【13 黒粒羊歯の渡し場】
八日経った。
そのミリの刻も終わり頃。
ケゾの木が立ち並ぶ下り坂のはずれに黒粒羊歯の渡し場はある。近くの民家はその坂を登ってもういちど降りたところにあって、客が行き来しない時刻ともなればこのあたりはまったく静かになる。
その渡し場にひと組の男女がやって来た。
ンクララさまとコウマイだ。コウマイはもちろん満面の笑み。ンクララさまもコウマイとちらちらと視線を交わしつつ上品な笑みを浮かべている。偽りの祝言をあげるふたりとは思えない。知らなければごく幸せな言い交わした男女二人に見えるだろう。女は怖い。
僕ら――つまりイルどのや守護団の面々、そしてミスナさんは、桟橋につないである舟や、渡し場の船頭小屋の物置の影などに身を隠して様子を窺っていた。
すでに船頭小屋には神人姿の男が半刻ほどまえにやってきていた。なるほど、仮とはいえ婚姻の儀式をおこなうには神人は必要だ。だがその神人を見てニイコハチは吐き捨てた。
「なにが神人なもんですか、奴ぁかみつきのネボラ。質の悪いちんぴらでさあ」
本当に神人を呼んで、仮とはいえ儀式を行ってしまえば神がそれを知るところになる。婚礼を司ると言われるミトゥンは婚礼の誓いを破ることをひどく嫌うのだ。寛容、柔和で知られるミトゥンも、いったん怒り出せばミリ女神の癇癪以上の祟りをなすいう言い伝えもある。そうでなくとも本当に神人を頼めば、どこかかしらこの祝言のことがほかへ漏れないとも限らない。
恋に目の眩んだ娘ならばいざしらず、コウマイのやることは明らかに嘘、相手を騙そうとしているだけだ。そういう危険は避けたいのだろう。やっぱりどうにもいけすかない男だ。
ふたりは船頭小屋の中に入っていった。
さあ、お芝居の始まりだ。僕らは目配せしあって、ゆっくりと船頭小屋へと近づいていった。
アンサの刻が近づいている。季節柄、急速に日は傾いて周囲は暗くなっていっている。
足音を殺して船頭小屋の入り口までやってくると、もう婚姻の儀式は始まっているらしく、ぶつぶつとなにやら唱える声がした。
いい頃合いだろう、僕はすぐ背後からついてきているミスナさんに目で合図をした。硬い表情をしたミスナさんはぎこちなく前に出ると、ゆっくりと戸を開けた。もちろん僕やイルどのの出番はコウマイが自白をしたあとのことだから、彼女ひとりにいってもらわなければならない。僕は見つからないように戸板の影から船頭小屋の中を覗き見た。
ミスナさんが入っていったのに、最初コウマイたちは気づかなかったようだ。最初に神人のふりをしたネボラがわあと声をあげた。
「わっ、若旦那! あ、あっ、あの娘です!」
続けてコウマイも驚いたうめき声をあげた。影から覗き見る僕にはなんとなく室内の様子が見えているものの、細かいところはまるで見えていないから、彼がどんな顔をしているかはわからなかった。
「コウマイさま、あたしと夫婦になってくださるはずだのに……どうしてほかの女と祝言なんか……」
淡々とミスナさんが言う。このあたりはあらかじめの打ち合わせの通りだ。
それを聞いたネボラがまた叫ぶ。
「お、お前死んだはずじゃ……、だってお前は俺が……」
「黙れネボラ!」
コウマイがネボラを怒鳴りつけた。
「だ、だって若旦那……」
「いいから黙ってろ。こいつはキユナじゃない。あの娘は死んだんだ、知ってるぞ。お前は、キユナの双子の妹だろう」
「…………!」
背中だけ見ていてもミスナさんが大きく動揺するのがわかった。
くそ、失敗か。悔しさに腹の奥がぎゅうっと締めつけられるようだ。
ミスナさんの動揺を見て取ったコウマイはさらに言い募る。
「なんのつもりか知らないが、お前の姉が死んだのは、ありゃあ勝手だ。身投げなんだ。逆恨みで俺の祝言を邪魔しないでもらおうか」
「あ、あんたが殺したくせに! あんたがあたしのお姉ちゃんを殺して川に沈めたくせに! 逆恨みなもんか、人殺し! 人殺し!」
「勝手なことをほざくな。おいネボラ、ちょっとそいつをどこかへ連れて行ってくれ。暴れるなら少しくらい痛い目をみせてもいいぞ。ああンクララすまなかったね、とんだ邪魔が入った。どこかふたりで静かになれる場所に行こう。そうそう、この先に宿をとってあるんだ。そこなら朝までふたりで……」
「どうかコウマイさま。最後まで儀式を続けてくださいな……」
ンクララさまの声はかすれるように小さかったけれど、戸板のこちら側にいる僕にもはっきりと聞こえた。
「そ、そうは言っても邪魔が入っちまったし……また今度にしよう、今度に。な?」
「いやです。だって、ずっと夢だったんですもの、コウマイさまと祝言をあげるのが。あとから来てくださるというから、ずっと待っていたんですよ……」
「なにを言ってるんだい、あとからもなにもこうしていっしょにいるじゃないか」
「いいえ今の話じゃありません。コウマイさまがあたしといっしょに川へ身を投げて、ラノートの元で夫婦になろうとおっしゃってくださった夜のことですよ。あの日からあたし、ずっとずっと待っていたんですから。こうしてコウマイさまと祝言をあげられる日のことを……」
「お前、誰だっ? 何者だっ」
ンクララさまはコウマイの叫びには答えなかった。代わりにミスナさんに向かってこんなことを言った。その声はンクララさまのものではあり得なかった。
「ミスナ。お姉ちゃんね、このひとといっしょになるのよ。コウマイさまの女房になるの。よかったわ、あんたも来てくれて。あたしきっと幸せになるから……」
「お姉ちゃんっ!」
くぐもったコウマイの悲鳴が聞こえたのはその直後だった。
僕やイルどのが船頭小屋に飛び込んだときには、その場にいるのは土間にへたり込んだミスナさん、頭を抱えてうずくまっているネボラ。そして目をかっと見開いてずぶ濡れで息絶えているコウマイだけだった。
「ンクララさまは……」
なにが起こったかはよくわからない。だがミスナさんはずっと泣きじゃくりながら「あれは姉でした、確かに姉でした」と繰り返した。
ラカミさん乗った馬でンクララさまがいっしょにやって来たのは一クリクほどあとのことだった。コウマイとの待ち合わせの場所まで行く渡し船がどうしたわけかなかなか目的の渡し場までたどり着けず、結局たどり着いた時にはコウマイの姿はすでになかったので、急いでここまでやって来たのだという。
「じゃああのンクララさまは誰だったんだ……」
答ははっきりしているような気もしたが、それをはっきり言うのははばかられた。
つづく
『聖都物語』のほかのおはなしと、舞台となる世界カナンについてはこちらに詳しく載っています。
http://imaginary-fleet.sakura.ne.jp/ca/main.html

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