2015/9/22  10:00

邪馬台国を行く G  


古代、日本の青銅器時代は、大きく2つの文化圏に分かれるとされてきた。

1つは、畿内を中心とする”銅鐸文化圏”、もう1つは、北九州を中心とする”銅剣・銅矛文化圏”である。

これらの文化圏は、瀬戸内海沿岸を境界として、それぞれ東西異なる文化を持っていた、と考えられている。

ただ、境界と言っても、完全に分けられている訳では無く、その中間地域では、互いの文化が混ざり合い、双方の青銅器が遺物として出土しているのである。

クリックすると元のサイズで表示します

 ( 井上光貞 著 日本の歴史 I より出典 )

ところが、近年の発掘調査の進展から、九州の吉野ヶ里遺跡で銅鐸が発見されたり、逆に畿内で銅剣が出土したりと、その考察に疑問を投げかけるような状況が見られるようになった。

しかし、そうは言っても、銅鐸や銅剣の分布状況に大差はなく、そこには異なる文化圏としての有意が、やはり認められているのである。

ただ銅鐸については、少しばかり興味深い研究と考察が成されているので、略儀ではあるが紹介したいと思う。

クリックすると元のサイズで表示します

 ( 出土した銅鐸 ”少しづつ形状が異なる” )

銅鐸は、銅剣や銅矛に代表される弥生時代の製作物であるが、「古事記」・「日本書紀」などの古文書には、全く登場しない謎の青銅器なのである。

以下に、その考察の概要を引用したが、銅鐸は邪馬台国との関連性に於いて、無視出来ない存在かと思われるので、長文ではあるが辛抱願いたい。


 銅鐸の出土状況の特徴

@ 畿内の銅鐸は、二、三世紀の、弥生式文化の後期に、もっとも盛大となり、しかも、突然、その伝統を絶つ。

A 銅鐸は、つねに、人目につかない谷問の斜面や、山腹などに、とくべつな施設もなく埋められた状態で、発見される。

B 銅鐸は、弥生式時代の住居のあとから、出土した例がない。

C 古い型式の銅鐸は、磨滅した状態がみられ、長年伝世されたあとに埋められたようにみえ る。

D 新形式のものには、鋳造してから、すぐ埋められたようなものもある。

E 新旧の銅鐸が、いっしょに埋められている例も多い。

F 銅鐸は、祭器であったといわれている。 しかし、他の祭器といっしょに見出されることは、ほとんどない。

G 徳島県 麻植郡 牛島村 出土の銅鐸のように、ことさらにうちこわされたとみられるものもある。

H 銅鐸の発見は、予測は困難である。 これまで出土した銅鐸のほとんどは、農耕などのさいに、偶然みいだされている。

銅鐸は祭器と見られている。 しかし、祭りのさいに、古いものも、新しいものもいっしょに埋めるのは不自然である。

銅鐸は、祭りの道具でありながら、祭りの過程で、祭りの目的にそって埋められたとは、みなされないようである。


これらのことについての、元産能大学教授 安本美典氏 の解釈。

@ 銅鐸祭祀を、早急に廃止し、銅鐸をいっしょに埋めなければならないような事情が生じた。

そのような事情とは、外部勢力による征服であろうと考える。

A 銅鐸は、銅剣や銅鉾に匹敵するほど、はっきりとした、そして、宗教的な意味をもつ製作物である。 それが、古伝承に、痕跡をとどめていない。

これは、古伝承が、銅鐸中心の文化圏、すなわち、畿内において発生したものではないことを物語る。

それとともに、銅鐸をもつ大和の先住民が、三世紀の後半に、九州からきた神武天皇によって減ぼされたのであろうとする推測を、支持するものと思われる。

また、713年(8世紀)、大和の長岡野で、銅鐸が発見されたとき、人々は、これを怪しみ、『続 日本紀』は、「その制(形)は、常と異なる」と記している。

これは、当時の大和の人々には、銅鐸の記憶や知識がまったくなかったことを示しており、上記解釈をうらづけるものといえる。


いっぽう、大和朝廷が大和で発生した説をとかれる考古学者の解釈。

@ 個々の村にわかれて生活をつづけていた人々が、そのムラの枠をすてて、より大きな規模の集団を構成するにいたったことのためである。

とされることが、多い。


しかし、このような説明については、次のような疑問があり、銅鐸を忘れさる理由としては弱すぎるのではないか。

@ そのような統一勢力が、畿内からおこったものであるならば、むしろ、国家権力の保護のもとに、祭器として、銅鐸の伝統と記憶とを、温存させてよいように思われる。

A 一度に、合計の重量が、260キログラムもある銅鐸がみいだされた例がある。 それは、青銅の素材としても、魅力あるはずのものである。

もし、「個々のムラ」から、「構成されたより大きな規模の集団」ヘスムーズに移行したものであるならぱ、廃棄するよりも、鋳直して利用することを考えるのではなかろうか。 当時、青銅の素材は、貴重品であったはずである。

B 邪馬台国が銅鐸文化圏の大和にあったとするならば、「倭人伝」に記されている北九州の糸島付近からも、とうぜん銅鐸が発見されてよいはずである。 しかし事実はそうではない。

 ( 以上 邪馬台国研究会 より引用 )


クリックすると元のサイズで表示します

 ( 島根 荒神谷遺跡 銅剣 出土状況 )

青銅器を作る為の原料である銅鉱石は、弥生〜3世紀頃の日本では、まだ採掘されなかった と考えられている。

初めて採銅の記録が出て来るのは、元明天皇(707〜715年)の御代であり、埼玉県秩父の山中で、銅鉱石が発見された事を記念して、和銅(708年)という年号を付けたとされている。

とすれば、それ以前に日本の中で、鉱業と云うものが起こっていなければ、金属としての青銅は、中国や朝鮮からの地金の輸入と言う事にならざるを得ない。

倭人伝に、”兵は 矛・盾・木弓を用う (中略) 竹箭は 或は 鉄鏃 或は 骨鏃 (以下略)” とある。

クリックすると元のサイズで表示します

 ( 魏志倭人伝 紹熙本 原文 右編中央寄りに 木弓云々 の記事が見える )

つまり、矢の先端に使う”鏃”には、鉄の物と骨の物がある、と倭人伝は述べている。

これは3世紀において、鉄器が邪馬台国で、すでに使用されている事を示すものであり、当然、青銅器も使われていたと考えてよい。

しかも鏡や銅剣・鉄剣等が、死者の副葬品として埋納されている事を見ても、3世紀では、まだ青銅や鉄といった金属は、相当に貴重品であった と思われる。

果たして、この貴重品であった金属の地金を、何の代償も無しに輸入出来るものだろうか。

もしも、これらの地金の輸入に対し、何らかの見返りを認めるとするならば、その答えは恐ろしく1つしかない。

それは、邪馬台国を中心とする周辺国を”魏の属国”と見做し、間接的に”支配する”という事なのである。

続く・・

0



コメントを書く


名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