2016/12/21
年末になりますと、今年一年を振り返り特に亡くなられた方を偲ぶ機会が増えてきます。喪中ハガキや○○の行事を控えます、といったように。
寺院関係者の方ならば、○○が逝去したとか、死去という言葉を用いずに「往生した」、あるいは今回問題としたい「浄土に還(かえ)る」という表現を用いることがしばしば見受けられます。
いわゆる「還浄」問題であるが、この経緯については煩雑になるので、各自お調べ頂ければと思います。
かつては玄関の軒先に「忌中」の張り紙をして、不幸があったことを示しました。念仏の教えでは人が亡くなることは忌々(いまいま)しいことでも、ケガレごとでもないとして、代わりに【還浄・帰浄】などと書かれた紙を貼ったというのがその発端であろうと思われます。
これは一つの表現形態の問題であるので、そんなに目くじら立てる必要はないのですが、私は個人的には「浄土に帰る・還る」といった表現は、ややもすると誤解を与える表現ではないかと思います。
浄土に帰(還)る、といったならば、その人は本来、仏であり、衆生済度の為にわざわざこの世に現れ出て下さった尊い方、という意味になりますから、無始已来つくりとつくる悪業煩悩を抱えてきた、と捉える二種深信の教説を真っ向から否定することになるからです。
地獄必定の我が身が、稀有なる信心を得て死後に浄土に往生して仏に成る、というのが正しい領解の仕方であろうと思います。
例外的に親鸞聖人にとっての法然上人のように、自身の信心決定に絶大なる影響を与えたお方を死後、顕彰して用いる場合は別ですが、一般の我々ではおそれ多くて身内が「浄土に還った」などとは言えません。
中には僧侶でも生涯、仏法を聴かずどころか悪業三昧で「地獄に堕ちたんではないか」とさえ思う輩がいますからね!?
それでも死ねば善人になるのですから、韓国や中国とは大違いで、日本は死後の名誉が保たれるから幸せな国だなぁと思います。
生前に宗教的信念が無くても成仏できるのならば、もはや僧侶も寺も聴聞も要りません。
凡そ信心が無い人でも、葬儀を勤め「故人は立派な仏に成った」と言わねばならない住職の精神的苦痛をご理解頂けますか?
もっとも、最近は家族葬が主でご近所には秘密裡に葬儀を行いますので、忌中札やら還浄札やら、もはや関係の無いことですがね。ですから家族葬をやっておいてわざわざ周囲に喪中ハガキで知らせる必要も無なかろうと思いますがね。

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