臆病でも勘違いでも、救いようのない馬鹿でもいい。リスクだらけの舞台に立ち、常識を覆することに全力で挑める者だけが、漫才師になれるのだ。(本文より)
否定か、肯定か。
芥川龍之介は、人生に対する疑問を描いた小説家です。「侏儒の言葉」の中で、人生として、次のような言葉を書き残している。
『人生は、一箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。重大に扱わなければ危険である。
もし遊泳を学ばない者に泳げと命じる者があれば、何人も無理だと思うであろう。もし、またランニングを学ばない者に駆けろと命じる者があれば、やはり理不尽だと思わざるえまい。しかし、我々は母の胎内にいたとき、人生に処する術を学んだであろうか?しかも、胎内を離れるのが早いか、とにかく大きい競技場に似た人生の中に踏み入るのである。
人生は、狂人の主催になったオリンピックに似たものである。我々は人生と闘いながら、人生と闘うことを学ばねばならぬ』
ついでに、どなた様でもご存知の「蜘蛛の糸」。この作品のテーマは、人間の救済であり、救済を妨げるのは、人間のもっている利己心である。
『ある日の事でございます。お釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。
お釈迦様が、池のふちにたたずんで、水の面を覆っている蓮の葉の間から下を眺めると、地獄の底にうごめく、大泥棒・犍陀多(かんだら)の姿があった。生きているときには、殺人、放火など、数々の悪事をはたらいた男であったが、この極悪非道の罪人も、生前、たったひとつだけ善事をしたことがあった。
山の中で一匹の蜘蛛を踏み殺そうとして、小さな生き物にも命があるのだと「はっと気付き」、憐みの心から助けたのである。お釈迦様は、ふとその事を思い出して、犍陀多を救うために、極楽の蜘蛛の糸をおろしてやる。
銀の糸は、地獄の血の池の中で苦しんでいる男の頭の上に垂れていった。犍陀多は、蘇生の喜びの声を上げ、蜘蛛の糸をつかんで登りはじめるが、犍陀多がふと下を見ると、自分の下のほうにも無数の罪人が、銀の糸にしがみつきながら登ってくるではないか。これでは糸が切れてしまうと思って、
「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は俺の物だぞ。お前たちはいったい誰に聞いて登ってきた。降りろ!」
とわめき叫んだ。と、とたんにぷっつりと蜘蛛の糸は切れ、犍陀多はコマのようにくるくる回りながら、闇の底に落ちてしまう。
一部始終をじっと見ていたお釈迦様は、悲しそうな顔をして、またぶらぶらと歩きはじめる。しかし、極楽の蓮池は少しもそんな事には頓着いたしません。その玉のやうな白い花は、お釈迦様の御足のまはりに、ゆらゆらとうてなを動かして、その真ん中にある金色のずるからは、何とも云えない好い匂が絶え間なく、あたりへ溢れて居ります。極楽も、もう午に近くなったのでございます』
と、物語は終わっています。
お釈迦様は悲しい顔をして去っていくのだが、犍陀多がもし、下に続いてくる罪人たちを一緒にひきつれて登ってきたとしたら、お釈迦様はどうしたのでしょうか?。。。 yoshi

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