近世において日本と朝鮮の船が遭難し、他国に漂着した場合には、相互に漂着民を送還する制度が確立されていた。「近世日本と朝鮮漂流民」(池内敏著)は朝鮮の船が日本に漂着した事例をテーマにしてこの制度を詳細に教えてくれる。
記録によれば、1599-1872年の間に朝鮮人の日本漂着件数は971件(9770人)に及ぶ。日本漂着を地域別に見ると、対馬36%、肥前20%、長門19%、石見・出雲11%、筑前6%、薩摩・大隅3%の順になるが、なかには遠く蝦夷地まで漂流し送還された事例もある。
朝鮮への送還は対馬を経由することが15世紀ごろには制度化されており、送還のための費用は相手国側が負担するルールになっていたので、その費用を誰が負担するかは大きな問題であった。例えば、長門の国への漂着民を対馬まで送られたとき、その費用を長門、対馬どちらが負担するのか。朝鮮との貿易は対馬がほぼ独占していたので各藩にとっては送還によるメリットがないこともあって諸問題が生じたという。
しかい、費用負担の問題も江戸時代には漂着民の長崎廻送が始まり負担区分が次のように定まった(1640年)。
漂着地から→領主まで(浦方)、領地→長崎奉行所(各領主)、長崎→対馬(幕府)、対馬→釜山倭館(対馬藩)。※対馬島に漂着した場合は直接釜山へ。
三方一両損の裁きみたいだが、朝鮮貿易を独占していた対馬藩にとっては有難い取り決めだった。

対馬まで護送された漂着民は対馬藩が最終的に事情聴取し、その後釜山まで送られた。写真のコンクリート護岸の場所は送還するまでの間、漂着民を留め置いた”漂民屋”跡。

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