結局、あれ以来警備員は回ってこなかったようだ。
明るくなるまでぐっすり眠った私は、昨夜の公衆便所で顔を洗い目を覚ました。私はここで眼鏡を忘れてしまった。
相模湖を越えてからも上り坂はわずかで、殆どは緩やかな下りが中心。空も晴れたり曇ったり。のんびりとしたサイクリングだった。「IBIZA MOODS」というアンニュイなアンビ・ハウスをipodで聴いていたため、まだ夢うつつのような気分でルート20を走っていた。
高尾山口駅まで数キロ地点で、突如急な斜面が現れたがそれも下り坂であった。DUNLOPで一気に急降下すると、向かい風が身体の汗や埃を吹き飛ばしてくれる。途中、登りのツール・ド・フランスと何台もすれ違った。行きの箱根では軽々と追い抜いてゆくツール・ド・フランス族をずいぶんと恨んだものだったが、今やそれも過ぎ去った試練である。私は一気に山を駆け下りた。
JR高尾駅で休憩。といってもそれほど身体は疲れていなかった。上り坂がほとんどなかったお陰で予定よりもだいぶ早いペースで帰れている。このままだと早く家に着きすぎて返ってもったいないぞ。作戦を変更。これからは距離を稼ぐのではなく、寄り道しながらゆっくり帰ることにする。まったく、行きの苦労は何だったのか?
高尾で寄り道をしたのは、この間ドライブの最中にたまたま発見した武蔵野陵、昭和天皇と大正天皇の陵墓地である。
初めてここを通りかかった時から、この場所は普通じゃない雰囲気が漂っていた。ルート20からちょっと脇に入った参道を進んで行くと、いきなり何の看板も出ていない入り口があり、いかにも物々しい警備小屋があって、門の中はだいぶ広いらしく背の高い樹木が覆い茂りその奥へと整理された白い砂利道が蛇行している。そして、人間の気配がまるでなく、甲州街道の騒音が嘘のように静かだ。特に敷地内は立ち入り禁止の様子もないようだが、それでも何者をも寄せ付けない空気のようなものがそこには漂っていた。一見、北口本宮のような神社かなと思うのだが、その禁断的な雰囲気はむしろ箱根で見た精進池に近い。
出入り自由だが、警備が物々しく、浮世の騒音が届かない近寄りがたい雰囲気の場所…これは恐らく天皇に関係するものではないだろうかと、好奇心のまま奥へ入ってみるとやはり奥には昭和天皇皇后両陛下、そして大正天皇皇后両陛下の陵があった。
陵の前にもそれぞれ警備小屋が置かれ警備員の姿が見られるが、参拝客の姿はほとんどない。巨大な陵と白い砂利と樹木と苔。そして、青い空。
こういう特殊な空間には強く魅かれてしまう。心が落ち着く。
今回は二度目の参拝だったが、やはりそのスピリチュアルな空間を浮遊していると疲れた身体が浄化されるような感じがした。
小一時間ほど散歩して時間をつぶし、そこから八王子までDUNLOPを漕いだ。到着したのは午前十時半くらいで、昼食にはまだ早い時間だったが朝も早かったので適当なチェーン店で牛丼を食べる。旅の初日に壊れたDUNLOPのギアがかなり外れやすくなっていたので、デパートで涼みがてら自転車部品コーナーを物色する。が、ゴールも近いので結局買わなかった。
それからのんびりと府中までDUNLOPを走らせる。ipodで再び椎名林檎の「三文ゴシップ」をかけると、確かNHKの「みんなのうた」でもやっていた「二人ぼっち時間」という曲が流れた。今の気分にぴったり。一緒に歌いながらペダルを漕いだ。
「ラ、はラヂオのラ♪
おこしてよ、ファっと
にじむような、カンタータで
ラ、はランチのラ
たべたいよ、ファっと
とろけるようなたまごに…
どうしようかな
ド、ならドルチェのドです
けれどもうあまいから
ランララララララン
ランチはこれにてごちそうさま♪
Buono!」
