
江戸時代に日中貿易に従事した中国人の居住地である唐人屋敷界隈を歩き回りました。周囲の丘をアップダウンしながら、敷地跡全体が撮れる地点を探しましたが意外と見つりません。数枚の中で比較的全景が見えるのがこの写真で、唐人屋敷の敷地は黄色線で囲まれたところです。

当時の面影は残っていませんが、それでも敷地跡には天后堂(写真)・土神堂・観音堂など明治時代に修復改修された建物があります。

唐人屋敷の境界を示す”4隅モニュメント”。この標識を探し歩けば唐人屋敷の広さや地形を体感することができます。

丸山応挙(1733-95)の作として伝えられている「長崎港之図(部分)」(長崎歴史文化博物館蔵)。
エキゾティックな景観ですね。真ん中下に出島、その左(南方向)の丘の斜面に唐人屋敷およびその海側に唐人屋敷の新地土蔵が鮮やかに描かれています。明治以降の長崎港の埋め立てにより出島・新地周辺はすっかり地形が変わってしまっています。共に陸続きになってしまった今よりも当時の方がお隣さんといった感じです。

「唐人屋敷景」(富島屋版、神戸市立博物館蔵)。
日中貿易に従事する中国人の居留地・唐人屋敷は1688年から建設され翌年に完成。敷地はだんだんと拡張されてそうで最終的には約3万6千uで出島の約2.4倍の面積となります。ここに入港した”唐人”が数ヶ月間滞在するわけで、多い時には2〜3千人にも達したといいます。出島のオランダ商館の居住者数27人(1687年)と比較するまでもなく、唐人屋敷はすさまじい過密空間でした。

長崎版画「唐館部屋の図」
もっとも大部屋にぎゅうぎゅう詰めで雑居していたのは一般船乗りたちで、船主などの裕福な階層は立派な構えの個室に住んでいたようです。唐人屋敷への遊女の出入りが認められ版画にもその模様が残っています。

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