
出島はもともと来航ポルトガル人を隔離収容するために埋め立て築造された人工島で1936年に完成しましたが、翌37年に島原の乱が起こったことなどから江戸幕府はポルトガル人の追放と渡航禁止を決定しました。オランダがキリスト教新教国であり日本でのキリスト教布教をしないということから、オランダは1641年にその貿易の拠点を平戸から出島に移しました。以後安政の開国までの約220年間、オランダ東印度会社(VOC)日本支店であるオランダ商館は日本とヨーロッパを結ぶ経済・文化の交流拠点として日本の近代化に大きな功績を果たしました。
出島の面積・規模は総面積:15,395u、外周:564m、南側:233m、北側:190m、東・西側:70mで、その形状は長辺に当たる北・南側がいわゆる扇形といわれるような曲線を描いています。
しかし明治の中頃に周囲が埋め立てられ、さらに中島川変流工事により北側が15mほど削られており往時の面影がなくなりましたが、長崎市では2050年を目標年度として出島復元に努めています。1922年に国の史跡に指定されています。

2