紀貫之が土佐守の任期を終え帰京の旅に出たのは934年12月21日のこと。船旅の始まりの大津発(12月27日)から土佐泊(1月30日)四国から紀伊半島へ渡るまでの行程は次の通りです。
大津→6浦戸(1)→11大湊(10)→36奈半(2)→21室津(6)→3津呂(4)→33野根(1)→38日和佐(4)→35答島(3)→48土佐泊(1)
※地名の左側の数字は各地間の距離、右側()内は停泊日数。大津から土佐泊までの総距離は231km。なお土佐日記の停泊地については諸説があります。
上記旅程からすぐに見えることは、まず1日の航行距離が15km以下の場合ですがこれは出発時間の関係や天候の急変などによるものでこれはシーカヤックツーリングでもよくあることです。また奈半〜室津間21km、室津を過ぎると野根まで距離がありすぎるので室津泊は不可避です。これらを除くと1日35km〜48kmでシーカヤックと同程度またはやや短い。なお「土佐日記の地理的研究」によると大湊〜奈半間
40kmを航海時間14〜15時間、時速2.7km〜2.8kmと試算してありますが、これだとカヤックの半分程度の速さですから随分と遅いものです。
もう一つは停滞日数がすごく多いことです。大湊で10泊、室津と津呂合わせて10泊していますが、いずれも強風により停滞です。真冬の四国南岸は北からの風に流され、そして黒潮に乗ってしまえば太平洋の遥かかなへとなります。帰京の時期を初夏にすればよかったのでは、などと人ごとながら考えてしまいますが、いずれにしろ遭難に加えて海賊への恐怖、昔の船旅は本当に命がけだったようです。
「難波に着きて、河尻に入る。みな人々、嫗、翁、額に手を当てて喜ぶこと二つなし」
海路が終わった時の喜びの様子です。

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