
爆心地公園には様々な記念碑がありますが、異色なものでは二つの石の灯籠があります。この灯籠は爆心地から南へ約1500mの小高い丘にある聖徳寺にあった灯籠です。原爆で寺の建物は崩壊し、石塔や墓石もほとんど倒れましたがこの灯籠だけが倒れず残ったといいます。案内板に「この灯籠は原爆の惨状を伝えるものとして聖徳寺より寄贈を受け、1949年2月にこの場所に移された」とあります。

被爆後の聖徳寺の惨状です。
話変わって、江戸時代には様々なキリスト教信者への弾圧がおこなわれていますが、最後の弾圧として有名な浦上四番崩れには浦上の旦那寺であった聖徳寺が関係しています。江戸時代にも浦上にはキリシタンが大勢潜伏していて聖徳寺の檀家となっていました。1864年に大浦天主堂ができフランス人の宣教師に接することとなり、1867年になって一人の信者が聖徳寺との関係を絶ってお寺での葬式をしないで自葬したことが発端となって浦上四番崩れが起こったからです。
この事件は明治政府も引き継いで、1869年に浦上のキリシタン約3,400名を各藩に配流し1873年に帰村を許されて浦上に戻ってきたものが約1900名に過ぎなかったといいますから、その弾圧のすさまじさが感じられます。
ところで最近になって聖徳寺は大河ドラマ・龍馬伝で注目を浴びています。龍馬の海援隊のいろは丸と紀州藩の明光丸が瀬戸内海の六島付近で衝突し、沈没した”いろは丸”の海難交渉が長崎で行われています。番組では、紀州藩と龍馬側の談判の場所が「長崎聖徳寺」で行われたと解説しているからです。もっともテレビを見ていないので、昨日ネットで聖徳寺を調べていてこのことについて初めて知りました。
しかし、長崎では談判の場所は唐四寺の一つ聖福寺というの有力説です。はたしてどちらが正しいのでしょうか。

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