「さよならは言わないよ」 「俺もだ」





  こちらは HN:やや矢野屋 による
  アニメの感想と二次創作小説・イラスト掲載のブログです
  「宇宙戦艦ヤマト」がメイン 他に「マイマイ新子と千年の魔法」など

2014/9/1

【企画】宇宙戦艦ヤマト放映40周年を祝おう!  宇宙戦艦ヤマト

第一作「宇宙戦艦ヤマト」放映40周年の記念に何か出来ないかなと考えまして、pixivで企画を提案しました。


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【企画】宇宙戦艦ヤマト放映40周年を祝おう! | やや矢野屋 [pixiv] http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=45710676

第一作「宇宙戦艦ヤマト」放映開始40周年をpixivユーザーの皆様と一緒に祝いたい!と考え、僭越ながら企画を提案いたします。
ヤマトに関するメカ・キャラ・キャストやスタッフ等、大作からネタ落書きまで何でもどうぞ!ただし、40周年を祝う趣旨から、題材は「第一作ヤマト」に限定させてください。
参加方法はいつもの作品タグ「宇宙戦艦ヤマト」に加え、「ヤマト40周年」(数字は半角)を付けていただくだけです。
このイラストにイメージレスポンスを設定していただくと、他の方にも趣旨が伝わりやすいかと思います。
「宇宙戦艦ヤマト」への愛と祝賀と感謝をこめて、どうぞお気軽にご参加ください!

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引用ここまで。

こういうの、私のようなヘッポコが提案していいのだろうかと躊躇う気持ちは強かったのですが、他人様のアクションを口開けて待ってるのはイカンと思い、蛮勇奮いました。
でも、テーマや期間設定が適切なのか、リサーチ不足や不備があるんじゃないか、正直、今もものすごく不安です。
だから、pixivやTwitterでさっそく参加表明してくださった方、ブクマやリツイートしてくださった方には、本当に感謝しています。
ありがとうございます!
フライング一ヶ月+40年前の放映期間六ヶ月、合計約七ヶ月のイベントではありますが、たくさんの人が第一作ヤマトを振り返り、ヤマトと出会えた喜びや感動を形にして下さったら、とても嬉しいです。


※こちらのブログをご覧くださっている方で、pixivのユーザーさんがいらっしゃいましたら、是非ご参加ください!
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2014/8/26

ヤマト式敬礼  宇宙戦艦ヤマト

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※ツイッターに書いた内容を、こちらにも記録。


第一作敬礼ポーズの古代進。さらば以降と違うのは、肘を上げずに手の腹を胸に当てているところ。

第一作「宇宙戦艦ヤマト」の敬礼描写は非常に理に適っていて、帽子を被っている沖田や古代守は挙手の礼をとり、無帽の一般乗組員は胸に手を当てるヤマト式敬礼を行う。帽子を被っている作業員も挙手の礼をしているので、ちゃんと意識して描き分けられているのがわかる。

要するに、「頭を下げる敬礼」の代わりに「ヤマト式敬礼」を行っているのですね。「無帽で挙手の礼」は間違っている、でも演出的にお辞儀はやらせにくい、そんなところから考案されたのが「ヤマト式敬礼」なのかも。

例外は最終話の佐渡先生。帽子被ってないのに挙手の礼は、本当はおかしい。けど、「あそこはああでなきゃ!」という気持ちは、すごく分かります。
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2012/9/17

「家族の物語」としてのヤマト  宇宙戦艦ヤマト

以前書いた記事( http://sea.ap.teacup.com/yayayanoya/40.html )で述べていた、「家族の物語としてのヤマト」ですが、ボチボチとりかかってみたいと思います。
まずは過去ツイートを転載。




改めてヤマト第一作の10話見てみると、構成の素晴らしさに驚く。古代と沖田艦長が酒を酌み交わさなければならなかったのと同じように、雪は徳川さんの居るところで家族と会話せねばならなかったのだ。この脚本は本当にすごい。
posted at 20:21:19

もしかして脚本の前にアイデア出した人がいるかもしれないけど、その人もすごい。昔の人マジすごい。
posted at 20:22:20

宇宙戦艦ヤマト第一作10話、「歳を重ねてから徳川さんと雪の通信に大きな感銘を受けるようになった」というのはこれまで何度か書いてきたけど、その内容について少し整理が出来たので、述べてみようと思う。
posted at 20:36:08

