2011/5/19
無碍光仏のひかりには
清浄・歓喜・智慧光
その徳不可思議にして
十方諸有を利益せり
『浄土和讃』(『註釈版聖典』566頁)
まず文字の校異について、
「无」と「無」ですが、親鸞聖人は「南無阿弥陀仏」のお名号をしたためられる際に「南无阿弥陀仏」と書かれます。これは『蓮如上人御一代記聞書』第24条にて触れられています。
一、のたまはく、「南无」の字は聖人(親鸞)の御流義にかぎりてあそばしけり。「南无阿弥陀仏」を泥にて写させられて、御座敷に掛けさせられて仰せられけるは、不可思議光仏、無碍光仏もこの南無阿弥陀仏をほめたまふ徳号なり、しかれば南無阿弥陀仏を本とすべしと仰せられ候ふなり。
親鸞聖人は阿弥陀如来のことを表現するのに、光を用いた表現を好まれます。全部で12種類あります。出典は『無量寿経』、曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』へと流れ、「正信偈」で、
普放無量無辺光 無碍無対光炎王
清浄歓喜智慧光 不断難思無称光
超日月光照塵刹 一切群生蒙光照
つまり、
無量光・無辺光・無碍光・無対光・炎王光・清浄光
歓喜光・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光
となります。漢字で大体の意味がおわかりのことと思います。無限の光明が何らの障害なく十方諸有(あらゆる世界・時代の有情)に届いておるぞ、という意味です。
“阿弥陀如来の光明が・・・”といっても尚も抽象的なので、具体的に如来の徳を讃えられております。
以下の見解は評価が二分すると思いますが、私の理解では親鸞聖人とは非常にロジカル(論理的)な性格であられ、徹底的にテクスト(仏教典籍)を読み込まれて、如来の世界を我々に伝えんとされております。感覚的・直観的に物事を語るようなことはありません。
一方で浄土教はビジュアル重視といいますか、視覚的・情緒的感性をも重視されてきましたので、まばゆい阿弥陀如来の仏像(来迎仏としての)が有難がられてきたわけですが、それは方便仮門の世界で、第18の真実弘願の仏身ではないと聖人は言われています(「化身土文類」にて)。
既存の木仏・絵像の阿弥陀如来像では「光明性」を表現する手段としては乏しかったのではないか、という推論も可能だと思います。はたまた『臨終来迎』との混同も懸念されることでありました。浄土真宗は臨終来迎を否定し、平生業成を重視します。
では、なぜ寺院では今も仏像が依用されているのか・・・
奈良時代から寺院では木仏の本尊を安置すべし、というお触れがあったからでしょう。お名号を本尊としていたら、秘密結社の集会のように誤解される懸念があったのです。
ご案内のように、親鸞聖人は「帰命尽十方無碍光如来」「南無不可思議光仏(如来)」などの御名号を如来の御姿、本願の活動態として受け止められました。言葉である名号を通じて如来と私たちがつながっていく、という世界観は非常に興味深いではありませんか?
“如来とは何か”、そして“如来に救われていく私とは何か”、のあくなき宗教的実存の追究が聖人の最大の魅力です。その実現のためには従来の浄土教の常識を超えていかねばならなかったのは必然だったでしょう。
大遠忌法要、ということで親鸞聖人のイメージ(アニメなんかで特定のイメージを植えつけるのは反対だ!)が、好々爺に捉えられがちですが、常識を疑う非常に激しい気性の方だったと思われます。『熊皮の御影』の御顔↓が一番イメージに合致していると思われます。

本当に親鸞聖人のことを研究・広めようと発起せんとするならば、ずいぶんと自らの立場を犠牲にせねばならないことが多々あります。それが最大の私の悩みです。
「浄土真宗親鸞会」さんは“名号本尊こそが正しい”と主張されますが、私もその点では大賛成です。ただ、僧侶は「寺院」という何かと制約のある世界に生きておりますので、原理原則通りには行かないんですね。・・・私のような変わりモノが本願寺派の中にもおるということを知っていただければ嬉しいです。

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