忘却の川へ流れ去る諸々をしばしこの岸辺に繋ぎとめて..日記についての日記、もしくは不在の人への手紙。
2009/9/1
富岡港から国道を南下することおよそ20km、先の崎津の天主堂の手前5kにその天主堂はあった。トンネルを抜けると谷沿いに地形が開け、右手の集落の背後,小高い丘の上にすっくと白亜の天主堂が建っていた。快晴の空の下その建物は白く輝いていた。大江の集落はその天主堂の足下にひざまずく信徒のように落ち着いた佇まいを見せていた。カーブのアプローチの坂道を上っていくにつれ、その建物の存在感と美しさが増していく。
駐車場で車を降りて建物を仰ぎ見れば、その天主堂は太陽を背に受けて後光を発するようだ。とても眩しい。堂までの小径の周囲は手入れも行き届いて色とりどりの草花が植えられ、この堂が人々から愛されていることがわかる。
天草では徳川の禁教時代にも隠れキリシタンの村人たちによって信仰が受け継がれてきたが、明治になり禁制が解かれて再び布教が行われるようになった。この天主堂は明治18年に25歳で宣教師としてこの地を訪れたフランス人の神父が私費を投じて建てたものだという。
崎津の天主堂が水辺の石造りの重厚なゴシック様式であるのと対照的に、ここ大江の天主堂は木造白漆喰のロマネスク様式。丘の上からいまにも天に向って羽ばたきそうな軽やかなイメージの建物である。ステンドグラスや薔薇窓から光が射す室内が非常に明るくて美しい。堂内は写真撮影禁止なので紹介できないのが残念なのだが、祭壇の上に飾られた聖画や天井の装飾も非常にカラフルで愛らしく、そこにいるだけで心が浄化されるような感じを受けた。
崎津の天主堂と大江の天主堂、この二つの天主堂はどちらもたいへん素晴らしかったのだが、それらを見たこちらのタイミングもあるのだろうけれど、周囲のロケーションや建物の様式、周辺のアトモスフェアや色彩といった点で受けるイメージは全く対照的、まるで月と太陽のようだ。

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2009/8/29
早朝、久留米を車で出発して熊本県の宇土経由で天草に入り、上島・下島と海岸線の道を走り、途中温泉浴や海水浴を挟みながら島の南部の天草市河浦町崎津に着いた頃には既に陽が沈みかけていた。
トンネルを抜けて小さな入り江の集落に入ると右手の漁港の背後にその建物は屹立していた。それは前面に青々とした入り江の水面を抱え、緑の半島を背に水平にひろがる漁村の家並の中心にあって垂直に天を指していた。緑と青の間で家並と天主堂が調和的な景観を構成しひとつの小さな宇宙をかたちづくっている。

対岸に宿をとり、ぶらりと村のほうへ歩いて出かけた頃には既に夕闇が迫っていた。海岸沿いの通りの両側に家が軒を連ね、それぞれ夕餉を向かえているのだろう。人通りのない道で私たちの靴音だけが響いている。ゴッシク風のその天主堂は、残照を背に受けてそびえ建っている。
帰り道、ある一軒の玄関先でガラス越しに眼をやると、居間にキリストのイコンと桐の十字架の聖壇が祀られているのが見えた。厳しい迫害の歴史を乗り越えて今もクリスチャンの信仰がここでは根づいているのだろう。老婦人が独りできりもりする宿で見せてもらった村の航空写真。天主堂を中心に漁港と集落が仲睦まじく寄り添い親密な世界を構成しているのがそれをみるとよくわかる。
わたしも友も旅の疲れでその夜は酒もそこそこにすぐ寝ついてしまった。おかげで眼が覚めたのは夜明け前、見晴らしの良い二階の窓から入り江を挟んで正面に天主堂が見える。
なんて静かな、そしてなんて美しい光景なのだろう。半島の上では西に傾きかけた月が煌々と光を照射し、静かな入り江の水面を照らしている。8月6日のその夜が7月の新月、つまり皆既日食の次の満月だったことに気づく。太陽の光を隠した月が今は太陽の光を真正面に受けて、入り江と天主堂に神秘的な光を投げかけているのだった。


