「残月」公演の終わった直後、「レクラム舎」なる劇団に出演依頼を受けた私はその翌日、三軒茶屋のサブウェイで鈴木一功さんと面会した。
一功さんは小柄だが、厳つい顔をした五十代半ばほどの方で、やたら早口で文字通り口泡を飛ばしながら熱く語った。胡散臭い雰囲気もどことなく漂う人だったが、逆に私は不思議な親しみを感じることができた。
レクラム舎は私が生まれた翌年の1976年に旗揚げされた劇団であるらしく、蜷川幸雄さんの所で修行を積んだ役者さんを中心に結成されたそうだ。次回公演は実在する作家、山本素石の評伝劇だという。タイトルは「逃げろ!ツチノコ」。これもツチノコ博士として知られる素石のエッセイのタイトルだという。台本を書くのが、プロジェクトMという劇団を主宰している丸尾聡さん。これがまた奇妙な縁で、丸尾さんと言えば二年前、横浜フリンジ・フェスティバルというイベントで高木先生演出の「横浜市街戦」に出演した時、フェスティバル事務局の理事のひとりをやっていたのが丸尾さんだったので、何度か顔は合わせたことがあったのだ。何かが知らないところでつながり始めた。
私を一功さんに紹介したのは一功さんと丸尾さんの共通の知人であるNHK制作局の進藤さんという方で、どうもそのフリンジ・フェスティバルの「横浜市街戦」を観て、主役をやっていた私のことが印象に残っていて推薦して下さったという、実に有難いご縁だったのである。光栄です。
にもかかわらず、まだその時の私には決心がつきかねていた。
もう少し考えてから正式に返事をしたいと申し出ると、一功さんはもうすぐ自分の一人芝居の公演があるから招待券を渡したいと言う。一功さんがどういう芝居をするのか興味もあったし、それを観た後で正式に返事をすると約束した。
一功さんが招待券を忘れたというので歩いて十分ほどの自宅まで歩いて取りに行くことになった。道がら一緒に歩きながら一功さんは私のことをまじまじと眺めながら、「出身はどこなの?」
「あ、世田谷です」
「…ふ〜ん…そうか、俺も世田谷の生まれなんだけどよ。でも東京の人間だって人目でわかるな…」
「え?どうしてです?」
すると、一功さんはこう答えた。
「…ダサいから」
…ガ、ガビョ〜ン!
「い、いや、俺も東京人だからわかるんだけどな。地方から出てきてる奴は舐められないように格好からバッチリ決めてる奴が多いんだよ、でも東京の人間はそういうとこ油断しちゃうんだよな」
もしかしたら、一功さんは「横浜市街戦」で演じた飛龍のように颯爽とした人物を期待していたのかもしれない。でも、実際の私はこんなものですよ。
一功さんは商店街の道行く人々にも気軽に声をかける人柄で、何だか下町の寅さんのようだった。
「ま、同じ世田谷生まれのよしみとして頼むよ!」
招待券を私に渡すと、一功さんは私の肩をポンと叩いて帰って行った。

0