「苛烈なる忠誠」
大ハンムーのタリク王の愛妃トーセイは、その忠烈なるところで知られているが、その出身は〈名乗り領主〉だった。
戦乱争いの絶えないカナンにおいて、主要な大国、いわゆる五王国が定まって後も、各地では争いが絶えることなく、勢を増した雄が自ら領主を名乗ることも少なくなかった。古来より土地を治める領主、小王たちに対して、こうした新しい領主のことを〈名乗り領主〉を通称していたのである。
〈名乗り領主〉は、一代で国を手に入れたその出自から一般に武を持って尊しとする気風が強く、ほかの王たちからは野蛮、凶暴、忠誠信義に欠ける輩と蔑まれてきた。そうした見方は自らの領地を彼らによっていつなんどき奪われるかもしれない、という怖れの現れでもあったろう。実際、旧来の領主を倒して新たに〈名乗り領主〉となった小王も少なくなかったのは確かだ。
こうした上下の定まらぬ情勢は、五王国時代のハンムーでも同じであり、クラビク大王の改革が一定の領主たちに受け入れられたのもこうした下克上的情勢の沈静を願うところがあったからだろう。当時の彼らはなにより安定をこそ望んだのである。
トーセイの父〈傷頭〉ボガウヌは、「最後の〈名乗り領主〉」とも呼ばれる、クラビク大王の改革時期に領主として名乗りをあげた人物だ。
彼はハンムーを二分する改革の嵐の中、クラビク大王の側につき、その功あって領地を倍増され「赤戟将」の名まで賜ることとなった。
これをして、「いかにも〈名乗り領主〉のやりそうなこと。利にさとい、忠誠という言葉を知らぬ野蛮人よ」とそしる声もあった。むろん、クラビク大王が在位中はそうした声は抑えられていたものの、次代のタリク王が即位してからはいよいよそうした声は大きくなった。
タリク王の治世にあって再び四分五裂する大ハンムー。
各勢力はボガウヌをはじめとする〈名乗り領主〉たちを味方につけようと躍起になった。評判通りに先の戦とは異なる陣営に与した〈名乗り領主〉たちも多かった中、しかしボガウヌは諸勢力の中で決して大きくなかったタリクに味方し続けた。
彼の忠誠は、しかし報われなかったと言っていい。
宮廷の重臣たちは軍を率いて撃って出たボガウヌに、支援らしい支援をせず、彼は孤立無援のまま討ち死にを遂げてしまったのだ。
だが、父親の忠誠心は死したのちに、娘に受け継がれた。
タリクが重臣たちからおのが手に主導権を取り戻し(「朱杖の令」)、反攻する勢力を次々に征討していくなか、常にその先陣を切ったのがトーセイであった。
女ながらに長刀ひとふり、十人のさむらいを一瞬に屠ったと言われる無双の豪傑ぶりで、タリク王がハンムーを再統一する道を切りひらいたのである。
だが、叛徒に奪われた故郷シュンディルへの征途の途上、不幸にも討ち死にを遂げてしまう。
このトーセイ最後の戦いが『赤きシュン湖』の物語となって、変わらぬ忠誠を象徴するものとして語られているのは多くのひとが知る通りである。
後にタリク王によって取り戻されたシュンディルには、トーセイを小さき神として祀る神殿が建てられた。

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