府中に到着すると、ちょうど大国魂神社で「すもも祭り」というのをやっているので行ってみた。「すもも祭り」というのは説明文によると、源頼義・義家父子が大國魂神社で戦勝祈願をし、その戦勝御礼詣のため祭神饌の一つとして李子(すもも)を供えたことから境内にすもも市がたつようになったのが、由来だそうだ。確かに境内では誰が使うのだろうというくらい大量のすももをネット詰めしたものが売られている。また「からす扇子」なるものも頒布されていて、何でもこの扇で扇ぐと農作物の害虫は駆除され、病人は平癒し、玄関先に飾ると魔を祓いその家に幸福が訪れるといわれているそうだ。
一通り境内を廻ってから、ベンチに座って飲料水を飲んだ。私の隣にはちょうど定年退職したてくらいの初老の男が座っていて、目の前では五歳くらいの男の子がお祭りで買ってもらったお面を被って遊んでいた。ふと思ったのだが、私はこの子供と隣の老人のちょうど中心くらいの年齢なのだ。これまでの34年間の人生、長いようでもあり一度きりであることを考えるとやはり短い。これまで費やしてきた時間と、これから費やすであろう時間とを尺図として肌身で体感できた不思議な瞬間だった。
はっきり言ってもうゴールは近い。行きだけがやたらに大変で帰りはあっけなく時間が余ってしまった。どうせならルート20のコンクリートの上ではなく、多摩川の土手を散策しながら走ろうとコースを変えた。私は学生の頃、この川チャリというのをよくやった。川チャリ友達と色々な話をしながら、延々と土手を漕いだものだった。テレビで竹中直人と高橋幸宏が川チャリ友達だというのを聞いて、同じような趣味の人がいるなぁと思ったものだった。
心地よく舗装されたサイクリングロードを進みながら、ベンチがあるとそこに寝そべって(もうベッドと同じように見えてくる)昼寝をしたり、カラマーゾフの続きを読んだりした。
この日カラマーゾフは第一章の「ある家族の物語」を読んだのだが、極悪非道な父フョードル・カラマーゾフの傍若無人振りの描写が素敵過ぎる。気に入ったシーンがふたつある。フョードルが自分を捨てた先妻が、駆け落ち先の異国で客死したという訃報を受け、嬉しさのあまり通りに駆け出して両手を天に掲げ、「主よ!今こそこのしもべを安らかに去らせたまえ!」と訳の分からないことを絶叫する場面。もうひとつは後妻のソフィアが死んだ時、その母親である将軍夫人が子供を引き取りに来て、子供たちが風呂にも入れてもらえず汚い肌着を着っぱなしになっているのを観て、フョードルに二発のビンタを食らわせ、前髪を引っつかんで三度床へ引き倒すシーン。
本を読むのに疲れると、顔を上げて川釣りをしているおっさんたちを眺める。糸釣りをしているおっさんがひとりいて、当然竿はないしここからでは糸も見えないのだが、もしこれがパントマイムの練習だったら笑えるなぁと勝手に創造してほくそ笑む。もうタフでワイルドというより休日のノホホン・アワーである。
最初にこの多摩川まで遊びに来たのは小学校6年くらいの時だったか。小学校の時、仲の良かった友達が成城の私立高校に転校して、その学校からそれほど遠くない多摩川に連れて行ってもらったのが最初ではなかったか?東京でありながら周囲には結構緑が残っていたので、家からほどほどの距離で田舎気分が味わえる場所として以後、重宝するようになった。中学になってやはり仲の良かったK君が喜多見の野川沿いの家に引越しをして、そこへ遊びに行った時もよく多摩川までチャリで遠征した。彼とは高校に進学して学校が別になっても、川チャリ友達として定期的に付き合いが続いた。彼も私も映画が大好きだったので、川の畔ので夜通し映画の話で盛り上がったり、オリジナルのストーリーを考えたり発表しあったりして遊んだ。考えてみれば、「物語」を創ることはこの頃から、当たり前の遊びのようにするようになった。