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2007/9/23
子供の頃、住んでいたその山のあたりは、今から思えば不思議な場所だった。
住んでいた土地は別荘開発地のようなところで、はっきりとした区画もなく、ぽつんぽつんと柿畑のなかによそから住み着いた人たちの質素な家屋が点在していた。僕たち家族も都会から流れついたよそ者だった。村と山の境界辺り、家の前の道は「山の辺の道」と名づけられていた。昔住んでいた家は、今も建替えられてその場所にある。
当時、近所にはなぜか一人暮らしの女性が多く、彼女たちはいわゆる霊能者だったようだ。その山は大和の聖地、全ての神社の始原となる最古の神社がこの山の麓に座している。そんなところが、そういった性格の人たちを呼んだのだろうか。そんな人たちもいつのまにかいなくなり、家屋だけが今でもぽつんと残っていたりする。
昔、私の家のさらに山のほうに入り込んだところに、一人の女性が猫といっしょに住んでいた。こぎれいな身なりをしたご婦人で、東京から季節ごとに訪れては、彼女もやはりそのような性格の人だったのか、修行をしたり人の相談を受けたりしていたようだ。池のほとりに庵のような家を建て、その奥は果樹園や雑木林が広がっていた。子供心に、そんなところで住んで怖くないのかなと思った。また、そんな彼女が少し気味悪かった。その人の家は今はどうなっているのだろうと少し寄り道して細い山道に分け入った。
すると、目の前に意外な風景が広がった。何もかもきれいさっぱりなくなっていたのだ。池も家屋も果樹園も林も、きれいさっぱりなくなっていた。かすかに地形に名残りをとどめながら草原の更地となっていた。後に両親に確かめてみれば、「こんな恐ろしいところにはもう住めない」といって僕たちが引っ越した後にさっさと引き払って出て行ったという話だ。霊能者でも我慢できないくらいの何か怖い目にあったのだろうか。
今はなんだかぽっかりと空いた不思議な風景のなかで、その山だけが存在感を増しているようだった。


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2007/9/22
昼下がり、今も厳しい残暑のなかで、過ぎ去った夏を感じる。
暑くとも過ぎてしまえば短かいおきまりの夏。ぼんやりしながら思い出す、季節の風景。

お盆休みに、子供の頃住んでいた場所を久しぶりに訪ねた。
大和平野の東のへりのある山のふもとに、幼稚園から小学校のほぼ終わりまで住んでいた。
夏になれば、野山駆け回り、川で泳いだ。
昔の記憶を辿り、子供の頃泳いだ山間の川を訪ねた。
昔も渓流とまではいかなかったけれど、泳いで顔を上げれば眼の前をすいすいと蛇が泳いでいたりもした自然そのものの川だった。
現在では、砂防工事が行われたのか垂直な護岸が整備され水辺まではなかなか近寄りがたくなっていた。
ようやく、藪の中を掻き分けて水辺に辿りつき、そこからしばらく裸足になって沢を下った。
昔と変わらず水量は豊かで水は冷たい。流れを分けている飛び石伝いに一歩一歩足底を確かめながら転ばないように歩いていく。裸足で歩くのも久しぶりだし、足裏が痛くて裸足で歩くのに非常に不器用になってしまっていることに気づく。
日常生活で忘れきっていた体感やバランス感覚が蘇り、山登りで熱を持っていた足の甲やふくらはぎが急速に冷やされていくのがわかり、気持ちいい。水の流れは変わらないのだろうけれど、こんなところにも、いやこんなところだからこそだろうか粗大ごみが多く捨てられていて、足の踏み場に神経を使うのだった。
200mほど下って堰堤のところからもとの山道に戻った。
冷たい水が吸い取ってくれたのか、川石の足裏マッサージのおかげか、歩き出すと足の疲れはすっきりと消えているのだった。

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