徳川さんはまず花瓶や写真の調度について煩く小言を言う。そして孫娘アイ子への慈しみをモニターへの頬擦りで表現し、息子夫婦に「アイ子を育てろ、決して希望を失うな」と強く語りかける。このシーンの意味は、「日常の些細な行為の中にこそ生の意味がある」ということでは。
posted at 20:43:00

裏を返せば、「絶望に抗う術は、日々の些細な行為や一日一日を積み重ねる営みの中にしかない」ということではなかろうか。それを象徴的に体現しているのが「子供」なのだろう。徳川さんは、それを必死で息子達に伝えようとする。齢を重ねた者の責務として、心の底から。
posted at 20:48:29

「まだ伝えなくてはならんことが…」と言いつつ、モニターの前で項垂れる徳川さん……もうね、今はこのシーン、涙なくしては観られないんですよ(´;ω;`)ブワッ
posted at 20:51:41

徳川さんの身内愛を大切に描く演出には、新子とお祖父ちゃんの交流に共通するものを感じる。「祖父ちゃんから孫への思い」だから当たり前っちゃ当たり前なんですけど、こういう健全で自然な身内への愛情って、意外と描かれていない気がします。
posted at 20:59:26

雪の通信では、いきなり「お見合い写真」とか「まさか、そのお年寄りの方が…」とか笑いをとる方向に進むのだけど、雪ママの切なる願いも実は徳川さんと同じ「希望の象徴としての子供」なのだと気づいてハッとする。ここすごい、マジすごいオニすごい。
posted at 21:10:29

さらに言えば、雪こそが雪ママにとっての「希望」そのものなんだよね。その最愛の娘が宇宙の彼方にいて、先の見えない不安に直面してるんだよね。「嘘よ!」と泣き崩れる雪ママ。人類が置かれているギリギリの状況を、これほど痛切に表現しているシーンは他に無いです。
posted at 21:16:24

ヤマトが帰ってこなければ、人類の希望は潰える。雪が帰ってこなければ、雪ママの「希望」は潰えてしまう。ヤマトと地球は、遙かな距離を隔ててなお、同じ未来に向かって進んでいる。その切実さも、徳川さんの通信が先にあるからこそ、観る者に強く印象づけられる仕組みになっている。
posted at 21:22:52

そして通信終了間際の雪の台詞、「楽しみにしてるわ。どれだけお見合いの写真が増えてるか…ママ…」……遠く離れていても、ママと同じ希望を抱き、同じ未来を見つめて生きているわ、って言ってるんだよね雪ちゃん……(´;ω;`)ブワッ
posted at 21:28:04




というわけで、まずは徳川さんと雪ちゃんという「地球に家族がいる二人」の交流。
「子供という希望」をキーワードに、地球に残された人々が置かれた厳しい境遇とヤマトの背負う使命の重さを余すところなく描いています。
ヤマトとその乗組員は「地球に残してきた家族のため」に旅をし、「地球の家族と同じ未来を守るため」に、戦いに身を投じる。
「顔の見える存在」として家族を描くことで、彼らを動かしているものが「自己実現」などという矮小な意識ではなく「過去から未来へと繋がり、広がっていく、大きな命の流れ」であることを示す。
その鍵になっているのが、「希望としての子供」なのだということ。
第一作10話が視聴者に印象づけたのは、そうした「地球との精神的紐帯の存在」であり、だからこそ、遠く宇宙を旅するヤマトであっても、常に地球の人々との同時性が途切れることはないんです。

また、このエピソードでは、徳川さんや雪ママの「愛すべき愚かしさ」とでも言うべき「深み」に唸らされます。
特に、熟練の職業人でありヤマトにおいては沖田艦長に次ぐ重鎮である徳川さんが、舅根性丸出しで調度の乱れに小言を言い、孫娘に相好を崩す姿は、「キャラが立つ」などという浅く一面的な人間理解に終始しがちな私たちの世代には表現し得ないものではないかとすら思うのです。