高校二年で演劇部に入り、今度は自分の創った「物語」を台本にして仲間と一緒に舞台という表現で発表するようになった。生徒会に入ったことで出会った三木、宮沢たちを文化祭公演のスタッフとして借り出し、後には共に「石山海と劇団火扉」という劇団まで立ち上げた。
演劇部の役者仲間とスタッフとして支えるようになってくれた生徒会仲間たちと駆け抜けたこの時代は、我が青春時代のピークであったと今でも思う。まだみんな馬鹿だった、世間を知らなかった、学校の日常生活に馴染めない捻くれたはみ出し者の集団だった、しかし、まだ無垢なゆえに「物語」を創作する感動をダイレクトに、鮮烈に感じることができた。この頃の新鮮な感動を求める気持ちが、その後の私の活動の支えのひとつとなったのは間違いないだろう。
高校二年の文化祭、演劇部と生徒会スタッフとの初のコラボであり仲間たちがもっともひとつにまとまっていたこの公演の打ち上げをやったのも、この多摩川の河畔だった。まだ打ち上げ会場が居酒屋やカラオケじゃなかったこの頃、私たちはこの星空の下夜通しで飲み、歌い、騒ぎ、そして語り合った。それぞれが孤独を抱えていたから、いくら語り合っても話が尽きることはなかった。「このまま、時間が止まればいいのにね」とひとりの女子がつぶやいた。明け方になると皆で手を取り合って、何時間もかけて歩いて帰った。そんな青春が、私にもあった。
そんな我が青春時代を象徴するこの場所、さらには後に自分自身を蘇生するための聖地と決めたこの場所、そして今回の「タフでワイルドな旅」の出発点でありゴールにしようと決めていたここ、この二子多摩川のサッカーグラウンドに戻ってきたのは、ちょうど西日が瞼を刺す午後五時頃であった。
さて、三日間の旅を経て今こうしてゴールにたどり着いたわけだが、結局のところこの「タフでワイルドな旅」はいったいどこに帰結するのか?
もちろん無事にゴールにたどり着いたんだからそれでちゃんちゃんでいいじゃないか、ということなのだが、旅の前半の文字通りタフでワイルドな試練の連続に比べ、あまりに安穏とした帰り道に拍子抜けしてしまった私は、「果たしてここでゴールでいいのだろうか?」と自問せずにはいられなかった。
旅の初日に早くも横浜でDUNLOPのギアが大破し、小田原でペンチを買って応急処置するまで走っては修理走っては修理の気の遠くなるような作業が続いた。地獄の箱根越え、足がつるほど険しい道を汗噴出しながら登った。その山頂付近で発見した、異様な聖域「精進池」。自己の深層にまでダイブした御殿場付近での闇夜の果てしない急降下。極楽浄土のような魂の洗濯場「白糸の滝」。精進湖で見た紫陽花畑越しの富嶽の絶景。その富嶽の浅間大神に高飛車に勝負を挑み、ゲリラ豪雨で返り討ちにあったこと。浅間北口本宮で非礼を詫びた後、雨上がりの空にくっきりと浮かんだ富嶽の勝利宣言ともいうべき虹。それらの出来事は私が見失いつつあった自分自身の物語を、「メタファー(象徴)」という形を取って語りかけてきた。私もそれら現実の向こう側にあるような大いなる力(のようなもの)が発信するさまざまなサインを見逃すまいと、認識の力を最大限研ぎ澄ませながら旅を進めた。こうした非常に過酷でありまたメッセージに富んだ充実した旅の前半に比べ、帰り道は嘘のようにただの快適なサイクリングだった。物語というのはラストに向かってクライマックスが用意されているもので、中盤にピークを迎えてその後はただの蛇足というのでは、構成上かなりしまらないものである。現実はそのようなものだと言ってしまえばそれまでだが、やはりこれだけ苦労してたどり着いたのだから何かしらこの「物語」を帰結させる場所くらいないと、何だかやりきれない思いがする。
そんなことを考えながら、私はグラウンドが立ち並ぶだだっ広い芝生の周りを、フラフラと自転車で廻っていた。
