何か心に残るモヤモヤを晴らすようなスカっとした作品が観たいと思い、黒澤明の「七人の侍」の米国リメイク版「荒野の七人」を久しぶりに観た。ところがこの映画あまりにスカっとし過ぎていて「何だかなぁ」という物足りなさが残った。
この映画を最初に観たのは確か中学生の時(西部劇のマイブームがあった)、凄くカッコ良かったイメージがあったのだが、高校に入って元ネタの「七人の侍」を観て黒澤映画にハマった。それがあまりに強烈だったため「荒野の七人」の印象が薄くなってしまったんだな。以後、何回も繰り返して観る度に「七人の侍」がいかに凄い映画かが解ってくる。特に自分で芝居を作れば作るほど、この映画がいかに巧いか思い知らされる。きっとこれからも死ぬまで何回も観るだろう。
そそれほど「七人の侍」を見慣れてしまうと、「荒野の七人」はリメイクどころかまったく別の作品なのである。しかし、それは裏を返せば同じ題材を基にして「日本人」と「アメリカ人」の違いがクッキリ顕れているという比較文化論的に大変興味深い映画でもあるのだ。
簡単に言ってしまうと「共同体主義」と「個人主義」の違いである。そこの価値観が違うだけで同じストーリーの持つ意味合いがまったく変わってしまうのだ。
まずオリジナルの「七人の侍」は侍と農民、そしてその中間にいる者と雑多な身分の者たちがひとつの旗の下に団結して共通の敵を倒す物語である。侍と百姓はエゴ剥き出しで衝突したりもするが、その過程でお互いを理解し合い、助け合い、身分の違いを乗り越えてひとつの目的を達成する人間ドラマがメインである。だから侍と百姓の架け橋となる三船敏郎が非常に重要な役割を果たした。また、団結の証である旗を作った千秋実が最初に死んでしまう意味も非常に重かった。ラストシーンで生き生きと田植えをする百姓、そこからポツンと離れて所在無さ気な侍たち、そしてその背後には倒れてしまった仲間の墓。この構図は実に見事だ。そこに志村喬の「勝ったのは百姓だ」という台詞が被さるから感動が生まれる。
「七人の侍」の本質は正にそういった「粘土質」の共同体の物語なのだ。
では「荒野の七人」はどうか?
「荒野の七人」は決して団結することのない「砂粒」の個人の物語だ。
まず「荒野の七人」で集められるのは殆どユル・ブリンナーの個人的な知り合いばかりだ。「七人の侍」では加藤大介以外は皆初対面同士だった…つまり関係がほぼゼロからスタートしている。しかし、「荒野〜」では予めそれぞれとユルとの関係性が出来上がっているため、横同士の結びつきがまるでない。いや、作ろうという空気すら感じられない。みんなユルの言うことは聞くが、他のガンマン同士が協力し合おうとする様子は皆無であるといっていい。
そして農民との関係性に於いてもガンマン個々人が村に入って、同年代と仲良くなったり、子供と仲良くなったり、女と出来たり、ようするにおのおのが勝手に打ち解けてゆく。このような集団では三船敏郎の代わりとなるチコのような存在はさして重要でもなくなってしまう。「一体百姓はどうすりゃいいんだ!」という訴えもさして心には響かない。
そして百姓側にも連帯感の欠如が見られる。そもそも村の代表であるはずの長老が「わしゃ高みの見物じゃ」的なことを言って第三者を気取ってしまう。さらには野盗と戦うどころか密告までする百姓が出てくる。一時はそうやって野盗側についた農民もいざガンマン側の方が有利に転ずるや否やちゃっかり勝ち馬に乗って野盗と戦い始める。これは「〜侍」のように「反目しながらも助け合う」こととは意味合いが違う。
このような砂粒の個人を纏め上げて娯楽作品として成立させるにはどうしたらいいのか?その答えがまた実にアメリカ的なのだ。ようするに徹底的に悪い敵役を作るのである。「〜侍」では適役の野武士側は殆ど描かれていない。野武士のリーダーが東野英二郎であることも気付いていない人は多いはず。野武士に徹底的に搾取されてきた農民と侍が理解しあうドラマがメインなので敢えて野武士を描かなくても成立する。
しかし、共同体のドラマがない「砂粒個人」の物語ではそうはいかない。
「荒野〜」では野盗のリーダーは徹底的に悪く描かれる。恐らく全登場人物の中でこのお頭が一番重要な役だ。役者も実に生き生きと演じていて印象的だ(芝居が歌舞調で楽しそう)。しかもガンマンたちを捕らえておきながら逃がしてやるのも何だか憎めない。その逃がしたガンマンに撃たれて「…誰の得にもならないのに…なぜ…」と呟き絶命する。こんな美味しい役はないじゃないか!
そもそも一度は逃がされたガンマンが復讐しに戻ってくるのも、それぞれの勝手な意地やプライドのためで別に農民のためでも、ましてや仲間のためなどとは到底思えない。
そしてクライマックスはガンマンと野盗の大立ち回りとなるのだが、何よりも日本とアメリカの決定的な違いが出るのがこの戦闘シーンなのである。
「〜侍」は基本的には刀や弓を手に、火縄銃を持った騎馬隊と戦う。農民も総出で参加しないと戦いにならない。作戦を練って下準備をして農民を訓練して連帯感を高めて、そして敵の頭数を計画的に減らしてゆく。所謂「戦術」がアクションの肝なのである。
この「戦術」がガン・アクションではまるで役に立たない。もうお互い飛び道具撃ちまくりでとりとめがなく、こうなるといかに早く撃てるか、いかに正確に撃てるか、というまったく個人の能力がモノを言うようになる。その結果、観ている方も誰が一番カッコイイか、という観点でアクションを評価するのである。まったくもって観る方も個人主義になってしまうのだ。
走りながら馬に乗るマックイーンは確かにカッコイイ!そりゃスターになる!しかし結局は個人の技だ。ジェームズ・コバーンも、チャールズ・ブロンソンもそれぞれ勝手に死に花を咲かす。そこには同情や涙の余地はまるでない。
「〜侍」で久蔵が敵の凶弾に倒れたとき、彼を慕っていた勝四郎は駆け寄って泣き崩れる。そして刀を振り回して火縄銃の前に躍り出た勝四郎を押しのけた三船敏郎が代わりに撃たれるが、それでも最後の力を振り絞って敵の大将と刺し違えて死ぬ。こういうドラマが「荒野〜」にはまったくない。
農民のためでもなく、仲間のためでもなく、まったく個人的なプライドのために死んでいったガンマンたち。「何の為に?」とつぶやいた野盗の気持ちが分からなくもない。
「勝ったのは百姓だ」とつぶやくユルの表情もどこか晴れ晴れとしている。仲間を死なせてしまった志村喬の苦渋の影は感じられない。彼らは自己責任で死んでいったのだから。そしてそれぞれまったく新しい明日へと向かって旅立ってゆく。
このように「七人の侍」と「荒野の七人」は筋は同じでも意味合いはまったく違う。どちらが良いということもはやは言えまい。これは明らかに民族性の違いだ。この二本を見比べることによって日本人とアメリカ人というものがハッキリと見えてくる。
そう考えると、色んな国の「七人の侍」を観てみたい気もする。イタリアでもドイツでもブラジルでもイランでも韓国でもきっとそれぞれのお国柄を反映した作品ができるに違いない。

0