2015/11/26
去る11月23日には坊守の実家の寺に報恩講の日中法要(午前10時)に赴きました。
身内が聴聞するので嫌な汗をかきましたが、無事にその務めを果たしてきました。

私は法話毎に事前に周到な設計図(フローチャート)を書き、聖典の何処に拠ってその話をしているのか、を明らかにし、必ず記録を残しておきます。どんな笑い話を何時挿入するのか、といったことさえも。それは料理の「レシピ」といっても差し支えないでしょう。
聴衆をジェットコースターに乗せるような感覚で話すことを目的としています。笑いあり、クイズあり、ホロット涙もあり。とにかく飽きさせたらアウト。
法話とは常識をグルッとくつがえして新たな気づきを与えるものでなければなりません。それが為には浄土真宗の知識だけではまったく不十分です。そもそも「宗教とは何か」を話者自らが体得しておりませんと、応用が利かないのではないでしょうか?
法話では不思議なことに「話している自分自身が聴聞している」と感じる時があります。これは過信でもなんでもありません。法話は人間の話ではなく、仏様の話ですから、話者に“降りてくる”ことがあるわけです。
ですから法話に呼ばれる、ということは、すなわち如来さまが私に聴聞をせよとの催促であると思っています。そうでもなければ人前で話すなんておこがましいこと、私には出来ませんねぇ。
今回の法話の要点を書きだしておきましょう。
主題【信心のさだまるとき、往生またさだまるなり;『親鸞聖人ご消息』より】
@ 親鸞聖人は死んでから救われるのみならず、今、救われるのだ、と説かれた。
A 信心とは「信じる心」ではなく、「おまかせする心」である。
B 「信じる心」には必ず疑いの心が潜む。「おまかせ」は疑いの晴れた心である。
C 信心定まった人にとっては、もはや死は畏怖の対象ではなく、単なる通過点に過ぎない。
以上を1時間のお取次ぎでした。

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