長くなりました。
この物語の中で「家族を持たない二人」、沖田艦長と古代進については、項を改めてお話ししたいと思います。
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2012/9/9

もう何度目かの「さらば」考 from Twitter  宇宙戦艦ヤマト

本日夕方のツイートをこちらにも記録。
たぶんTwitter上では何度か述べてると思うのですが、「第一作沖田艦長と『さらば』の齟齬って別に無いんじゃね?」という話。
異論は当然お有りでしょうが、私の解釈ってコトで。
最後はいつもの斉藤始礼賛で終わっとります(汗)




実写版へのかなりキツイ批判が書いてあると聞き、読んでみたいなと思っていた「ロトさんの本Vol.26」、通販で買いました。まあ「なるほどねえ」というか、同じヤマト第一作を見てたのに、着目点はホントそれぞれ違うもんですねえ。
posted at 15:26:43

あと、あの世代の方々ってどうして「我々はヤマトに対する責任が−」っておっしゃるのか、純粋に不思議。「どんな歳の人がどんなヤマトを観ようと作ろうとイイじゃん別に〜」とか思っちゃう私は不真面目なんですかねーー。
posted at 15:29:40

「さらば」安彦絵になってからは激しく違和感というのは同意ですが、沖田さんがああ言った古代がこうしたというより、それまで映画的だった時間の経過と敵の行動が突然舞台劇調になっちゃったことがキツイです、私は。あそこからイキナリ歌舞伎。まあ「だから安彦絵でないとダメ」なんだろうけど。
posted at 15:32:57

前も言ったと思うんですが、沖田さんは別に「古代お前死んでこい」とは言ってないんですよね。「命ある限り戦え」って言ってんの。「生きていること、それ自体が大きな力なんだ」って。第一作の沖田さんと矛盾しない。その命をどう使うか、それはあくまで第三代ヤマト艦長古代進の判断に任されてる。
posted at 15:36:16

そしてたぶん、「艦長・古代進」の判断を、沖田さんは否定しない。それは古代が既に「艦長」として一人前になっているから。というか、あの時点でヤマトの艦長を務められる唯一の人間であるから。ガミラスで「海に潜れ」と助言した時とは全然違う。
posted at 15:39:48

そういう「沖田と古代の物語」として見ると、第一作と「さらば」はちゃんと一貫してると思うのですよ。そして、実写版も。「さらば」や実写版への批判には、意外と「沖田と古代の関係性」、特に「沖田の導きから脱した古代」という視点が欠けているような気がします。
posted at 15:43:42

古代が「さらば」で体当たり攻撃を選択してしまうのは、別に特攻精神というわけではなく、「それ以外に道が開けない」という状況が一番の要因だとも思うのです。物語がそこまで彼を追い込んでしまった。物語というか、「敵の強大さ」を妥協無く描いた作劇の結果が。
posted at 15:47:01

超巨大戦艦と互角に戦える戦力が残っていたら、というか、あんな反則戦艦が出現したりしなければ、古代だってまだ他の手を考えたでしょう。突然他の乗組員無視して脳内沖田さんに縋ることもなかったでしょう。ああいう展開で他にどうしろと。私ゃ同情しますよ古代進に。
posted at 15:50:59

たぶん、現実的な解決としては「もうちょっと頑張れば勝てそうな程度のラスボスを出す」のが一番良いのでしょう。あんなデッカイのが出てきて「ばばーん!無傷!!」とかせずに。けど、「さらば」スタッフは「ばばーん!!」のインパクトを捨てることは肯んじなかった。
posted at 15:56:14

そしたら他にどんな方法があったのか。「テレサ一人で特攻すりゃイイじゃん」というのは頷けません。地球を守る戦いは、やはり地球人が主体とならねば。テレサはあくまで助太刀。というか、地球人がそこまで戦う気持ちを見せたからこそ、テレサだって身を擲つ決心がついたのでしょう。
posted at 16:00:11

テレサは「たったひとり」で祈っていたのですよ。彗星帝国の侵略行為を止める力が自分にあることは勿論理解していたでしょうが、もし自分が失敗したら、その後の宇宙がどうなるか。後に残る者に対する信頼が無いのに、いわば最後の切り札ともいうべき我が身をそう簡単に滅ぼせるわけがない。
posted at 16:04:10

