替えて頑張ってます。上野さんは、アコーディオンにブズーキ、ティン・ホイッスル、縦笛、鈴。クジラさんはコーラスでハモりながらのヴァイオリンやマンドリン、トランペット。棚谷さんはアコーディオンを抱えながらのキーボードで、海沼さんのヴァイヴやスティールドラムも利いてるし、仙波さんもいろんな効果音を供給しています。鬼怒さんもそこここで複雑なピッキングが大変そうです。「対角線」とか「猫の地図」とか、聴くだけだと何気ない曲が演奏はどれも難しそうで、皆さん譜面を見ながら個々の演奏に集中せざるをえない状態が続きます。メドレー紹介で、曲の並びに脈絡はないけれどどの曲も複雑で難しいのですという上野さんの言葉に仙波さんが「やめてくれーっ」と悲鳴を上げていたほどですからね。
CDでは聴けない「Hide in the Bush」もDVDには無事納められ、これがバンド・アンサンブルで非常にかっこよくプログレッシヴな仕上がりになっていて、原曲を凌駕しています。そしてDVDには鈴木慶一さんと新居昭乃さんのインタヴューがあります。新居さんもアルバムでは聴いていましたけれど、素はこんな方だったのですね。
鈴木さんが「カモメの断崖、黒いリムジン」の曲のモティーフを説明していたのが興味深かったです。昔の映画の景色とマンディアルグの「断崖のオペラ」、ザ・バーズの「8マイルズ・ハイ」に触発されて詩が出来たとのこと。うろ覚えですが「断崖のオペラ」は確かに印象的な短編です。間違いでなければ地中海の凄く眩しくて鮮やかなイメージがありますけど、少し曲の印象とはちがいます。「8マイルズ・ハイ」は、原曲は知りませんが、先頃紙ジャケ化されたスティーヴ・ヒレッジがカバーしていて、サイケでカッコいい曲です。
それにしても、この曲が大駱駝鑑とのコラボだったのですね、うーん、白虎社じゃなくてホッとしましたが、正直、ちょっと合わないかも。どうせなら麿さんにも出てきてもらいたかったですね。それとも断崖なんだから、高いところから吊り下げられるイメージでいけば山海塾でしょうか。
DVDが撮られた東京のライヴハウス、大阪のときよりも二まわりほど大きそうです。ゆったりとしていて羨ましいですが、すし詰め状態の大阪の、近い距離感も捨て難いかな。PFMのときの大阪ブルーノートと川崎クラブチッタの距離感の違いくらい?3m先の鍵盤の上のプレモリの指使いが見られる、みたいな。目線のすぐ先に歌う上野さんがいる、みたいな。
嬉しいことに、6月にまた上野さんの生声を聞くことが出来そうです。場所は京都。主役は日本プログレ界の重鎮難波弘之 さんで、上野さんはサポートメンバーに名を連ねています。今回のメンバーの仙波さんと鬼怒さんも一緒です。楽しみです。
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2006/10/28
これから述べることは、先の記述とはおよそ関係がない。つまりはなんの意味も無い話である。このところ、あちらこちらで川の風景を見る機会が多く、そこで巡り合った風景について何かここで書いてみようかなと、最近デジカメで撮った一連の写真を見直していたのだけれど、そのなかに川とは何の関係もない写真が目についた。それは都心の古い建物の写真だったのだが、そのツタの絡んだ壁面のレトロな雰囲気に興趣をそそられ、何枚か写真をとっていたのだった。下がそのうちの2枚の写真である。
今日、そのうちの一枚を何とはなしに眺めていて気がついたことがあった。写真を撮ったのは、9月の中旬で、そのころのわたしの頭の隅には、当時公開されていた黒沢清の『LOFT』のことが少なからずあって、それはこの日記の9月11日 と9月23日 のところにも書いたとおりである。とくに、9月23日の日記にはその映画についての感想も書いて、私にとってのその映画における映像のクライマックス にも言及した。『LOFT』を見たのは9月22日、写真を撮ったのは9月17日、どうやら映画のクライマックスは、予告として、あらかじめ私のもとに早々に訪れていたようである。『LOFT』を見なければ、おそらくこの写真がわたしの意識に働きかけることもなかっただろう。
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2006/10/28
偶然の一致については、ポール・オースターもよく彼の文学作品の主題とするところであり、それが彼の作品の魅力の一面にもなっているのだが、実際それが自分の身の回りで起こることはほとんどなく、起こったとしてもそこに何か意味を見出すというほどのこともない。それでもそれは、なかなか神秘的で謎めいた現象にも感じられるので、ささいな偶然の一致とかタイミングのいい出会い、気になっていたことが思いもかけないところから表面化する、といったことがらに対してはわたし自身はただ面白半分に嬉しがるくらいだろうか。
これら一連のことをシンクロニシティと呼んでもいいのだが、本来的には、それはわたしという存在が未知の潮流の中にあって、知らず知らずのうちにわたしたちはより大きな存在の見えざる手で導かれており、まれにそういった現象を通じてわたしたちに運命の導きやそういった存在の気配を垣間見させるのだ、という解釈もあるだろう。
あのときの自分の些細な行動が、ちょっとした選択が、偶然の出会いが、目覚めの後妙に印象に残った夢が、その他もろもろの過去のワンポイントが、その後の自分の来し方のなかで思いもかけない意味を持っていた、ということがあるとすれば、そのときおそらくわたしたちはシンクロニシティの圏域に踏み込んでいるのだ。
現実は小説なり奇なり、とよくいわれることである。そもそも現実というのは奇なることばかりであって、わたしたちはそれに気づいていないか鈍感になっているだけなのかも知れない。日々当たり前の生活の中で、疑問も不満もなく過ごしているならば、そんなことは気にもならない。逆に、志向性を有したある種の研ぎ澄まされた精神においては、シンクロニシティな感覚が繰り返されるのかも知れない。意味は、意味を見出そうとするもののところへ到来する。
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