2018/1/20  23:28

三国時代と邪馬台国  其のA  (不定期連載 書き下ろし)  


紀元前、中国文明は黄河の中流域、中原と呼ばれる地域で始まった。

司馬遷の”史記”や、”竹書紀年”の史書に見える最初の王朝は”夏”であるが、考古学的な裏付けはまだ不十分である。

夏の次に王朝を打ち立てた”殷”は、考古学的に実在が確認されている、中国最古の王朝である。

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初代 殷王 天乙 の肖像


殷は”商朝”とも呼ばれ、紀元前1046年に周の文王によって滅ぼされるまで、中原に繁栄した。

その周も紀元前842年に、政治への不満から諸侯や民衆の大反乱が起り、その後、周王朝は東周と西周に分裂し、衰退へと向かうのである。

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紀元前771年、外敵である犬戎(西戎)の侵攻により西周は滅亡、残った東周の平王が鎬京(長安)から洛陽(洛邑)に都を遷都するも、諸侯の反乱により紀元前256年、第37代赧王(タンオウ)が最後の王となった。
(その時、すでに周王朝は、中原の中の小国に転落していた)

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初代 周王 文王 の肖像


その諸侯の打ち立てた国が互いに覇権を争い、春秋戦国時代が始まるのである。


弱肉強食の時代であるから、各国とも内政や外交・軍事に渡って身分を問わず、有能な人材を積極的に登用した。

民衆にとっては、立身出世のチャンスであり、下克上の世界でもある。

うっかりしていると、下の者に手柄を奪われかねない・・・。

有能な者は、より有利な地位を得ようとして諸国を遍歴し、あるいは評判に努めたが、誇張やはったりも横行したのである。

玉石は混淆し、至る所で渦が巻き、その渦がより大きな渦に飲み込まれた。


周は中原と言う限られた地域に王朝を開いたが、次第に諸侯を取り込んで、文明圏を広げて行く。

しかしながら、広げ過ぎたが故に王朝の手には負えなくなり、周は分裂し滅亡への道を進んだのである。

日本でも歴史上そうであった様に、戦国時代と言うのは、其々の国が膨張し、覇権を争う時代でもあるのだ。


続く・・


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