2015/8/24  16:08

邪馬台国を行く A  


魏志倭人伝より 「 男子は大小と無く 皆 鯨面文身す(中略) 文身は また以て 大魚水禽をはらう也 」 とある。

鯨面とは、顔の入れ墨、文身とは、体の入れ墨を指して、区別する。
文身して、大魚水禽をはらう・・ とは、サメ(大魚)から身を守る という意味なのだ。

縄文の遺跡から発掘された土偶の中には、顔や体に色々な模様を刻んだものがあるが、これは鯨面・文身(入れ墨)と考えてもよいと思う。

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 ( 盛岡 繋萪内遺跡 出土 )

再び倭人伝より 「 諸国の文身 各々異なる 或は 左右 大小 尊卑 差有り 」
これは、3世紀の邪馬台国周辺の国々に於いて、文身(入れ墨)は同じ種族を表わす一つの目印だったと思われる。

諸国によって文身が異なるという事は、例えば戦いが始まった時に、敵味方の区別をする為に重要だったのであろう。

従って、大小 尊卑云々 つまり大人や子供、賢人や卑しい人等によって、程度の差はあれ文身していたと、魏の使者は見聞しているのである。
即ち、縄文から弥生期の原日本人は、男女と言わず相当に入れ墨を施していたと考えても、おかしくはない。

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 ( 函館 著保内野遺跡 出土 )

ところが、奇妙な事に3世紀以降7世紀の後半には、鯨面・文身の風俗は身分の低い者以外、ほとんど見られなくなってしまっている。
3世紀から7世紀後半の約400年の間に、入れ墨と言う習俗がほぼ断絶という状態になってしまったのだ。

ここに一つの謎がある。

もし、邪馬台国がそのまま大和王権となったならば、王権の中に文身の習俗が、そのまま伝えられていてもおかしくはない。
しかし、そうはなっていないのである。

記紀に登場する神武天皇以下の皇統には、文身の記録は存在していない。
入れ墨と言えば、久米部であり、安曇族であり、蝦夷であり、これら一部の部族のみに伝承されているのである。

これらの事は、何を意味するのであろうか?

筆者には、ある時期を境に、この原日本人とも言うべき倭人の文身(入れ墨)という習俗が、廃絶に向かったと考えられるのだ。

つまり新しい文化を持った、しかも文身と言う習俗を保持しない種族が支配階級になり、倭人を支配していったのだと思う。

それは極端な事を言うならば、異民族の侵入であり、倭人の征服ではないのだろうか・・・。

続く・・

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