とはいっても、私は「テレサが冷酷だ」と言いたいわけではありません。誰よりもテレサ自身がそのことを辛く思っていたのではないでしょうか。そして、古代だけでなく地球人類全体に対して信頼の気持ちを持つことが出来たから、彼女もまた笑顔で自らを滅し去る道行きに同道したのではないかと思うのです
posted at 16:08:36

まああれだ、つまり「さらば」は空前絶後のインパクトを最後まで手放すことなくストーリーを終わらせた映画で、その為にはあれ以外の終わり方が遺憾ながら選べなかったという、そういう特殊なジャンルのお話だったと思うのです。そしてそれは「映画の作り方として間違っていない」、とも。
posted at 16:13:03

そして、かなりギリギリの線ではありますが、「ヤマトとしても大きく道を外れない映画」になっていると思います。ラストの時間経過は歌舞伎だけど。まあ人工太陽とか七色星団決戦とか一隻でガミラス本星壊滅とか空間磁力メッキとかも、歌舞伎っちゃ歌舞伎だし。
posted at 16:16:46

まあしかし「さらば」の一番スゴイところは何と言っても斉藤始の描写ですよ!!私以外に騒ぐ人見たことないのが不思議なんですけど、モノスゴイですよ!!二時間ちょいの映画のゲストキャラ、しかも前作には居なかった人物が、あの少ない台詞であそこまで見事に描かれてるって驚きますよマジで!!
posted at 16:26:33

私ら戦後民主主義の申し子は「倫理的政治的に正しい行いをするのが正しいアニメキャラ」と思いがちですが(2199の古代進がああいうヒトになっちゃってるのも多分にその所為ではないかと思っておるのですが)、そういう小賢しさを吹っ飛ばす「丸ごと人間の魅力」がありますよ「さらば」の斉藤始!
posted at 16:29:59

なんで斉藤ってあんなスゴい描写されてたんだろうって、ずっと不思議に思ってたんですが、後に舛田利雄監督が最も思い入れを持っていたキャラだと知って大納得。実写的なんですよね。
posted at 16:35:55

好きなシーンはいっぱいあるんだけど、特に好きなのは湖川作画炸裂の動力炉被弾シーンと(ここコマ送りで見てくださいホントスゴいから!)「慌てず急いで正確にな!」の直前の激痛に耐えてる横顔と、あと都市帝国侵入を申し出て「わかってるよ、新艦長」って古代の肩を叩く場面!!!
posted at 16:39:10

湖川さんの人間臭さ全開の神作画で、心に楔を打ち込まれたみたいになります。「ああ、この人は今生きてるんだ!」って強烈に感じる。あとそれと負傷した土方艦長を抱え起こす場面!真っ先に駆け寄る咄嗟の判断力と運動能力、艦長の傷を見て眉を顰める表情!「人間がそこに居る」って手応え有りまくり!
posted at 16:44:46

あと初登場時の不敵でカッコイイ顔や、名乗り上げた後ちょっとゲスい顔して楊枝投げ捨てるとこ(掃除してろって言われたコトへの意趣返しなのよね)や、ゆうなぎ艦内で被害者を目の当たりにしてたじろいだり爆風に吹き飛ばされながらもすぐに体制整えて走り出したり、あともちろんテレザートも!
posted at 16:53:02

すいません全部好きです全部スゴいです。
posted at 16:54:50




以上。
いやマジで「さらば」斉藤始の表現は神憑ってますわ。
一切説明されていない彼の来歴や内心が、動作や表情見てるだけで手に取るように分かるんですから。
「ヤマト2」でガトランティスの攻撃により壊滅状態となった11番惑星からヤマトに拾われた空間騎兵も好きなんですけど、「ヤマト2の方が描写が丁寧で納得がいく」というのはちょっと違うと思うんですよ。
「さらば」の空間騎兵にも、彼らなりの自負と屈託があったことはきちんと描かれています。
しかも、あの短い登場シーンで。
前半で述べた沖田艦長にしても、とかく「さらば」は「第一作との乖離が−」とか「人間が描けていなくて−」とか言われがちなんですけど、「いやいや十分に人間模様を味わえる映画になってますよう」ということを申し述べておきたいんですよ。
ま、ファンの欲目があることは否定しませんけどね(・∀・)
けどねー、できるだけ咀嚼して深読みして「供された映像を味わい尽くす」方が、お得な映画の楽しみ方なんじゃないの?とは思うのです。