そこでふと、DUNLOPを漕ぐ足を止めたのもまた偶然であった。
私が走っていたグラウンドと河原の間は背の高い、人の頭の高さくらいはあろう茂みが隔たっていてグラウンド側にいると河原の様子はその茂みに阻まれて見えない格好になっているのだが、その茂みの一角に妙に気になる空間があった。本当にわずかな隙間なのだが人が一人、雑草を掻き分けて入って行こうと思えば行けなくもない、本当に小さな獣道の入り口のようなものを発見したのだ。恐らく日常の中にいたらそんなものは気にも留めないだろうし、旅の中にあったらあったでやはり先を急ぐあまり見逃してしまっていただろう。しかし、この時私は、どこかにこの旅が帰結できるような何かがないかと探していたし、恐らく今まで以上に全認識力を研ぎ澄ませて、どんな小さなサインも見落とすまいとしていたからそれに気づくことができたのだろう。に、しても私がそんなところに入って行こうなどという考えが浮かぶまでにもかなりの時間が要した。いったんはそのままやり過ごしその場を数歩離れて行こうとしたくらいだった。しかし、やはりどうしても気になるのでもう一度戻ってみた。
これまでもそうだった。こうした気になる場所はきまって何かあるサインの兆候だった。しかし、こんな汚い獣道にこの軽装のまま入ってゆくのはどうも憚られ、そのままかなり躊躇していたが、最終的には、
「この先には必ず何かがある!今回は何と言ってもタフでワイルドの旅ではないか?こんな獣道のひとつやふたつで気にしていたら、浅間大神様に笑われるぜ!」
と、意を決してその藪の中へと入っていった。
自分と同じくらいの背の高さの藪を分け入って進んだ。獣道は入り口付近が一番鬱蒼としていて、しばらく行くと人一人無理なく通れるほどの幅になったが、それでも中ほどでは結構大きなスズメバチが飛んでいたりして危険なムードが漂っていた。昔、私はこのスズメバチというものがとても怖くて苦手だった。と、いうのも高校時代、生徒会&演劇部仲間と丹沢にキャンプに行った時、皆で焚き火をしていた所にスズメバチが飛んできて私の首筋に止まったことがあったのだ。ほんの数十秒の出来事だったと思うのだが、私には永遠の時間のように感じられた。「スズメバチに首筋なんか刺されたら一発でお陀仏だ」と相方の三木氏が呟いたとき、私は強烈に「死」というものを間近に感じたのだった。それは不思議な感覚だった。つい今まで皆で和気藹々と遊んでいたのに、その瞬間に私はその場にいた親友たちとの間に絶望的なまでの大きな壁の存在を感じた。それは「あんたらはこれから未来を生きてゆく者、私はこれから未来を断ち切られて死んでゆく者」という、絶対的な立場の違いだった。それは本当に孤独なことだった。「なるほど、死とは絶対的な孤独なのだ…」とどこかで達観しながらも、圧倒的な恐怖で身がすくんで動くことができなかった。「仰げ!仰げ!」と友たちが、団扇を持って必死に仰ぐと、そのうち蜂はブ〜ンという重い羽音を立てて飛び立っていった。私は脱兎のごとくテントに滑り込み、しばらく外へ出なかった。
あれから十数年が経った。今ここで、同じスズメバチを目の前にしても、あの頃ほどスズメバチに対して恐怖を感じるということはなかった。それは恐らくあの頃ほど「死」というものを忌み嫌っていないからだろう。あの時私が感じたような仲間との絶望的な距離感というものも、別に「死」を前提としなくとも感じるときはあるということも分かった。青春は終わり、友は去り、様々な喪失の果てにそういうものにいつの間にか慣れてしまったのだ。今の自分には残っているものの方が圧倒的に少ない。たとえここでこのスズメバチに刺されて絶命した所で、あの頃ほど大きなものを喪失したような気にはならないだろう。ただ、私の中にわずかに残されている「夢の名残のような風景」が消えるだけなのではないだろうか?
