2011/3/31
「人間とはいかなる存在か」
ちょっとヘビーな話題ですが、ここにこそ我らが親鸞聖人の深い洞察が窺われます。
管理人が大学・院時代、恩師である普賢晃壽和上に『教行信証』「信文類」を中心にした親鸞聖人の人間観をご指導いただき、誠に有難いことだったと感じています。
さて、原発イシューの続きですが、「安全に違いない」「ミスをカバーする手だてが幾重にもある」等々、全ての予想が覆った今回の事象。
これは機械的な欠陥ではなく、人間の思考回路の欠陥です。身近な交通事故も自分の判断を過信することが原因と言えるでしょう。
ここで親鸞聖人の言葉をご紹介しましょう。
◆一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし
◆一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。虚仮諂偽にして真実の心なし。
(以上、「信文類」→『註釈版』231・235頁)
◆罪業もとよりかたちなし 妄想顛倒のなせるなり
心性もとよりきよけれど この世はまことのひとぞなき
(『正像末和讃』→『註釈版』619頁)
・・・等々、列挙に遑(イトマ)がありません。
仏教・浄土真宗が説くのは、世間から期待?誤解?されているような【世の中の何かを変えていく原理】ではありません。
阿弥陀如来の智見を通じて、各々が【私がいかに間違った存在であるかを知る】こと(→二種深信)です。ここから謙虚さが生まれ、他者をゆるし、認め合うという、安穏なる世界が構築されていくことでしょう。
仏の真実性・無謬性を絶対基準として、人間の行動を規定することは可能です。しかし、いかにその道の専門家といえども、人間の相対的判断(原発は安全だ、との主張)を基準にし、多大なる生命・財産をそれに託すという構造自体、原発は間違っているのです。いや、原発はモノだから罪はない。それを推進した人々、土地を提供した自治体首長が、である。
今回の事故は仏教者、特に浄土真宗の指導者によって意見を発し、厳しくその過ちを批判すべきだと思う。靖国神社などの昔の話はもうよい。仏教は常に「今」が問われているのだ。

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