ところで、「ロトさんの本」のテーマに沿えば本筋の対象は実写版ヤマトですが、できれば後日感想も含めて私の意見を述べたいと思います。
ざっくり言ってしまえば、氷川竜介さんが「ヤマトのテーマ」「ヤマトの本質」と述べていらっしゃることは、ヤマトという作品の一面に過ぎないのではないかということです。
実写版ヤマト脚本の佐藤嗣麻子さんは、氷川さんが着目したのとは別の「ヤマトの本質」に目を向け、物語を再構築したのだと考えています。
以前述べた「家族の物語」がそれに当たるのですが、第一作ヤマトの再鑑賞を通して見えてきたものも加え、次回詳しく振り返ってみたいと思います。
………いつになるかはわかりませんがー(汗)
1

2012/7/3

私はたぶん「阿久悠」派  宇宙戦艦ヤマト

かつてヤマトファンの間でよく出ていた話題に、「自分はナニナニ派」ってのがあります。
まあ、他愛も無い話なんですよ、たとえば「作画だったら芦田さん派」とか「ヤマトは音楽で保ってるから宮川派」とか。
近年、迂闊に口に上せると剣呑なことになりかねないのがアレですが、「自分はヤマトのどういうところに惹かれたのか」を象徴的に語るには、便利なキーワードではないかと思います。

というわけで、昔のような気軽なファントークとして読んでいただきたいのですが。
つらつら考えるに、私、「阿久悠さんの詞」にヤマトの本質を感じているような気がします。

ココをご覧になるような方ならとっくにご存知とは思いますが、一応歌詞掲載サイトにリンクを張っておきます。

http://www.jtw.zaq.ne.jp/animesong/u/yamato/uchuusenkanyamato.html
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND2273/index.html

作品への関わりを情報の量に均してしまうならば、主要スタッフの中では最小になるであろう、阿久悠さん。
松本零士さんが描いた設定画の量や、西崎義展さんがブレインストーミングに費やした延べ時間と比べるまでもないどころか、普通のアニメ作品では「主題歌の作詞が誰か」など、そもそも話題になることもほとんど無いのではと思います。
ですが、詩人とは実に偉大なもの。まして阿久悠さんほどの御方となれば。
ちょっとイメージしてみてほしいのですが……
天秤の片方に「ヤマト」というアニメ全体を載せ、一方に主題歌の歌詞を載せたとします。
この天秤、見事に釣り合いませんか?

歌詞の代わりに、たとえばストーリーやキャラクターや音楽を、それぞれ載せてみたとします。
すると、天秤は「ヤマト」の方に大きく傾きます。
ストーリーやキャラは「アニメを構成する部分」なのですから、それは当然のことです。
しかし、優れた主題歌詞はわずか200音余りの情報量でありながら。「作品全体」の重みを受け止め、「宇宙戦艦ヤマト」という長大な映像作品に匹敵するほどの存在感を有しているのです。
あたかも、長歌の後に添えられる反歌のように。

もちろん、全ての歌詞がこれほどの存在感を持つわけではありません。
やはり「宇宙戦艦ヤマト」は別格です。
そして、阿久悠さんも。
その理由は何なのか ―――
以前、「真っ赤なスカーフ」と「夢光年」(「宇宙船サジタリウス」のエンディング)との比較という形で考察してみたことがあります。
その内容を、以下に引用いたします。




阿久悠さんは、1974年放映「宇宙戦艦ヤマト」、1986年放映「宇宙船サジタリウス」の主題歌・エンディング曲を手がけています。
どちらも「宇宙SF」に分類されるTVアニメシリーズではありますが、作品そのものの雰囲気は非常に対照的。
片や、アニメブームの先駆けとなった「宇宙戦艦ヤマト」。
異星人の攻撃により滅亡寸前となった地球を救うため、苦難の旅を続けるヤマトと乗組員を描いた大河ロマンです。
片や、名作アニメの老舗・日本アニメーションが制作した「宇宙船サジタリウス」。
擬人化動物キャラを使って、宇宙での仕事が日常となった時代の哀歓を描く人情SF。
両作品の主題歌は当時のアニソンを代表する名曲ですが、こうした作品の違いが際立って表現されています。