私はスズメバチの傍らを通過して、藪の向こう側へ抜けた。
そして、私は思わず驚嘆する。
何とそこには私が今、正に頭に想い描いていた「夢の名残のような風景」が広がっているではないか!
藪の向こう側は川原だった。
その川原の一面に、見たこともない美しい橙色の花が群生している。いや、それはどこにでもある平凡な花だったのかもしれない。しかし、正にこの瞬間強烈な西日に照らされてその花々はまるで黄金のように輝いて見えた。その輝きは遠くに行くにしたがって霧のように煙り、まるで川の流れに沿って巨大な銀河が現れたようにも見えた。
「何だ、これは!」
この世のものでない風景、極楽浄土、そんな形容がぴったりの幽玄な色彩に、私は思わず息を呑んだ。
そうだ、ここは正に高校時代の文化祭の打ち上げで、仲間と共に夜通し過ごしたあの場所だったのだ。考えてみればあの時もここへ出るためのあの獣道も通ったはずだったのだが、あの頃は秋だったのであの道もここまで鬱蒼とはしていなかったために、印象がまったく変わっていたのだ。そして、ここはこの季節にはこんなに美しい花々が咲き乱れる場所だったのだ。
そこは正しく、私のための場所だった。「あの頃の純粋な喜び、モノを創造することへの熱意、そしてそのなかで仲間と育んだ物語、それらは決して終わってしまったわけじゃない、ちゃんと今でもここで生き続けているんだ」風景が私にそう語りかけているように感じられる。それは恐らく、今この瞬間、この季節にこの時刻にこの天候、西日がちょうど今の角度で降る注ぐこの一期一会の瞬間にしか、語りえなかったメッセージなのだ。ここは正にこのタフでワイルドな旅の帰着点である。この一期一会の風景に出会うため、私は三日間も苦労して野宿の旅を続けてきたのだ。
打ち明けると今回の旅の動機のひとつとして、前日の記述でも触れたパウロ・コエーリョの「アルケミスト」を読んだ影響がある。羊飼いの少年が「ピラミッドの下に宝物が埋まっている」という夢のお告げを信じて旅をするのだが、最後に本当の宝を探しあてたのは最初に夢を見たまさにその出発点の下だったのだ。奇しくも今回の私の旅でも本当の宝は出発点であるここにあったのだ。
私はその景色のあまりの美しさに携帯を取り出して写メールを撮ろうとした。だが、結局はやめた。写真にとってしまえば、それはただの現実的な風景になってしまう。これはこの場所が、メタファーの形をとって私自身の「心」を写してくれているのだ。心までは写真に捕らえることはできない。
ここ半年間、自分自身を見失って本当に苦しかったし、くやしい思いを沢山してきた。そこから新しい一歩を踏み出したいために私は旅に出たのだ。その旅は、私自身がまだ完全には失われてはいないことを示してくれた。ならばそのメッセージはやはり写真ではなく「心」に刻み、明日から生きてゆく糧にしよう。それがまた新しい自分を発見するべく、本当の意味での「タフでワイルドな旅」の一歩であるように。
さらに言うと、この場所は私だけの場所でもなかった。何人かの男女のグループがシートを敷いてビールを飲み交わしている最中だった。彼らはちょうど、あの頃の私たちと同じ、青春を謳歌している真っ最中の若者たちなのだろう。そう、誰にでもこの風景は、この輝きは開かれているのだ。ここはそういう場所なのだ。私は彼らの脇を通り抜けてその場所に別れを告げた。きっと、彼らは若いからこの場所にたどり着くのもそれほど苦労しなかったことだろう。…しかし、34歳にもなるとここへたどり着くためには、地獄の山を越え、谷を下降し、三日三晩野宿をしながらDUNLOPを漕ぐようなちょいとした労力を使わないとたどり着けないのだ。

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