使命を背負って旅立つ男の、決意と雄々しさを歌ったヤマト。
http://www.jtw.zaq.ne.jp/animesong/u/yamato/uchuusenkanyamato.html

喝采を浴びることなどない「普通の人」の、ないない尽くしの中で、それでも消えない意地とプライドを歌ったサジタリウス。
http://www.jtw.zaq.ne.jp/animesong/u/sajitarius/star.html

後者の歌詞には、ちょっぴり「ヤマト」っぽい世界への皮肉かな?と
感じられる部分もあります(汗笑)

ところが、両作品のエンディング曲は、どちらも「宇宙を旅する者」への独特の美学が感じられ、まったく違う曲調でありながら、何か「一対」として感じられる面白さがあるんです。

真っ赤なスカーフ
http://www.jtw.zaq.ne.jp/animesong/u/yamato/makka.html

夢光年
http://www.jtw.zaq.ne.jp/animesong/u/sajitarius/yume.html

それを端的に表しているのは、二作に共通して出てくる「かけら」という言葉でしょうか。
宇宙をさすらう人の胸に、かすかにともる「ロマン=夢」の「かけら」。
取るに足りないちっぽけな人の胸にある「かけら」こそが、実は広大な宇宙とも比されるほどに大きな存在であるという、「人間讃歌」。
それが、阿久さんがアニメソングに与えてくれた大きな宝物であるように思います。

「真っ赤なスカーフ」、さらに凄いことに、この歌の主人公はメインキャラの誰でもありません。
物語の主役と目される古代進は、地球を旅立つ時は兄の戦死のショックに支配されており、名も知らぬ女性の振るスカーフにロマンを感じるような精神的余裕はなさそうです。
それ以前に、旅立ちの時点ではようやく少年の域を抜けかかったような青年で、女性への思慕をおぼえるような成熟には至っていません。
また、艦を預かるリーダーであり、ヤマトの象徴ともいえる沖田艦長も、直近の戦闘でただ一人の息子を失い、天涯孤独の身です。
重い病にも冒された身である彼は、任務の成功に執念を燃やしこそすれ、ロマンの欠片を求めることはないでしょう。
この歌にある「旅する男」は、古代進ほど精神に子どもの部分を残してはいず、沖田艦長ほど老成してもいない。
つまり、「物語の中では名もない端役」である、「無名兵士」の心情を歌ったものではないでしょうか。

それを証明するかのように、地球へのさよならパーティが描かれたTVシリーズ第一作第10話では、遠ざかる太陽系の星々を見つめる無名の乗組員たちが描写され、その場面にかぶさって「真っ赤なスカーフ」の2コーラス目が効果的に使われています。

「真っ赤なスカーフ」は「無名兵士の歌」である―――

もしかしたら、「旅する男」は冥王星や七色星団で命を落としたのかもしれない。
死んでしまった戦友の思い出話を聞いた誰かが、自分の心の中に「真っ赤なスカーフ」を受け継いだのかもしれない。
「必ず帰るから」―――そう胸中に呟いた誰かは、もしかしたら地球には帰ってこず、男の呟きを聞いていた誰かが、彼の代わりにその目に「真っ赤なスカーフ」を認めたかもしれない―――
そんな深いドラマを感じさせる、まさに大人の歌なんですよね、この曲は。

成長してこのことに気付いた時、阿久悠さんの透徹した「大人の精神」に改めて感動することしきりでした。




引用は以上です。
阿久悠さんの歌詞が、作品そのものと同じ重みを持つ理由、わかっていただけましたでしょうか。
阿久悠さんは、主人公や物語を謳っているのではないんです。
物語を内包している「社会」、つまり「人間そのもの」を歌に詠みこんでいるんです。

凡庸なクリエイターならば、「物語の中に社会を描く」ことでしょう。
ヤマトの歌は、そうじゃないんです。
「物語の外に、社会が広がっている」んです。
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